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第五十三話 定まらぬもの


超深層にも脅威はあった。ただそれはもう魔物と呼べるものではなかった。深層までの魔物は姿があり、動きがあり、殺意があった。でもここの脅威は違う。揺らぎそのものが、時折、形を持つのだ。定まらない情報が、一瞬、ある形に凝って。牙のように、爪のように、僕に襲いかかる。次の瞬間にはそれはもう別の形になっている。あるいはほどけて消えている。狙いを定めようがない。


そこに在るのか、無いのかすら、確定しない脅威。



最初にそれに遭ったときのことを覚えている。いや覚えているという言葉がここで正しいのかは分からない。記憶さえ揺らぐ場所だから。それでもその「最初」は僕の中に強く残っている。歩いていると前方の暗がりがふと濃くなった。濃くなったというよりそこだけ揺らぎが密になった。密になった揺らぎが少しずつ形を取りはじめる。鎌のような。いや爪のような。


その形が確定しきる前にこちらへ伸びてきた。僕は反射で身をかわした。かわしたつもりだった。でもその鎌は僕が動いた先でまた形を取っていた。避けた先に先回りされたのではない。そもそもそれは一つの場所にいなかった。いくつもの可能性として僕の周囲に同時に在った。そのうちの一つがたまたま形を取っただけだ。僕が避ければ別の可能性が形を取る。


避けることに意味がない。その事実を理解した瞬間背筋が凍った。これは戦って勝てる相手ではない。そもそも相手ですらない。場所の性質だ。そのとき、僕は腕に傷を負った。浅い傷だった。


でもその傷を見て僕は二度ぞっとした。一度目は傷がそこにあることに。二度目はその傷の輪郭さえ揺らいでいることに。傷が深くなったり浅くなったりする。治りかけたかと思うとまた開いている。自分の身体の傷ですら確定しない。


その場所で僕は生きていた。傷が深くなったり浅くなったりする。塞がりかけたかと思うとまた開く。血が流れているのか、いないのかすら、はっきりしない。痛みもあったりなかったりした。自分の身体のいちばん確かなはずの痛みさえ。この場所では揺らいでいた。


僕はその傷を無理に確定させようとはしなかった。傷を治そうと意識を割けば。そのぶん周囲の確定の競争に遅れが出る。遅れれば新しい傷が増える。だから僕は傷を揺らぐに任せた。揺らぐ傷と共に進んだ。それは奇妙な感覚だった。自分の身体がもう完全には自分のものではないような。身体の輪郭が世界の揺らぎと溶け合いはじめているような。その境の曖昧さの中で。それでも渇きだけはくっきりと方向を指していた。身体が揺らいでも向きは揺らがない。その一点だけを頼りに僕は傷ごと進み続けた。


普通の陣では対処できなかった。攻めの陣を向けても。的が揺らいでそこにいない。僕は逆向きの流れの、その論理で対処した。揺らぎが形を凝らせるなら。僕はその"凝る"よりも速く。相手の形をこちらが確定させてしまう。揺らぎが牙の形になろうとするその手前で。僕の陣がその情報を別の形に——無害な形に確定させる。


情報を確立する流れが。情報を揺らがせる脅威を、先回りして書き換える。相手が脅威の形に定まる前に。僕がそれを定めてしまう。それは戦いというより。書き換えの速さの競争だった。揺らぎと僕のどちらが先にその一点を確定させるか。それはこれまでのどの戦いとも違った。深層までは相手がいた。姿があり狙う場所があった。でもここでは相手は世界そのものだ。深層までは相手がいた。魔物には姿があり動きがあり殺意があった。狙う場所があった。急所を断てば倒せた。だからまだ戦いだった。こちらとあちら。僕と魔物。その二つの間で決着がつく。でもここではあちらがいない。


相手は揺らぎという世界の性質そのものだ。倒すべき急所がない。殺すべき命がない。僕は世界と一点一点を奪い合っている。この一点は脅威に定まるのか。僕が無害に定めるのか。その無数の微小な確定の競争が。同時多発的に僕の周囲で起き続けている。勝っても終わらない。世界は消えないのだから。ただ一点、また一点、と確定させ続けて。その終わりのない作業を続けながら。少しずつ前へ進むしかない。それは戦いというより。世界を一歩ぶんずつ書き換えながら歩くことだった。揺らぎという形のない世界の性質。それと僕は一点一点を奪い合っている。この一点は脅威の形に定まるのか。それとも僕が無害な形に定めるのか。それは剣を交える戦いではなかった。間合いもなかった。踏み込みも退きもなかった。あるのは確定の奪い合いだけだ。揺らぎの中のある一点がまだどちらにも定まっていない。牙にもなれる。無害な塵にもなれる。どちらに転ぶかはまだ決まっていない。


