短腹(たんぱら)。
短気。
ゴールデンウィークを目の前にして、クラスの空気は春の生温い光の中の様だった。
桜祭りの相談をする者、部活の相談をする者……様々だ。
俺はといえば、ゴールデンウィーク明けすぐの模試ともう一つの懸念で頭がいっぱいで、そんな温かなざわめきさえ耳障りで、放課後の橙色の廊下をネズミのように卑屈に逃げ帰った。
今日、六時間目の終わりに教室に入ると、彼女は俺の隣に居なかった。
表向きは風邪という事になっているが、まさか。
彼女は人間じゃない。
幾多の科学者達が流した汗と涙の、一つの結晶。
科学技術の進歩の、一つの結果。
それが彼女だ。
彼女の左胸からは心音は聴こえない。
代わりに聴こえるのは、無機質なモーター音と、精いっぱい人間になろうと努力する音。
それだけ。
そこに母のような安心感は無いし、勿論、そのような温もりも無い。
あの日、帰り道、彼女は良川五月の暗殺の為の道具だと言った。
確かに、そうかもしれない。
でも、俺は何か別の物を感じた。
手を触れ合った時、彼女が微笑んだ時……
本当に彼女が暗殺だけをタスクにしているのなら、俺は彼女に笑いかけたりしなかったはずだ。
何年か振りの、心からの笑いを……
俺は走った。
教科書で丸々太った革の鞄を抱きかかえ、桃色の風の中で俺も一つの風になった。
確信は無い。
無いけど、そこへ行けば彼女がいるような気がしてならなかった。
特別塗料で舗装された坂を駆け上り、一本の桜の木に辿り着いた。
丘の上の、立派な八重桜。
アオモリの大飢饉も、大地震もこの場所で見届けた歴史の生き証人。
桜は語らない。
ただ、そこにあるだけだ。
あるだけなのに、その姿を見るだけで胸が痛いような高鳴るような、不思議な気持ちになる。
だから俺は、この丘によく来る……
目線の端をピンクの風が通り過ぎて、視界が開けた。
津軽フジヤマは、やはり、その威厳のカケラも無くビルとビルの狭間から覗くように、ひっそり息をしていた。
桃色の塊、豆粒みたいな人が歩く様が隅々まで見える。
でも、やはり窮屈だと思う。
あの景色を見てしまったからか。
科学が払った犠牲は、存外大きかったのかも知れない。
あの世界と変わりないのは、あのフジヤマと、この桜の樹だけ。
そう思うと、心の芯が凍える様に感じた。
桜の樹に近付いてみると、樹の隣のベンチに彼女は居た。
ただ、トレードマークのツインテールも、セーラー服も見当たらなかった。
だが……春風に嬲られる、長い髪の間からはあのナンバリングが覗いていた。
白いうなじが見え隠れした。
真砂よりもキメ細やかで、白いその肌を包んでいるのはウェディングドレスを彷彿させる、白いワンピースだった。
だが、彼女の肌があんまりにも白いせいでワンピースの白さは、どこかくすんで見える。
剥き出しの肩は小さく、まだ冷たい春の夕暮れの中ではかなり頼り無かった。
「ストガさん」
彼女の肩がすぐ隣に来るまで近付いて、そっと呼んでみた。
「トマトくん…ですか」
薄桃色の小さな唇が微かに、震える様に動いた。
彼女の両目は、眠る様に静かに閉じられていたが、顔は俺の方に少し傾けられた。
俺はふと、同じ仕草をする一人の人物の事を思い出した。
閉じられた瞼はやはり白くて、眼球の光が感じられるほどに、薄かった。
それは、ストガさんも同じだ。
どこか似ている……
何故か、桜に身体を預けるストガさんは触れたら温かで、柔らかいだろうと思わせた。
「トマトくん、どうしてここが分かったんですか」
ストガさんは目を開けない。
ただ、桜の凹凸不恰好な幹に、その研磨された真珠のように滑らかな手をくっつけていた。
時折その白さ故にか、静脈血のような青い光が透けて見えた。
