第一話 届かない光
波の音がする。
寄せて、返して、また寄せる。
規則正しいようで、よく聞くと、一つとして同じ音はない。
六つになったばかりの僕は、冷たい砂に膝をついて、暗い海を見ている。膝の下で、砂が少しずつ沈んでいく。
昼のあいだ、あれほど熱かった砂が、日が落ちるとこんなに冷たくなることを、僕はこの日に初めて知った。
背中の向こうには父が張ったテントの灯りがあって、母が湯を沸かす音がする。金属のやかんが、こと、と鳴る。汐里の、寝ぼけたような笑い声も聞こえる。まだ小さかった妹は、砂が珍しくて、さっきからずっと両手で掬っては零している。
僕の家族の、いちばん温かい音が、全部、僕の背中側にある。けれど僕の前には、ただ黒があるだけだ。黒い海と、黒い空。その境目は、僕には分からない。どこまでが水で、どこからが空なのか。目を凝らしても、分からない。分からないのに、そこに確かに在るものがある。
星だ。
水平線の少し上に、数えきれない光が散っている。街で見る星とは、まるで違った。街の星は、数えられる。でも、ここの星は、数えようとした瞬間に、数えるという考えのほうが馬鹿らしくなる。多すぎる。細かすぎる。そして、澄みすぎている。一つ一つが、針の先ほどの大きさで、けれど確かに、鋭く、そこに在る。
僕は、立ち上がった。そして、手を伸ばす。
届かない。
当たり前だ。
当たり前なのに、僕は、もう一度伸ばす。背伸びをして。指を、目一杯開いて。それでも、届かない。指先とあの光のあいだには、たぶん、想像もできないほどの距離がある。僕の身長も、この砂浜も、この島も、たぶん全部合わせても足りないくらいの。届かないのに、こんなにも、見えている。その一点が、幼い僕には、どうしても、飲み込めなかった。見えているものには、手が届くはずだ。母の顔にも、汐里の手にも、父のテントにも、僕の手は届く。なのに、あれだけは、届かない。見えているのに、届かない。そんなものが、この世界には、あるのか。
「灯真、寒くないの」
母の声がして、肩に毛布が掛かる。僕は答えない。答え方を知らないのだと思う。寒いか、寒くないか。そんなことは、今の僕には、どうでもよかった。ただ、肋骨の裏のあたりが、静かに、灼けているのが分かる。風邪をひいたときの熱とは、違う。もっと奥の、もっと静かな、けれど確かな熱。あそこまで行きたい、とその熱が言っている。言っているのは、僕ではない。僕は、まだ、何も考えていない。考えるより先に、その熱が、勝手に、そう言っている。理由はない。得も、意味も、何もない。あそこに行けば偉くなれるとか、褒められるとか、そういうことでは、まるでない。ただ、あの光の在るところに何があるのかを、この目で見てみたい。それだけだ。
「変な子だなあ」
父が笑う。その笑い方には、呆れも、心配も、混じっていない。ただ、面白がっている笑い方だった。変な子だ、と僕も思う。毛布にくるまって、僕はもう一度、暗い海と、その上の光を見る。やがて、母に手を引かれてテントに戻り、汐里の隣で眠った。次の日には、砂の熱さも、波の音も、もう当たり前になっていた。でも、その灼けたところは、消えなかった。十年が経った、今も。
目を開けると、天井の染みがある。雨漏りの跡だ。形は、少し歪んだ楕円で、端のほうが薄く滲んでいる。寮の六畳一間。入学してから、毎朝、この染みを見て起きている。時計は四時半を指している。起きるには早い。けれど、もう眠れない。最近は、いつもこうだ。浅いところで目が覚めて、そこから先へ戻れない。布団の中で右手を持ち上げて、指先に魔力を集める。
収束。
僕の権能<スキル>の名前だ。
