Scene 知性の呪い
雪ノ下奏にとって知性とは、祝福よりも呪いの意味合いが強いものである。
二年前。小学校五年生の夏休みのことだ。奏は神奈川県の鎌倉にある、祖父母の家に帰省していた。鶴岡八幡宮の境内を歩いていた奏は、一匹のアブラゼミが飛び立つ瞬間を目撃する。
「うわあ……」
飛び立つセミを見て、素直に奇麗だと思った。
おりしも当時の彼は、自由研究のテーマに悩んでいた時期である。セミを題材にしようと決意して、さっそく近所の図書館に通い詰めた。
奏の網膜に焼き付いたのは、単なる昆虫の羽ばたきではない。重力に逆らって空気を叩く翅の構造に、数学的な美しさを見出したのだ。開館から閉館まで図書館に入り浸り、昆虫学と航空力学の専門書を読み漁った。
そうして夏休み明け――。
奏が先生に提出した、自由研究のタイトルはこれである。
『セミの翅脈構造がもたらす、流体力学的優位性について』
翅の剛性と柔軟性のバランスを、偏微分方程式で証明したレポートだ。客観的には大学の卒業論文で出したとしても、教授から評価をもらえる内容である。
奏にすればあのとき感動した美しさを、言語化したに過ぎない。しかし受け取った三十代の男性教諭は、奏が予想した反応を示さなかった。レポートを一読して困惑すると、眉をひそめてこう言ったのだ。
「雪ノ下君。誰に手伝ってもらったの? 宿題は自分でやらなきゃ駄目だぞ」
違う。完全に直筆だ。
計算から考察まですべて、一から十まで独力でやった。
だが奏は反論できなかった。
……いや、しなかったと表現するのが正しい。教師の目を見たとき何を期待されているのか、言葉にせずともわかってしまったからだ。
大人が子供に求めているのは、教科書に載っている正解などではない。
『一生懸命やったけど、少し間違えちゃいました』
こういった子供らしい愛嬌と、庇護欲をそそる未熟さなのである。
§
一年後。中学受験を控えた夏休みに、呪詛は決定的なものになった。
必要性を感じていなかったため、奏はこの歳まで塾に通った経験がない。だが志望校の鷲明館が難関だったため、両親に半ば強制的に入塾させられた。
奏が配属されたのは、最も偏差値の高い進学クラスだ。初めて塾の教室に入ったとき、生徒たちの真剣さに感心した。机に向かう彼ら彼女らは、目の前の問題に集中している。誰ひとりとして私語もせずに、ひたすら紙と鉛筆の音だけがした。
なんて真面目なんだろう。
素直にこう思った。
教壇に立った講師から、問題集の冊子が配られる。名門中学の過去問をベースにした、ハイレベルな難問集だと説明された。
「時間は五十分。解けるところまでやってみなさい」
誰もが悲壮な決意でページをめくり、難解な数式に取り組み始める。
しかし奏だけは様子が違って、ページを最後まで繰って気楽に閉じた。五分とかからずに鉛筆を置いたのは、別に諦めたからではない。
全問を解いたからである。
九九のドリルをやらされている気分だったし、当然のように満点である。
手持ち無沙汰になった奏を、周囲は化け物を見るように目を見開いていた。その視線の意味を理解できなかった奏は、隣にいた女子に何気なく話しかけた。
「ねえ、そこの問題。公式のAとBを統合すれば、三秒で終わるよ?」
天地神明に誓って、悪気はなかった。
ただ彼女が苦戦している様子だったので、少し手伝おうと思っただけだ。
しかしその言葉を発した瞬間、教室の空気が凍ったことを感じた。隣の女子生徒から表情が消えて、みるみるうちに瞳に涙が溜まる。直後に彼女は顔を覆うと、泣き出して教室を出て行ってしまった。
困惑したのは奏である。本当に泣かれた理由が分からなかったのだ。
「なんで泣くの? こんな簡単な問題なのに」
この呟きが決定打だった。
講師により別室に連行されると、こう言って奏を厳しくたしなめた。
「努力している子の気持ちを考えなさい」
その日、奏は残酷な真実を学んだ。
『僕が本気を出すと、周りが傷つく。だから、本気を出してはいけない』
奏は自分が異常であることを、小学六年にしてようやく自覚した。それまで周囲にいた友達と言えば、ただ無邪気に遊び回るだけである。比較対象が周りにいなかったせいで、突出した知力を把握する機会がなかったのだ。
その日から、奏は擬態を始めた。
なぜならそれまでの態度を続けると、孤立するのが目に見えていたからだ。高確率で仲間外れにされるし、友達もひとりもいなくなる。
だから一瞬で答えがわかるテストでも、周囲と同じくらいの時間をかけて解答欄を埋めた。書いた正解をわざと消しゴムで消し、同じ回答を三回も書き直す。
爪を隠し、牙を抜き、無害で愛らしい子犬を演じる。
それが雪ノ下奏が孤独にならず、社会で生きていくための処世術だった。
§
そうして、現代。
仄火が帰った後の機械工作部には、奏がたった一人で居残っていた。静まり返った部室に、紙を走る鉛筆の音だけがする。
電気もつけずに薄暗がりの中で、奏は一心不乱に図面を引いていた。仄火のような最新の電子ガジェットではなく、定規と鉛筆を使った泥臭いやり方だ。
「ふふ、うふふ……」
奏の筆致は鬼気迫るほどで、製図台に顔面を近づけて薄く笑う。普段の彼からは想像もできないような、狂気を孕んだ危うい笑い方だ。先ほどの興奮が冷めやらず、手を動かさずにはいられなかった。