血の通った人間ではあるまいし、そんな事はよもやあり得ない。
そう思っていたのに、今この光景を目にしたら一分の期待が湧いてしまった。
「トマトくん、ひとまずお座りなさい」
俺はそんな期待をほんの少しでも抱かせた彼女を半分恨めしく思って、苦い顔してベンチの端っこに浅く腰掛けた。
「…なして今日ガッコ来ねがったの」
ストガさんの薄い、ほのかに桃色の瞼が少し、俺の言葉に反応した。
だが、開いてはくれない。
「最近バッテリーを使い過ぎたので……今日は充電日なんです」
バッテリー、充電……
もう沢山だ。
自分の、この心に渦巻く果てしなく悲しい感情はなんなのか。
ストガさんが人間らしく思われる度、ストガさんが機械らしく思われる度に胸は地吹雪を起こし、眠るように静かに凍え、冬の大地のように荒涼たる寂寥感のみが、ただある。
でも、土中では確かに何かが蠢き、息している。
俺の心の深いところで息する、この感情は何だ。
自分にも分からない。
良川には知られたくない。
そして、彼女には……
彼女にだけは、知って欲しい。
なのに、彼女に伝える言葉を持たない。
俺の妙な視線に気付いたのか、ストガさんは目を閉じたまま、俺の方を見た。
こんなに整った顔の人間を、俺は知らない。
確かに雅の顔だって綺麗だけど、そこにミリ単位の正確さは無いと思われる。
人間の身体に、ミリ単位もしくはそれ以上のシンメトリーは存在しないからだ。
例えば二重まぶたの線の長さであるとか、左右の唇の山の高さだとか。ミリより細かく測れる物差しで測れば、どちらかは必ず長かったりするハズだ。
しかし……ストガさんにはそれがない。
不完全な人間を模していながら、外見は完璧を求めている。
ある意味ではチグハグで、不恰好な存在だとも思う。
そのうち、彼女は小さな薄桃色の唇をそれらしく震わせ、
「トマトくん、私に何を求めているんですか」
と、辛辣な鈴の音を吐き出した。
「何って……何も」
「そうですか?
……何故か、私と誰かを重ねて見ているような気がしたので」
「ちげぇし」
ストガさんの言葉が俺の胸を抉れる程的確に鋭くて、俺はそれ以上の言葉が出なかった。
本当は、もっと色々毒を吐くつもりだったのに。
「私は人間では無いです。
だから、トマトくんに人間と同じように見られるのは、辛いんです」
その表情があんまり辛そうだったから、俺はますます喉に言葉を詰まらせた。
その言葉の小骨が何本も喉に支えて、本当に痛くなってきた。
「俺……そういう風に見てる? 」
分かりきった問いだった。
そして、狡い問いでもあった。
俺は現実を黙認するだけの器が無くて、ストガさんに言わせようとしてる。
だが、俺の思惑は外れ、ストガさんは「さぁ、どうでしょうか」としか、言わなかった。
その言葉の奥の感情が分からなくて、俺は北風を肌で感じた。
実際、吹いているのは暖かで少し冷たい春風のハズだ。
なのに、俺には凍えるような冬の風に感じられた。
目の前に吹き荒れる桜の嵐が、まるっきり色を失って、雪の降る景色に見えた。
俺とストガさんの間には、冷たい氷の壁がある。
それは科学の進歩が生み出した弊害であり、人間の限界そのものでもあった。
「トマト君は私を壊してくれますか」
「……は? 」
先触れも無く告げられた言葉には、静かな怒気が……実際に籠っている訳ではなかろうが、感じられた。
「なんで俺がストガさんを殺さないとなんねぇの」
「私が良川五月を殺すからです」
「どうして」
「トマト君は知らなくていいことです」
「なんで⁈」
喉がはち切れる様な声が飛び出した。
ストガさんは迷惑そうに眉を顰め、その大きな瞳を見開いた。
怒り だろうか。
「トマト君はもう、子供じゃないんです!
