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第十一話 最後の願い


 アシェン様の指先が触れる頬から、温かい熱が全身に広がる。涙で視界が滲む中、アシェン様がゆっくりと手を差し出した。


「もしよければ、一曲、どうだろうか」


 その言葉に、私は息を呑んだ。アシェン様が、私をダンスに誘ってくれるだなんて。まるで夢を見ているようだった。

 私の体は、もうボロボロだ。それでも、私は迷わない。迷うはずがない。これが、きっと最後の機会なのだからだ。


「……はい、喜んで」


 震える声で答えると、私はアシェン様の手を取った。彼の指は、大きく、そして温かい。


 アシェン様は私の腰にそっと手を回し、もう一方の手で私の手を優しく握ってくれる。彼が間近にいる。それだけで頬が熱を帯びて、全身が沸騰しそうなほど熱い。

 音楽が、ゆっくりと流れ始めた。アシェン様は私の目をじっと見つめ、リードするように一歩を踏み出す。私も彼の動きに合わせて、ぎこちなくも足を動かす。


 あれ……?


 不思議な感覚だった。これまでの体の重さや痛み、痺れが、まるで嘘のように消えていく。アシェン様の腕の中で、私の体は軽やかに舞った。足元がおぼつかないはずなのに、彼のリードに完璧についていくことができる。まるで、魔法にかかったかのように、体が自由に動く。


 アシェン様もまた、私の変化に気づいたようだった。彼は優しく目元を緩め、私の腰をさらに引き寄せた。私たちの距離は、これまでになく近づく。


 私は、アシェン様の肩にそっと頭を預けた。彼の胸から伝わる温かさ、そして、規則正しい心臓の音。まるで、彼の生命力が、私の枯れかけた生命の灯火に、一時的に力を与えてくれているかのようだ。


「アシェン様……」


 私は、彼の胸に顔をうずめたまま、小さく呟いた。


「私、今……本当に、幸せです」


 心からの言葉だった。何も混じらない、純粋な幸福感。私の口元には、これまでで一番、心からの笑みが浮かんでいた。


 アシェン様は、何も言わなかった。ただ、私の体を優しく抱きしめ、音楽に合わせて、ゆっくりとステップを踏み続ける。私たちの周りだけが、まるで時間が止まったかのように、静かで、そして温かい空間に包まれている気がした。



 


 広間の熱気から離れ、私はアシェン様に促されるまま、夜会のバルコニーへと出てきた。ひんやりとした夜の空気が、熱くなった頬を優しく撫でる。


 バルコニーからは、満月に限りなく近い月が天空の真ん中に堂々と浮かんでいるのが見える。その光は、王城の庭園を銀色に染め上げ、どこまでも幻想的な光景を作り出していた。


 ああ……もうすぐ、満月だな。


 私はその輝く月を見上げながら、心の中で呟いた。きっとこれが、私の見る、最後の月。


 隣には、アシェン様が静かに立っている。彼の視線も、私と同じように月へと向けられていた。彼の横顔は、月の光を受けて、いつも以上に神秘的に見える。


 私は、そっとアシェン様の方を向いた。


「アシェン様」


 彼の名前を呼ぶと、アシェン様はゆっくりと私に視線を戻した。その深い青の瞳に、私の姿が映り込んでいる。それだけで、心は弾んで喜びを感じる。


 私は微笑んだ。それは、これまでのどんな笑顔よりも、穏やかで、そして少しだけ悲しい笑みだっただろう。


「どうか、今までの私の言葉は、すべて忘れてください」


 私の声は、風に溶けてしまいそうなくらい、か細かった。アシェン様の表情に、微かな動揺が走る。彼の眉が、ほんのわずかに寄った。


「忘れる、だと?」


 アシェン様が、低く問う。その声には、不信と、そして理解できない感情が混じっていた。


「はい。すべて、貴方様が聞くまでもないものです。取るに足らない娘の、最後の暇つぶしだったと思って……どうか、忘れてください」


 そう言うと、アシェン様から視線を逸らし、再び月を見上げた。彼の目を見ていれば、きっと、真実を告げてしまいそうだったから。


 アシェン様の未来には、私のような存在は必要ない。だから、私のことは、何もかも忘れて、幸せになってほしい。


 ——それでも、ちょっとだけでも、彼の人生に私という存在を刻み込めたなら。それだけで、十分。


 それが、私の心からの願いだった。そして、彼への、最後の嘘。


 体に痛みが走る。腕や足の感覚が、薄れていくのが分かる。限界が近い。


 アシェン様が私の横顔をじっと見つめているのが分かる。彼は何かを言おうと、口を開きかけた。

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