女難の相
常であれば、異世界で貴也が目を覚ます時には傍らで誰かがそれを待っている。
それは睡眠中で無防備な貴也を守るためでもあり、必須事項でもあった。
だから、今目覚めようとする貴也に対して声をかけるものがいないのは異常事態である。
いつもよりも深く眠っていたような感覚。
泥濘の中からようやく意識を浮き上がらせて、貴也は辺りを見回した。
「おはよーダーリン」
有体に言えば修羅場だった。
一番早く貴也の目覚めに気付き声をかけたのはリュシアナ。
それに対峙するように、殺気を漲らせているのはエンカ、ノゥ。
事態を飲み込めず、ベッドの中でおろおろしているのがルーインである。
「なにこの状況」
その声に、漸く貴也の目覚めを知り、ルーインが声をかける。
「あ、おはようございます貴也さん。
あの、この方はどちらさまでしょう?
突然貴也さんの身体の中から湧き出て来たように見えたのですけど」
「どちら様でもない!
ただの破廉恥で汚らわしい森の魔物よ!
今すぐ叩いて潰して粉にしてあげるわ!」
状況は飲み込めたが、どう話したものかと頭を悩ませる貴也。
とりわけ親の仇のごとく、凄まじい殺意と怨嗟と怒りに塗れているエンカを落ち着かせるのには骨が折れそうであった。
だが傍観するわけにもいかず、仕方なく貴也はリュシアナを庇うように進み出る。
「待ってくれエンカ。
今コイツに対する誤解と、こうなった経緯を説明するから」
「さっすがダーリン!
やっぱりウチのことを守ってくれるんだぁ!」
背中に二つの柔らかさが押し付けられ、リュシアナの手が腰に回る。
するとエンカだけではなくルーインまで殺気を滾らせ始め、慌ててリュシアナを引き離す。
「お前もちょっと待て!
なんで火に油を注ごうとしてんだよ!
ってかなんでお前ここにいるんだ?
消えたんじゃなかったのか?」
えー?と拗ねるような素振りを見せ、貴也の疑問には答えないリュシアナ。
『恥ずかしいから言いたくないしー』などと、訳の分からないことを言って煙に巻く。
まともに取り合っていては、一向に話が進まないので無視。
仕方ないので、とりあえず場を落ち着けるために貴也はエンカに向き合う。
「リュシアナがなんの魔物か、エンカとノゥは知ってるよな」
「当たり前だ。
この世で最も汚らわしい種族、サキュバスよ!」
『えー、酷くなーい?』と貴也の背中から抗議する声が聞こえるがこれも無視。
というか、リュシアナ自身はこの状況を楽しんでいるようにすら見えて、努めて冷静な貴也の拳もプルプルと震え始める。
「で、コイツは俺が寝た時に夢に入ろうとしてきたみたいなんだ」
「だ、大丈夫だったんですか?
サキュバスに夢に入られるということは、あの……その……」
言い淀み、ルーインの頬が紅潮していく。
まだ幼いと思っていたが、そういった知識はあるらしい。
ノゥにはその知識はまだないらしく、小首を傾げているので貴也は安心した。
「大丈夫。
夢ではなく、向こうの世界に出てしまったんだ。
だからリュシアナは、魔法も使えず夢じゃないから操ることも出来なくて事なきを得た」
ホッと胸を撫で下ろすルーインとは違い、エンカはますます怒りを漲らせる。
そろそろ庇いきれるか不安なほどである。
「やはり危険で狡猾で姑息な魔物ね!
二度と貴也に手を出せないようにしてあげるから、そこをどきなさい貴也!」
エンカのリュシアナに対する罵詈雑言には限りがない。
先日の森の中でのことを引きずっているのは、傍目に見ても明らかだった。
それを手であやしつつ、貴也は続ける。
「向こうで俺の知り合いが、偶然の事故で命の危険に晒されたんだ。
その時、コイツは自分の命を顧みず助けてくれたんだよ。
だから、俺はリュシアナは悪い奴じゃないと思う」
そう、リュシアナは自分の存在を維持出来ないほどの力を使って消えかけていたはずだ。
それがなぜ今ここにいるのかは未だ釈然としないが、後ろに答えを求めても応じる気はないらしい。
と、前方からブチッと何かが切れる音がした気がした。
見ればエンカの瞳。怒りを通り超えて、虚無になっている。
「あぁそう。そういうこと。
つまり貴也は向こうでその売女に誑かされてしまったのね?」
抜き身の刀のように、触れれば斬れるほどの殺気を纏い、ゆらりと近づくエンカ。
詩乃も恐ろしかったが、物理的な意味ではエンカのほうが遥かに怖い。
もう投げ出してしまおうかと諦めかけるが、それはそれで詩乃に殺されそうで八方塞り。
リュシアナに出会ってから女難の相が色濃く顔に表れている気がして、貴也は天を仰ぐ。
「はぁ~……」
観念したのか、背中のリュシアナが貴也を押し退け前に出た。
いや違う。観念などしていない。
ちらりと見えた凶悪で淫靡な笑みに、貴也はそれを感じた。
「エンカちゃんさぁ。
あんまりしつこいと、言っちゃうよ?」
雷に撃たれたように、ビクンとエンカの身体が跳ねた。
殺意しかなかった瞳は力なく宙を彷徨い、唇がワナワナと振るえている。
「き、貴様……」
それだけ言えば十分と、キャハハと無邪気に笑いながら再び貴也を盾にするリュシアナ。
言っちゃう?何か弱みでも握られているのだろうか?