集めた魔力は行き場を失って、ちりちりと熱を持つ。小さな熱の玉が、指先で、震えている。ここから先が、僕にはない。火属性なら、それは炎になる。飛翔なら、宙に浮く。重力操作なら、空気が軋む。どれも、集めた魔力を、別の何かに変える力だ。けれど収束は、ただ集めるだけだ。集めて、放って焼くか、束ねて細く射抜くか。用途はそれきりで、あとは何もない。変換の先が、ない。だから、収束は、量が要る。変換で効率を稼げないぶん、純粋な量で殴るしかない。そう、教本には書いてある。そして僕には、その量が、ない。
「殲滅特化。燃費、最悪だな」
入学初日、査定官は僕の掌を、目覚めたばかりのその力の欠片を、一瞥してそう言った。迷宮<ダンジョン>に一歩だけ踏み込んで、魔力と共に目覚めたその力を見て。あの人は、僕の魔力量も、その場で測った。測って、少しだけ、気の毒そうな顔をした。その顔のほうが、言葉より、ずっと応えた。査定表に印字された三文字も、覚えている。
——不適性。
三文字だ。たった三文字で、人の先は、決まってしまう。
迷宮<ダンジョン>の中では、物理法則が壊れている。正確には、壊れている、というより、値がずれている。
定数が狂い、機械も火薬も死ぬ。銃は撃てず、電池は動かず、精密機械は入口をくぐった瞬間に沈黙する。だから探索者は、いまだに槍や刀を担いで潜っていく。人類が、いちばん原始的な形に、逆戻りさせられる場所。
それが、迷宮<ダンジョン>だ。
その狂った場所で人が生きていられるのは、生命から滲む魔力が、狂いを絶えず打ち消しているからだ。
平衡、と学校では習う。僕らの身体は、迷宮の中では、絶えず狂いに晒されている。その狂いを、魔力が内側から押し返し続けている。つまり魔力は、ただ在るだけで少しずつ抜けていく。
何もしなくても。立っているだけでも。息をしているだけでも。抜けても、普段は余りがある。
問題は、余りが尽きたときだ。狂いを打ち消すものがなくなれば、あとは命そのものが薪にされる。指の先から、順に、自分が無くなっていくのだという。生きて帰った人が、そう言っていた。だからこの世界でいちばん大事なのは、力の強さではない。燃費だ。同じ魔力で、どれだけ長く、どれだけ深く在れるか。学校が朝から晩まで叩き込むのも、突き詰めればそれだけと言っていい。どれだけ強い属性を持っていても、燃費が悪ければ、浅いところまでしか行けない。どれだけ深く潜れても、帰りの分を残せなければ、そこで終わりだ。
そして僕の権能<スキル>は、その燃費が最悪だと言われている。
右手の熱を、僕は逃がさない。放つ代わりに、掌の上でゆっくりと形にしていく。細い線を一本、引く。円を描く。その内側に、もう一つ。座学で最初に習う、いちばん初歩の魔法陣だ。身体を包んで、狂いの平衡を助ける、それだけの陣。
本来は床に光の陣を敷いて、そこに魔力を通すもので、誰もこんなふうには使わない。敷くのには、時間がかかる。だから探索者は、あらかじめ道具に刻んでおいたり、決まった陣だけを覚えたりする。僕はこれを、間に合わせと呼んでいる。授業にどうにか食らいつくための、恥ずかしい杖だ。誰にも見せたことはない。見せれば笑われるに決まっている。
収束の分際で陣ごっこか、と。ただ、一つだけ、腑に落ちないことがある。この間に合わせで陣を組むと、なぜか消費が少ない。同級生が魔力を一つ使うところを、僕は半分で済ませられる。いや、半分どころではない日もある。
理由は分からない。分からないから、誰にも言えない。言ったところで、気のせいだろう、で終わる。言葉にできないものは、成績にはならないのだ。だから僕は、この癖を、ずっと、一人で抱えている。
学校に着くと、下駄箱に僕の上履きがない。こういうのは、もう数えていない。
