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第十三話 明るい未来


 私は、夢の中にいた。そこは、何もかもが白く、ふわふわとした空間。重力から解放されたかのように、体が宙を漂っている。痛みも、悲しみも、焦りもない。ただ、穏やかな静寂だけが、私を包み込んでいた。


 私、もう死んだのかな……。


 どこか遠くで、そんなことを考えている自分がいた。このまま、この優しい空間に溶けてしまってもいい。そうすれば、何も苦しまなくて済む。

 その時、遠くから、誰かの声が聞こえた気がした。


「……ルーナ」


 低い、けれどどこか切なさを帯びた声。聞き覚えのある、大切な人の声だ。


 アシェン様……?


 その声は、微かに震えてるように聞こえた。私はその声に導かれるように、意識を向ける。白く霞んだ空間の向こうに、ぼんやりとした光が見えた。


「ルーナ!」


 声は、だんだんと鮮明になり、切迫感を帯びていく。私はその声に引き寄せられるように、光の方へと進んでいく。体は相変わらずふわふわと浮いているけれど、目的の方向に進んでいることは分かる。


 すると、次の瞬間。私の体が、強く抱き上げられるような感覚に襲われた。まるで、自分が溺れているところを、誰かが力強く腕の中に抱きかかえ、水面へと引き上げてくれるかのような……。


 その衝撃と共に、私の意識が、急速に浮上していく。白かった視界に、少しずつ色が戻り始めて……。


 私はゆっくりと、震える瞼を開いた。



 最初に目に入ったのは、見慣れた天井。そして、壁にかけられた、普段使いの外套。そこは、間違いなく自分の部屋だった。夜会の華やかさとはかけ離れた、簡素で落ち着いた空間。


 私は……どうしたのだろう。


 何があったのか自問しようと、口を開いた。しかし、喉から出るのは、か細い息のような音だけ。声が出ない。


 そして、私の視線は、ベッドサイドに座り込んでいる人物を捉えた。


 アシェン様だ。


 彼は私の細い手を両手で包み込むように握りしめ、顔を伏せている。その銀色の髪が、淡く輝いている。


 どうして、アシェン様がここに……?


 私は、混乱した。夜会で、バルコニーで彼といたのは覚えている。そして、指輪を貰って、幸せだと感じたところまでは。


 アシェン様の肩が、微かに震えているのが見えた。彼の顔が、ゆっくりと持ち上げられる。その瞬間、私は自分の目を疑った。


 アシェン様の頬を、大粒の涙が、いくつも伝っていた。どんな時も冷静で、感情を表に出さない彼が、泣いている。その瞳は赤く腫れ、彼の冷徹な印象とはかけ離れた、痛ましいほどに深い悲しみを湛えていた。


「アシェン……様?」


 か細い声が、ようやく喉から絞り出された。私は目の前の光景に、ただただ驚き、彼の涙の理由を探す。


 アシェン様は私の手を握りしめたまま、震える声で語り始めた。彼の言葉は途切れ途切れで、感情がこもっている。


「ルーナ、君は……三年以上、眠っていたんだ」


 私はその言葉に目を見開いた。三年以上? 『星降る夜会』からそんなに時間が経っているということだろうか。


 現実味はない。まるで、長い夢を見ていたかのような感覚だ。

 アシェン様は、視線を私の顔から指輪がはめられた左手へと移した。


「あの夜、君は……私の腕の中で、意識を失った。医者に見せても、手の施しようがないと。君の『生命の灯火』は、もうほとんど消えかかっていた……」


 アシェン様の声が詰まる。彼は深呼吸をし、言葉を続けた。


「君の病は、この世界のどんな治療法も効かなかった。だが、諦めるわけにはいかなかった。君が、私に……私に愛を告げてくれたのに、私が何も返せないまま、君を失うなど……」


 彼の言葉を聞きながら、私は彼の涙の理由を理解し始めた。彼は、自分のために泣いてくれているのだ。あの冷徹なアシェン様が。


「私は、あらゆる文献を調べ、あらゆる賢者に問い、あらゆる可能性を探った。そして、この国には伝わっていなかった、古代の魔術書の中に、君の病に似た症例と、それを一時的に『止める』方法が記されているのを見つけた」


 アシェン様は、私の手をさらに強く握りしめた。


「それは、対象の生命活動を極限まで抑え込み、擬似的な仮死状態を作り出す術だ。危険な賭けだった。だが、他に方法はなかった。君が完全に命を落とす前に、その術を施し……そして、治療薬が見つかるまで、君が生きられるようにしたんだ」


 仮死状態。三年以上もの間、自分は生きていたけれど、眠っていた。アシェン様が、死んでしまう寸前の自分を救い、治療法が見つかるまで、時間を稼いでくれた。


 私はアシェンの言葉を信じられない思いで聞いていた。彼の目に映る深い疲労と、頬に残る涙の跡が、その言葉の全てが真実であることを物語っている。彼が、自分を救うために、どれほどの苦労を重ねてきたのか。


 私はアシェン様の手を握り返した。その力は弱々しかったが、私の心の中には、感謝と、そして言葉にできないほどの温かい感情が満ち溢れてくる。この一年以上の間に、彼がどれだけ自分を想ってくれていたのか。それが、痛いほど伝わってきた。

 

 これからも生きられる……! アシェン様の傍に、いられるんだ!


 その事実が、私の心にこれまで感じたことのないほどの喜びと希望を灯した。体にはまだ力が入らないけど、心は、かつてないほど力強く鼓動している。私は出せる力を振り絞って、アシェン様の手をさらにきつく握りしめた。そして、掠れた声ながらも、全身の愛を込めて、彼に伝えた。


「アシェン様……私……本当に、本当に、あなたを愛しています……っ!」


 その言葉は、涙で震えていた。これまでの諦めが混ざったような告白ではない。冗談でも、彼の反応を楽しむものでもない。純粋で、偽りのない、心からの愛の言葉だった。


 アシェン様は私の言葉を聞いて、私を真剣な瞳を見つめる。


 そして、彼は私の額に、そっと自分の額を寄せた。


「私もだ、ルーナ」


 アシェン様の声は、掠れていた。それでも、その言葉は、私の心に深く、確かに響いた。


「私も、君を、愛している」


 アシェン様からの、初めての「愛している」という言葉。それは、私がずっと夢見ていたけれど、決して叶うはずがないと諦めていたものだった。


 彼の言葉を聞いて、私の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。けれどそれは、今まで流したどんな涙とも違う、温かく、幸せな涙だ。



 窓の外では、夜明け前の空が、少しずつ白み始めている。新しい一日が、そして私たちの新しい未来が、始まろうとしていた。

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