だとすれば、あの森の中でエンカがあんな状態になったことに関係のあることだとしか考えられないが……。
「ま、そういうわけだからさ。
とりあえず落ち着きなって」
怒りの矛先を向ける場所を失い地団駄を踏むエンカ。
その内容を知りたいという好奇心はあるが、エンカの暴走を抑えられている間にと、貴也は話を進める。
「一悶着はあったけど、俺はリュシアナは悪い奴じゃないと判断して放置していいと思う。
それと、これは本人が言っているだけで裏は取れてないんだが、どうやらコイツは勇傑の7人の一人らしい」
「ふざけないでッ!
そんな戯言を信じるとでも思う!?」
エンカの怒りが再燃するのも無理はない。
彼女は姉が勇傑の7人であることを誇りとしているし、それは気高く尊いものだと信じているのだから。
事実貴也だってそれに近い感情を持っていた。
だから言うべきかどうか迷ったのだが、仮に事実であれば姉の、レスタシア・クォルツの情報を持っているかもしれない。
そう思い踏み込んだのだ。
「ホントだし。
てかウチは別になんとも思ってないけど、そうあからさまに否定されるとイラッとするわぁ」
「高潔にして清廉なる勇傑の7人に貴様のような不浄な、しかも魔物がいるなど信じられるわけがないでしょ!」
「はぁ~!?
アンタなんか勘違いしてない?
別にアイツらは仲間とかそんなんじゃないわよ。
アラニスにとっては、強かったり役に立つなら連れて行くとか、その程度だったし。
だから魔物とかなんとかは関係なかったんだと思う」
言いながら、僅かにリュシアナの声が沈んでいくことに貴也は気付いた。
それはきっと、悲しさと悔しさ。
ただ役に立つ。それだけの関係だったことを感じさせる声音だった。
しかしそれは、同時に勇者アラニスを侮辱することにも繋がる。
彼の人間性が、非情で損得のみで人を集めるような人物だと言っているのに等しいのだから。
ルーインまでもが色めき立つのを見て取り、リュシアナは降参とばかりに諸手を挙げた。
「はいはい、アンタらの理想の勇者様を精々信じてなさいよ。
ウチはもう面倒だから帰らせてもらうわ。
まぁ、どこにいてもダーリンの居る場所にはすぐに出てこれるし」
どういう意味だと問いかける間もなく、リュシアナの身体はフッと煙のように貴也の胸に吸い込まれていってしまった。
慌てて胸を肌蹴て見るも、なんの痕もない。
大丈夫かと駆け寄るエンカとルーインになんともないと告げると、頭の中で声が響いた。
『サキュバスは一度入った人間の所なら、いつでもどこでも現れられるからねー。
ずっと見てるよダーリン』
えぇ……とゲッソリする貴也。
目に見える場所に火種がないのは助かるが、これはこれで気が休まらない。
『あ、それと、向こうの世界にはもう行かないようにするから安心していいよ。
詩乃に申し訳ないしね』
それっきりリュシアナの声は聞こえなくなった。
詩乃に申し訳ないというのがどういう意味か問い質したかったが、こちらからの呼びかけには応答しない。
諦めて、目の前の仲間達と今後について話し合うことにする。
「本当になんともないの?」
なお心配そうなエンカの表情には、リュシアナに対する不信感がありありと表れていた。
もう一度『大丈夫だ』と告げると、今度はルーインがおずおずと手を挙げる。
「あの、貴也さん。
リュシアナさんが言っていた『ダーリン』ってどういう意味なんですか?」
女難の相はまだ消えていないらしかった。