聞き分けのない事を言わないでください!
短い脚を中途半端に突っ込むから、あなたはそんな、宙ぶらりんに、三つ巴に、挟み撃ちに遭うんです!
あなたは良川五月を殺した私を今と同じ目で見れますか⁈
見れないはずです。
いいですか。
あなたのボートは、一人乗りです」
ストガさんの示すものは間違いなく、怒りの感情だった。
ていうか、脚の長さは今、関係なくね?
さらりと俺のコンプレックスを言い当てた彼女の真意は、分からない。
俺の無責任を怒っているのかもしれないし、もっと違う事を考えているのかもしれない。
ストガさんがロボットだから分からないとかそういう事ではなく、他者だからだ。
ロボットだろうが人間だろうが、俺に他者の心はわからない。
俺はその今更すぎる事実に苛立った。
焦っているのだ。
早く何かしないと、ストガさんと会えなくなる気がしたから。
「俺は、まだ子供だよ。
ソフィストのオジサンに、のこのこついて行っちゃうような、子供なんだ」
「ソフィスト……総統に会ったんですか」
「今朝、二人で竜飛まで行って来た」
「何でですか?
ソフィストは良川五月を利用しようとしているのに」
「俺は子供だから、目の前にある事しか、信じらんない。
あのオジサンが良川を使って何をしようとしてんのか、彼の口から聞かねぇと、信じらんねぇ」
ストガさんの、機械的な、青い光のある黒い瞳が俺を不可解なモノの様に映していた。
「現状、良川を殺そうとしてるストガさんは俺の敵って事さなると思う。
それに、ソフィストが本当に良川を使ってなんか良くない事を目論んでんだとしたら、ソフィストもやっぱり俺の敵だ」
「トマト君に何が出来るんですか?」
ストガさんは無表情で、俺をひた と見つめていた。
「ストガさんを殺さなくて済む様に、ストガさんに良川を殺させない」
「不可能です」
苦しそうに寄せられた眉毛、ストガさんは下唇を強く噛んでいた。
この表情は、あらかじめインプットされていた物だ。
こう言われたら、こういう表情。
みんながこんな表情をしていたら、そういう表情をする。
そんな風に設定されているハズだ。
なのに。
「俺の目には、ストガさんが本気で苦しんでいるみたく見える」
「……その言葉は、複雑です」
「俺も、複雑な気持ち」
俺はまた、隣に腰掛けた。
今度は、さっきよりも少し、ストガさんの方に寄って座った。
透けそうな、桃色の花弁がストガさんの真っ黒な頭に乗った。
この瞬間だけ、何万回も続けばいいのに。
「ストガさん。
俺はもっと、あなたの事を知りたいんだよ」
「……私が、そうやすやすと教えるとでも?」
ストガさんは挑戦的な光を宿した瞳で、俺を見た。
「気長に待つ」
「そんなに時間はありませんよ」
「俺も気ィ短いから、ちょうど良い」
「それ、結局、気長に待ててませんよね」
ストガさんはやっと、微笑んでくれた。
一瞬だけ、どの表情を出すか、悩んだ様に見えたが。
彼女は人間じゃない。
でも、俺は彼女を愛せない訳じゃない。
ていうか、これは、もう……。
恋 じゃないか。
そして、それを禁じる法律は、まだ無い。
いや、あったとしても関係ない。
大人の言う事も、見たくないし、聞きたくない。
俺はまだ子供なんだ。
誰が正しくて誰が間違ってるかを見定める眼は、まだない。
でも。
何が綺麗かぐらいは、俺にだって分かるよ。
俺はストガさんに向き合った。
ストガさんは少し笑って、俺を見ている。
俺は、子供だ。
まだまだ、子供だ。
ストガさんの、この静かな微笑みで心臓が弾け飛びそうなんだ。
「ゴールデンウイーク、何か予定ある?」




