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ネプティエへのてがかり その7

 きっかけは確か、八歳くらいのころだ。

 家族みんなで、近くの海に遊びに来ていた。両親が都合が空き、蓮少年が「夏と言ったら海に行きたい!」と駄々をこねたのだ。

 海に着いた紅羽家一行は砂浜にパラソルを立てて、そこを中心に遊んでいた。

 母はパラソルで涼みながら遊ぶ子供たちを眺め、弟と妹は父を砂に埋めて遊んでいた。

 蓮少年は浮き輪を抱えながら海に飛び込み、熱い砂浜から解放されて冷たい水に興奮していた。

「蓮ちゃん、あまり遠くに行っちゃだめよ?流されちゃうからね」

「わかってるー!」

 わかっていなかった。もう少し、もう少し、とバタ足をしていたら、あっという間に足が着かないところまで流されてしまった。

 様子がおかしいことに気づいた母が駆けつけた時にはもう遅く、沖にまで流されていた。

「蓮ちゃん!?蓮ちゃん!」

 母が慌てて叫ぶと、近くにいた人全員が大慌てになった。

 声が聞こえないところまで流されて、不安になった蓮少年は泣きそうになっていた。


 そこに、追い打ちをかけられた。


 ふと、後ろから浮き輪を小突かれた。後ろを見ると、映画でよく見るような背びれが目の前にあった。


 浜辺にいた誰かが叫んだ。


「サメだあああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」


 どこからやってきたのか知らないが、サメが後ろにいた。サメが人を食う怖い生き物だというのは、なんとなくテレビで見ており、蓮少年は知っていた。


 サメは大きく口を開けて、蓮少年の入っている浮き輪を噛んだ。


 その瞬間だった。


 蓮少年の目から涙が。鼻からは鼻水が。口からは叫び声が、我慢できずに噴きあがった。


「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっっっっっっっっっっ!」


 何かに捕まろうとして、とっさに目の前にあったものを右手で掴んだ。サメの頭だ。そのことに気づかず、蓮少年は残った左手を振り上げた。


 思いっきり、目の前のサメの頭めがけて振り下ろす。半狂乱になっていた蓮少年には、それがどんな結果をもたらすか、考える余裕もなかった。

 とにかく、ぎゃんぎゃんと喚きながら、左こぶしを振り下ろし続ける。それは、ライフセーバーのお兄ちゃんが水上バイクで救助に来てくれた時まで続いた。


 当時のお兄ちゃん曰く、「すごい力で、サメから離れようとしないから、水着を掴んで浜辺に引っ張ってきた」らしい。


 戻ってきたのは、わんわんと泣き続ける蓮少年と、青ざめた顔のライフセーバー、そして、ネギトロめいた頭になっているサメの遺体だった。


 あの時、泣きわめく蓮少年を、母さんはためらいもなく抱きしめて宥めてくれていた。サメの返り血で真っ赤っかになるのもためらわずにだ。


 そんなことを、落ちながら考えていられるのは、自分が多少は成長しているからだろうか。


 ともかく、蓮は泳げない。海に落ちれば沈む可能性が高かった。

 とはいえ、何もしないわけではない。蓮は、深く息を吸った。

 泳げないし沈むが、すぐに溺れるわけではないのだ。沈むだけならできる。


 そのまま蓮は海に落ちた。海の中は一瞬空気の泡が視界を遮るが、すぐに開けた視界になる。

 先ほど現れたデカブツは、全体像が見えるほどの大きさにまでなっていた。それだけ遠くにいる、つまりは潜っているということだ。

(クジラだったのか、あれ……)

 それならあのデカさも納得だ。沈みながら蓮は、あたりを見回した。

 何か掴まれそうなものはないか。手の届く範囲で。そんな都合のいいものはなかった。

(やっべえな、どうすっか……)

 そんなことを、水中で胡坐をかき、沈みながら考えていた時だ。


 メローラが軽やかな泳ぎで近づいてきた。

 そのまま蓮の身体を抱えて、水上に上がっていく。


 二人そろって海面から顔を出すと、思い切り息を吐いた。

「ぶはーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 メローラはせき込んでいるが、蓮は割と涼しげな顔をしていた。

「悪いな、助かったわ」

 メローラは蓮の言葉へのリアクションを返さず、代わりに蓮を連れて泳ぎ始めた。見えたのは、ひっくり返って露になった船底だ。さっきの衝突で穴が空いている。そこには船の持ち主の老人もしがみついていた。

「おお、兄ちゃんたちもなんとか生きてるか」

「あんたもな、爺さん」

「いやあ、わしは……」

 言うと同時に、老人の口から「ごふっ」と血がこぼれる。

「寿命が、縮んだわい。……見た通りな」

 病床の身で海に叩きつけられて、無事なわけがない。

「爺さん……!」

「……さて、どうする。このままだと、この船も沈んじまうぞい」

「……沈むまでなら、何とかなるわな。爺さん、船の上乗れるか?」

 老人は蓮の言葉に、身体を船の上に這い上がらせる。

「お前も。上に乗ってろ」

 蓮は、メローラも船の上に乗せた。

「何する気だ、兄ちゃん……」

 老人の言葉を聞きながらも、蓮はあたりを見回す。一番近い小島を見定めた。老人の体力もあるし、まずは一刻も早く陸に上がらないといけない。

「船に捕まってろ」


 確かに、蓮は泳げない。クロールもできなければ、平泳ぎもできない。


 だが、ビート版など、水の中で何かに捕まって、浮いていることさえできているのなら。


 バタ足くらいは、できるのだ。


 蓮が足をバタつかせると、浮いていた船は推進力を得た。下手をしなくとも、沈む前よりも強力な推進力だ。

 すさまじい勢いで、船は進みだした。目の前の島が、どんどん近くなっていく。


 水を切り、沈みかけの船底に二人を乗せ、船は猛スピードで進んでいった。


 島にたどり着いたのは、蓮がバタ足を始めて三分足らずである。

 砂浜にたどり着くと、すぐに老人を寝かせた。


「とりあえず、島には着いたけどよ……」

 海の向こうを眺める蓮に、メローラは目を丸くしていた。

『あなた、泳げたの!?』

「勘違いすんな。浮いてりゃ何とかなるって話だよ。水の中じゃああんなことできねえ」


 どうしたものか。爺さんの手当て、アイシャたちへの救難信号。やらなければならないが、できないことが多すぎる。

 そんなことを考えていた時だ。


 後ろの森から、人影が現れた。先に気配に気づき、振り返ってみると、そこには見覚えのある顔があった。相手も、間抜け面でこちらを見つめている。


「お前…………!」

 目の前の相手の持っていたヤシの実が、彼の足の、むき出しの小指に落ちた。

 声にならない叫びが、無人島に響いた。

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