最初の頃は、探した。ごみ箱の底にあったり、グラウンドの隅に片方だけ落ちていたりした。今は、探さない。裸足で歩くのにも慣れた。床は冷たいが、それだけだ。廊下で、誰かの肩がぶつかる。誰の肩かは分からない。分からないように、みんなが上手に分からないふりをする。それが、この学校のいじめの作法だった。
殴られたりはしない。罵られることも、そう多くはない。ただ、いないものとして、扱われる。
「不適性」は、いてもいなくても同じものとして扱われる。実習の班分けでは、いつも僕が最後に余る。教官が、余った僕を、どこかの班に押し込む。押し込まれた班の空気が、一瞬で沈むのが分かる。パーティーは、いちばん燃費の悪い一人の深さまでしか潜れない。帰りの分の魔力まで残さなければ、全員が死ぬからだ。だから燃費最悪の僕を入れたがる班は、どこにもない。理屈としては、正しい。正しいから、言い返せない。言い返せない正しさというのは、いちばん、たちが悪い。
午前の実習は、浅層の、偏差のごく小さい訓練用の坑だった。偏差、というのは、定数の狂いの度合いを言う言葉だ。学校では、そう呼ぶ。世間では、単に迷宮と呼ぶ。僕は一人で入り、一人で薬草を摘み、一人で出る。浅い坑の、いちばん手前。魔物も出ない、ただの、実地の練習。教官は僕の採取量を一瞥して、何も書かずに次の生徒へ行く。書かれないことにも、慣れた。同じ班にいたはずの、一つ下の学年の子が、僕を追い越して奥へ入っていく。
入学から半年で、もう僕より深く潜れるらしい。属性持ちの、素直な子だ。悪い子ではない。すれ違いざま、その子が目を伏せたのが分かった。憐れみは、たぶん、悪意よりも重い。悪意なら、腹を立てられる。でも、憐れみには、腹の立てようがない。
昼、僕は屋上の隅で、購買のいちばん安い握り飯を一つ食べる。二つ買う日は、月に何度もない。風は冷たいが、ここには誰も来ない。誰も来ないというのは、僕にとっては、悪いことではなかった。胸の裏の、灼けたところにそっと触れてみる。まだ、ある。
消えていない。
いちばん深いところに行ってみたい、とそれは言う。誰も帰ってこられない、迷宮の、いちばん奥に。燃費最悪の不適性が、いちばん深いところ。笑うところだ。自分でも、そう思う。それでも、消えない。消えてくれれば、どんなに楽だろう、と思うことすらある。消えてくれれば、普通科に移って、家も楽になる。なのに、消えない。あの夜の熱は、十年経っても、僕の中で、静かに灼けたままだ。
週末になると、僕は寮を出て家に帰る。電車で一時間半。うちの学校は全寮制で、平日はほとんど外と切れている。休みの日に帰れるし、電話もできる。できるけれど、それだけだ。電車の窓から、だんだんと見慣れた景色になっていくのを、僕はいつもぼんやり眺めている。
玄関を開けると、汐里が奥から出てくる。
「おかえり、お兄ちゃん」
受験を控えた妹は、この一年で少し背が伸びた。もう、頭を撫でられて喜ぶ歳でもない。それでも、帰るたびに玄関まで出てくるのは変わらない。
「ねえ、こないだテレビで特級の人が出てたよ。すごかった。…探索者<ダイバー>って、ちょっと面白そうだよね」
汐里は何も知らずにそう言う。テレビに出るような特級の探索者は、たいてい、桁違いの魔力量を持っている。
僕とは、住んでいる世界が違う。
僕は、そうだね、とだけ返す。台所で母が振り返る。
「灯真、痩せたんじゃない」
痩せてはいない。ただ、握り飯一つの昼が続いているだけだ。言わないけれど。父はまだ帰っていない。工場の夜勤が、もう何週間も続いている。食卓には、いつもの、少ないおかず。味噌汁と、煮物と、卵焼き。母の作るものは、いつも、少しだけ味が濃い。