その決まっていない一点を。揺らぎが牙のほうへ傾けようとする。僕はそれを塵のほうへ引き戻す。綱引きに似ていた。でも綱は目に見えない。力も腕力ではない。どちらが先にその一点の情報を確定させるか。速さと密度の競争だった。拡張した脳がその競争を同時に何十箇所でもこなす。右で一点、左で一点、背後で一点。その全部を揺らぎよりわずかに速く確定させ続ける。一つでも遅れれば。そこから牙が生える。だから僕は一瞬も気を抜けなかった。これまでの戦いには間があった。一撃を受け、間合いを取り、呼吸を整える。そのわずかな休みの中で次の手を考えられた。でもここには間がない。休めばその休んだ一点から牙が生える。


考える暇も、休む暇も、許されない。確定を緩めたその瞬間に、揺らぎがそこを突く。突かれれば、牙が生え、僕を削る。だから僕は全方向の確定を同時に保ち続けた。右も左も背後も頭上も足元も。どこか一つでも緩めればそこが破れる。その全方位の緊張を。


更新し続ける脳で途切れなく維持する。それはこれまでのどの戦いとも比べものにならない消耗だった。でも消耗を感じる暇すらなかった。感じる僕は、次の瞬間には書き換わっているのだから。その無数の微小な確定の競争。それが絶え間なく同時多発的に僕の周囲で起きている。拡張された脳がその全部を並列で処理する。一つでも取りこぼせば。そこから脅威が牙になって僕を貫く。だから取りこぼせない。僕は際限なく更新される脳で世界と確定を競い続けた。




脳の更新を緩めれば負ける。だから僕は更新し続けた。一秒ごとに自分を書き換えながら。定まらぬ脅威を片端から確定させて退けていく。その静かな死闘の中で。外から見ればたぶん何も起きていないように見えるだろう。揺らめく暗闇の中に一人立っている僕。周囲の揺らぎが時折ちらりと形を持ちかけては崩れる。それだけの静かな光景。


でもその内側では。一瞬ごとに何十もの確定が奪い合われている。僕は際限なく脳を更新しながらその全部をさばき続ける。息もつかず。瞬きすら惜しんで。もしこの死闘を言葉で実況したら。きっと誰も信じないだろう。何もない暗闇で男が一人立っているだけの映像に。これほどの必死さが詰まっているとは。


でもそれでいいと僕は思った。見せるための戦いではない。誰にも見られない。誰にも称えられない。ただ生き延びて進むためだけの静かな死闘。それは僕のこれまでのすべての戦いと同じ形をしていた。いつも誰にも見られない場所で。僕はたった一人で、次の一歩を掴んできた。僕はふと思った。もし今誰かがこれを見ていたら。僕はどう見えるのだろう。たぶん何もない揺らめく暗闇の中で。ただ一人立っている。時折周囲の揺らぎがほんの一瞬形を持ちかけては静かに無害に崩れていく。それだけの光景に見えるのかもしれない。僕がその内側でどれほどの速さで自分を書き換え続け。どれほどの死闘をしているのか。外からは何も見えないだろう。誰にも見えない。


そもそもここには誰もいない。僕は完全に一人だった。これまでのどんな孤独よりも深く。誰も見ていない場所で。誰にも理解されない戦いを。僕はたった一人で続けている。この途方もない死闘を。誰も見ていない。誰も知らない。もし僕がここで揺らぎに溶けて消えても。誰もそれを知らないだろう。石碑に名前が刻まれることもない。深層の入口のあの石碑は。ここまでは届かない。ここで消えた者の名を刻む石はどこにもない。僕がいたという痕跡すら残らない。その孤独はこれまでのどの孤独とも違った。教室でいないものとして扱われた孤独。あれにはまだ見ている者がいた。無視するという形で。でもここにはそれすらない。完全な無。誰にも認識されない場所での死闘。それでも僕は続けた。見られるための戦いではないからだ。ただ進むための戦い。誰にも称えられなくていい。ただあの一点に届きさえすれば。それでいい。



その孤独はけれど。もう僕を苦しめはしなかった。僕はずっと一人だった。教室でも食卓でも。見ている場所がいつもみんなのずっと下だったから。思えば僕の孤独はいつも同じ形をしていた。周りに人はいる。話しかけられることもある。でも僕が本当に見ているものを誰も見ていない。そのずれ。そのずれが僕の孤独の正体だった。人がいるかどうかは関係がなかったのだ。


だからここで、本当に、誰もいなくなっても。僕の孤独は増えも減りもしない。むしろ正直になっただけだ。ずっと一人だったものが見た目にも一人になった。それだけのこと。だからこの究極の孤独も。僕にはただ静かな居心地の良さに近かった。誰の物差しも届かない。誰の値踏みも囲い込みも届かない。橘さんの欲も。鷲尾の圧も。常磐縁の値踏みも。あの人たちが必死に奪い合っていたものはここには何一つ届かない。彼らはたぶん今も地上で綱引きをしている。僕という駒をどちらが握るかで。その僕はもう彼らの盤のどこにもいない。少しだけ可笑しかった。ここにはただ揺らぎと渇きと僕だけがある。そしてその渇きが指す先に。いよいよ。何かが遠く見えはじめていた。揺らめく暗闇のそのいちばん奥に。揺らがない一点の光のようなものが。



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