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なにもわからなくとも

 チュンチュンと皮肉なほど平和な鳥の(さえず)り。

 走り去る原付バイクのエンジン音。


 戻った。

 戻ってきてしまった。


「くっそッ!!」


 感情にまかせて壁を殴りつけるが、どうにもならない現実だけが目の前にあった。

 起きてしまった以上、もう向こうには干渉出来ない。

 あの状況で、文字通り戦場の只中で眠ってしまっているのだ。


「痛ッ」


 唐突に右肩に痛みが走る。

 斬られたような、刺されたような、突かれたような。


 ガバッと掛け布団を蹴飛ばし、確認する。

 いや、確認するまでもなく目に飛び込んできた。

 全身にわたる、斑の様な血痕。

 そのほとんどはもう乾いているが、今しがた痛みを訴えた患部。

 右肩からは血が吹き出している。

 出血を止めようと、慌てて手で押さえると、みるみる傷は塞がった。


(治った?――いや、治してもらったのかッ!)


 ありありと状況が目に浮かぶ。

 急に眠ってしまった貴也を庇い、傷を負うたびに治療するルーインの姿が。


「ぐッ!」


 突然の痛みに、意識せず足を押さえる。

 今度は右足の脛を攻撃されたようだ。

 これも間を置かず、すぐに治療が施される。


 どうする?どうしたらいい?

 いつどこにやってくるか分からない痛み。

 見えていれば構えることが出来る。痛みがくると分かれば覚悟も出来る。

 だが、今はそれすら出来ない。

 しかも性質(たち)が悪いことに、それがまだまだ来ることだけは分かってしまうのだ。

 五分後か?一分後か?十秒後か?