うちには、迷宮の免許を持つ者が一人もいない。父も母も、一度も潜ったことがない。父の世代は、そもそも潜る人間が少なかったのだと聞いている。迷宮が世に知られてから、まだ、そう長くはないのだ。探索者<ダイバー>を育てる科の学費は、普通の科の何倍もする。普通科に移れば、うちはずっと楽になるはずだ。誰もそうは言わない。言わないだけだ。言わないことで、僕に決めさせようとしている。それが分かるから、余計に、苦しい。そして母は、一度だけ、はっきりと言葉にしたことがある。
僕が入学を決めた夜のことだ。
「覚醒って、こわいのよ」
母は、僕の顔を見ずにそう言った。流しに向かったまま、手を止めずに。
「力が手に入るとか、そういうことじゃないの。……一度あれをくぐった後の自分が、まだちゃんと自分なのか。どこか、取り返しのつかないところが、変わってしまってはいないか。それが、こわい」
僕は、そのとき何も言えなかった。今も、言えない。だって僕は、もうくぐってしまった。母が名指しで恐れた線を、僕は理由もなく越えた。ただ、見たかったから。あそこに行きたかったから、それだけで。越えた先で、僕は、人には言えない癖まで抱えている。魔力を収束させて、掌に、じかに陣を組む、あのみっともないやり方だ。母がこれを知ったら、どんな顔をするだろう。覚醒しただけでも、こわいと言った人だ。想像して、やめる。だから食卓では、僕はただの、少し疲れた息子でいる。汐里の話を聞き、母の味噌汁を飲む。温かい。温かいのに、僕らのあいだには、母が恐れたぶんだけの距離がある。届いているのに、届いていない。あの夜の星と、少しだけ、似ている。
寮に戻った夜。消灯のあと、僕は布団の中で、古い動画を再生する。音量は、いちばん小さく。画面の中で、白髪の男が笑っている。もう他界した、かつての探索者の一人だ。彼が語っているのは、さらに前の世代の、もう一人の男のことだ。一ノ瀬律。収束の権能<スキル>で、ただ一人だけ大成した男。記録に残る限り、収束で名を成したのは、後にも先にも彼しかいない。今はもういない。深いところで、帰ってこなかったのだと聞いている。
「律のはな、要するに力業よ」
白髪の男は、懐かしそうに言う。
「魔力の量が、そもそも桁違いだったのさ。集めて、焼いて、垂れ流して、それでも有り余る。だから深いところまで力で押していける。あんなのは、化け物だから行けたんだ。真似なんぞ、できるものか」
誰に聞いても、同じことを言う。一ノ瀬律は化け物だった、と。収束はやはり、莫大な魔力で焼くための権能<スキル>なのだ、と。だから僕のような、量の足りない収束持ちは、不適性なのだと。僕はこの動画を、もう何十回も観ている。台詞も、間の取り方も、覚えてしまった。観るたびに、喉の奥に、小さな骨が引っかかったような感じが残る。どこが引っかかっているのか、自分でも、うまく言えない。律の残した記録には、到達深度が刻まれている。当時の、どの探索者よりも深い。
化け物だから——
みんなが言う。
その一言で、誰もそこから先を計算しない。本当に、量だけで、あそこまで行けるのか。その問いを、誰も立てない。僕は右手を布団から出して、暗がりの中で、そっと魔力を集める。逃がさず、細い線を引く。円を、その内側に、もう一つ。間に合わせの、恥ずかしい杖。やっぱり、消費が少ない。なぜだ。答えの出ないまま、僕は目を閉じる。胸の裏は、まだ灼けている。あの海の、あの星の、届かない光。いつか、と思う。理由もなく。いつか、いちばん深いところまで、行ってみたい。
——その「いつか」が、もう幾らも先ではないことを、このときの僕は、まだ知らない。




