恐慌
朝7時30分。
アタシはいつもどおりの時間にたかちゃんの家に到着する。
「おはようございます、おじさんおばさん」
「おはようしーちゃん。
上がっちゃっていいわよ」
「お邪魔しまーす!」
毎日毎朝365日――は言いすぎだけれど、そのくらいの頻度で繰り返されるお約束のやり取りを経ていざ階段の前。
一瞬、自分の身だしなみは大丈夫かな?前髪跳ねてたりしないかな?と躊躇する。
玄関をくぐる前に何度も見直したはず。大丈夫。そう自分に言い聞かせる。
たかちゃんはアタシのことをオシャレとか気にしない女だと思ってるみたいだけど、そう思ってるのはたかちゃんだけ。
たかちゃんだけが、アタシの変化に気づいてくれていない。
__否、それは違う。
だってアタシがなるべく気づかせないように振舞ってるから。
気づいて欲しいのに気づいて欲しくない。
もし気づいてしまったら今の関係が変わってしまう、壊れてしまう。
そんな確かな予感があるから。
__だからもうしばらくはこのままで。
意を決して階段を駆け上がる。
そして間髪入れずに勢い良くドアを開け放ち朝の挨拶。
いつも通りの元気なアタシを演じ
「おっはよーたかちゃ……たかちゃん?」
られなかった。
だってそこには、自分の左腕を掻き抱くように抱え、呆然としている異常な状態の彼が居たから。
彼は一度もこちらを見ずに
「……悪い詩乃。
今日は一人で行ってくれるか?」
搾り出すようにそう言った。
酷く沈み込んだような、なにかに怯えているようなそんな声音。
ここ数年そんなたかちゃんの声は聞いたことがない。
いやひょっとしたら初めてかもしれない。
尋常ではない事態が起きているのだ。それは間違いない。
「たかちゃん、なにかあった?
それにその左腕」
チラリと見えたそこには、昨日まではなかった蚯蚓腫れのような酷い怪我の痕があった。
それは異常なこと。
だって怪我じゃない、『怪我の痕』なんだ。
指摘されたたかちゃんは掛け布団を巻くりあげ左腕を隠す。
それもまた異常なこと。
「ごめん、詩乃。
本当になんでもないから」
そんなわけはない。
誰よりもそばで誰よりも彼を見てきた。
そのアタシが初めて見る。
ここまで怯え、ここまで追い込まれている彼の姿を。
だから助けになりたい。なんとかしてあげたい。一緒に悩みたい。考えたい。
感情が昂ぶり抑えられずに『なんでもないわけないじゃない』と叫びそうになった。
だけど出来なかった。
彼の目が、今日初めてぶつかった視線が、明確に拒絶の意志を持っていることが解ってしまったから。
「__先、行くね」
踵を返し急ぎ階段を駆け下る。
彼に嗚咽が聞こえぬうちに。
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とうとう夜がきた。
眠るのが恐ろしい。
またあの世界に行ってしまうから。
今朝は詩乃がやってくる前に起床した。
目覚め自体は悪くない。いや、いつもより良いくらいだ。
今日の夢はなかなかスリリングだったなと、その程度の感想だった。
__左腕を見るまでは。
あり得ない。
夢の中で受けた傷、そして治癒魔法で完治までもう少しという程度までは治してもらった痕。
それがそっくりそのまま左腕に刻まれていた。
あり得ない。
あれは夢。ただの夢の筈だ。
だからあの世界で傷を負おうが死んでしまおうが、それは現実の俺には影響を及ぼさない。
そうであるはずだ。そうであるべきだ。そうでなければならない。
あり得ない。
もし何かの間違いで、あれが夢ではなく現実。異世界的ななにかだったんだとしても、その身体はアラニスのものだ。
こちら側の俺の身体に傷がつくなんてあるはずがない。
あってはならないんだ。
__だって。
___だってそれを認めてしまったら。
『俺は昨日死にかけた』ってことだから。
身体の中心に凍らせた鉄の棒があるみたいだ。
中から中から凍てつくような冷たさが全身に広がる。
ガチガチと歯の根が噛み合わない。
取り留めなく止め処なく際限なく悪い想像ばかりが溢れてくる。
それを埋め潰すように楽観的な空想、希望的観測を夢想する。
そうこうしているうちに日は暮れ、夜が訪れた。
眠らなければいい。
寝なければあの世界に行くことはない。
あんなすぐ隣に死が転がっているような世界には。
だがそんなことは無駄だと解っている。
あちらの世界から戻る時のあの感覚。
抗いようのない力が働いているのだ。
23時50分。
せめて布団には入らない。
わずかばかりの抵抗を試みる。
今朝、詩乃になにを言っただろうか。
酷い事を言わなかっただろうか。
なるべく穏やかに『心配ない』と伝えたつもりだ。
だけど最後に一瞬見たアイツの瞳には、困惑と怯えの色があったように思う。
そして去り際、おそらく泣いていた。
唐突にグラリと地面が揺れた。
景色が傾く。
傾いているのは自分だと気づく。
逃げられない。
連れて行かれる。
(もっとアイツの顔、ちゃんと見ておけばよかった)