「がぁッ!」


 激痛ではない、灼熱だった。

 なにも見えない、どうなっているのか分からない。

 ただ、右手の肉が燃え、爛れ、溶けていく。

 手を押さえて悶絶してもどうにもならない。

 わずかすら、痛みを逃す術がないのだ。


 直後、なにごともなかったかのようにスゥーッと痛みは引いていく。

 だが痛かった、熱かったという経験、恐怖はそう簡単に消えるものではない。

 次の瞬間またそれがやってくるかもしれないという恐怖と、それに対して無力だという絶望。

 そればかりか、唐突に命を失うことだってありえる。

 強烈な痛みと、熱と、死の前で、ただ無防備に立ち尽くしていることしか出来ない貴也。

 彼に出来るのは、気が狂いそうになりながら(うずくま)り、枕を噛んで耐えることだけなのだから。




 ――包まれた。

 不意に全身を、柔らかく暖かいもので包まれた。



「たかちゃんッ!」


 詩乃だった。

 想像を絶する恐怖の中におかれた貴也は気付けなかった。

 あのわざとらしくドタドタと駆け上がる階段の音にも。

 蹴り開かれると同時に聞こえる、聞き慣れた活発で優しい声も。


「たかちゃんッ!」


 もう一度名前を呼ばれる。

 詩乃としても、それ以外出来ない。

 なにが起きているのか、どうなっているのか、全く現状が把握出来ないのだ。

 ただ、これだけは分かる。

 大好きな幼馴染が、今想像を絶する恐怖と戦い、予想だにしない窮地に追いやられているということは。

 だからもう一度、詩乃は抱きしめ叫ぶ。


「たかちゃんッ!!」


 その呼びかけにどれだけの効果があったのか。

 呼びかけられた程度では、痛みも熱もなくなりはしない。

 だが、意識が浮かび上がるような感覚を、確かに貴也は感じた。

 ひょっとしたら、本当に狂ってしまう寸前だったのかもしれない。

 固く結び閉じた瞼を、ようやく開く。


「……詩…乃」


 ひとまず詩乃は安堵する。

 状況は不明だが、貴也は貴也のままであると。


「これはなに?いったい何がおきてるの?」


『これ』とはなんだろう。

 血だらけになった衣服のことか、狂気に潰されかけた自分のことか。

 だが『何がおきている』かは分かる。分かっている。

 しかし話してもどうにもならないだろう。

 そもそも信じるだろうか?こんな現実離れした話を。


「――分からない……わけじゃないんだね」


 詩乃は鋭く言い放った。

 貴也が置かれている異常な事態は、決して貴也のあずかり知らぬことではないのだと見抜いて。


「がッ!」


 どんな状況であろうと痛みは待ってくれない。

 それはそうだ、相手は魔物。

 こちらの意など関係ない。


「たかちゃんッ!傷がッ!……治った?」


 新たな出血を確認し、すぐに手で押さえようとした。

 だが、それが自然治癒というには早すぎる速度で完治する様を、詩乃は目の当たりにする。


「なにこれ?なんなの?」


 分からない。分からないがただごとではない。

 自分の手には負えないと、詩乃は立ち上がり階下の両親を呼びに行こうとし、だが貴也に腕を掴まれる。


「ダメだ詩乃。誰にも言うな」


「だってッ!」


「分かってるから。

 こうなってる原因も、誰にもどうにも出来ないってことも」


 そう言われても納得できるようなものではない。

 しかし貴也の目が言っている。信じろと。

 そうされたら詩乃は信じるしかない。


「病気……それか、なにかの呪いとか?」


 病気が一番妥当な線だと詩乃は思う。

 だが、それにしても不可解すぎるのだ。

 であれば、なにか超上の力、そんなものがあるかは知らないし信じてもいないが。


「呪いか」


 詩乃から飛び出した意識外の言葉に、貴也は思わず吹き出だした。


「な、なによッ!アタシだってそれはないかなって思ってるしッ!」


「いや、なんか言い得て妙というか、絶妙だなと」


「たかちゃんが教えてくれないからでしょッ!

 ――それで、今アタシに出来ることは?なんでもするから言って?」


「なにも――」


「なにもないは禁止。

 当たり前でしょ。こんな状態のたかちゃんを放っておける訳ないじゃん」


 遠慮なく、貴也の事情にズカズカと踏み入ってくる。

 気味が悪いだろうに。怖いだろうに。

 それでも詩乃は、必死に何か自分に出来ることを探してくれているのだ。


 正直救われる。

 一人だったら、この恐怖と絶望にとっくに押しつぶされていたかもしれない。

 事実、そうなる寸前だったと、今なら冷静にそう思えた。


「痛ッ!」


 また右腕。

 今度は二の腕辺りを切り裂かれたようだ。

 しかし、しかし――。


「回復……しない……?」


 幸いに傷は深くない。

 詩乃は階下に走ると、二段飛ばしで階段を駆け上がり、戻ってきた。


「包帯、黙って借りてきちゃったけどいいかな?」


 なぜ人の家の救急箱の位置まで把握しているのか疑問ではあるが、手際よく応急処置をする詩乃を茶化す気にはなれなかった。

 だが、なぜ今度の怪我は回復しないのか。

 詩乃にはまったく分からないが、貴也は一つ思い当たり、顔が青ざめる。


「まずい、まずいぞ。

 しかしどっちだ?単純に魔力切れか?

 それならいい、いやいいとは言えないが。

 だがもし、もしもルーインに何かあったのなら……」


 意識せず言葉が漏れる。

 詩乃は注意深くそれを聞くが、やはり意味はいまいち掴めない。

 とにかく、今なにかまた不都合な事態がおこり、状況が悪化したという気配だけは感じ取れた。


 今も、あちらの世界の状況は目まぐるしく変化している。

 治癒魔法が使えなくなったのはなぜなのか?

 逃げ果せる目算はついたのか?味方は無事なのか?

 なにも分からない、なにも出来ない焦燥感だけが募っていく。


 ――貴也の手に、そっと詩乃が手を重ねた。


 あぁ、そうだ。

 詩乃だって同じだ。

 今の自分の状況に対して、なにも分からずなにも出来ないのだから。

 それでも彼女は懸命に探し、慰めてくれているではないか。


 それに気付き、貴也は語ることにした。

 信じてくれるかは分からない。

 到底信じることなどできない、不思議な異世界の話を。



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