久世仄火。
異次元だ。
奏は生まれて初めて、自分を圧倒するほどの知性に出会った。仄火は同じ地平に立っているようで、遥かな高みから世界を俯瞰している。工学の奇跡に愛された人物がいるとするなら、きっと久世仄火という形をしている。
対等に渡り合うなど到底かなわず、全力を振り絞っても影すら踏めない。あれなら奏の奥底で煮えたぎる、暴力的な創作意欲をぶつけても怯まない。
仄火なら余裕で笑い飛ばし、容赦なく打ち返してくれる。奏の自我が粉々になるほどの、限界を超えたエロスさえ見せてくれる。
手加減しなくていい。
擬態もしなくていい。
自分の能力を落として、窮屈な箱に収まる必要がない。
真の才能が抱える問題とは、他者を見下す傲慢さではない。『なぜ他者が理解できないのか、心底わからない』という、純粋たる精神面の断絶だ。人の輪の中にいてさえも、彼らは常に疎外感を抱えている。
奏が常人を理解できないように、常人も奏を理解できない。これまで奏と分かり合えた人間はおらず、独りで息を潜めて生きてきた。血の繋がった家族でさえ、奏の孤独感は埋められなかった。
だがここに至ってついに、己の魂に触れられる相手が現れた。乾いた砂漠に水が染み渡るように、孤独に耐えていた奏を満たしてしまった。
当たり前のように友と笑い合い、他者と繋がりを享受してきた人間たち。彼らには暗闇の中に灯った仄かな火が、どれほど狂おしい輝きか決してわかるまい。
「……見えないな」
ふと呟いた。
自分の手元がやけに暗くて、製図台の図面が判然としない。顔を上げてやっと自覚したことに、窓の外が完全な日没を迎えていた。
日が落ちていることすら気づかないほど、奏は夢中になって作業に没頭していたのだ。暗闇の中で奏の瞳だけが、獲物を見つけた獣のように爛々と輝いている。
§
翌日の放課後。機械工作部の部室には、狂気じみた高笑いが響いていた。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ! すげぇ! マジですげぇよ!」
奏が異様なテンションで笑い転げている。
作業台の上には改造が終わったばかりの、試作ロボットが鎮座していた。高さ30センチなのは変わっていないが、全体的なシルエットが様変わりしている。
シンプルな人型だったスケルトンは、胸部から複雑奇怪なスカートが増設されていた。ヴィクトリア朝の貴婦人のドレスのように、足首まで覆い隠している。
新造した部品はひとつもなく、ただの在庫の組み合わせだ。ありあわせの材料を即興で改造しただけで、仄火は一夜にしてこのオーパーツを作ってしまった。
「師匠! 見てくださいよこのスカート部の連結とメカニクス! こんな高密度実装なのに、充分な耐久性を満たしてる! エロいです! エロ過ぎます!」
奏が完全に壊れている。
頬を紅潮させて鼻息も荒く、ロボットの関節を愛でるように撫でている。
「僕、僕、もう……! ここはエデンですかヘヴンですか!?」
だいぶ危ない領域に達している。
このときプレハブのドアから、奏の哄笑にかき消されそうな音がした。
ノックだ。
「こんにちはー」
甲高い声が外から聞こえると、ゆっくりとドアが開いて頭だけ出す。
「陽織?」
「あ、仄火ちゃん! ここにいたんだ!」
部室に仄火の姿を見つけると、入り口にいる陽織の表情が輝く。奏の笑い声は外まで聞こえていただろうが、仄火がいるかどうかは自信がなかったのだ。
「深山さん?」
狂喜乱舞していた奏だが、来訪者に気づいて若干の正気を取り戻す。同級生の女子であることに思い至り、大歓迎とばかりにパイプ椅子を用意した。
「どうぞどうぞ、入って!」
「へえ。知らなかった。機械工作部って、こんなとこに部室があったんだ」
陽織は物珍しそうに、ジャンクの山を見回している。
「陽織、何しに来たの?」
「仄火ちゃんを探しに来たんだよ。放課後になると急に消えちゃうから。なにかあったのかと思って、ちょっと心配した」
「別に何もないって。遊んでるだけ」
「ねえ、それなに?」
陽織が卓上のロボットに目を止めると、当然の疑問を呈した。中心にあるので無理もない質問ではあるが、同時にこの場では決してしてはならない発言だった。
奏の目が輝く。
「よくぞ聞いてくれました!」
スイッチが入った。
「これは師匠と僕で作った、自律式のロボットだよ! さっき動かしてみたけど、惚れ惚れする高機動なんだ! ALフレームはさすがに無理だったけど、これ高剛性カーボンフレームだよ!?」
熱気さえ感じる奏の態度に、陽織が口を半開きにして硬直している。
「極めて複雑な変形機構と、ハイエンド産業用の耐久性を両立して、なんと重量が一キロを切ってるんだ! 信じられない! 神業だよ!」
陽織が知っている雪ノ下奏という少年は、もっと物静かな印象である。いつも同級生から一歩引いて、穏やかに笑っているような男子だった。
なのに今の奏は目が血走って、狂犬病に罹患したように熱弁を振るっている。しかも仄火を『師匠』と呼んだ挙句に、同級生なのに敬語で話している始末だ。
「……彼、どうしたの?」
「持病らしいよ。放っておいてあげて、そのうち戻るから。たぶん」
「……でも仄火ちゃん、ほんとにこれ何?」
「ロボット。全自動で動くやつ」
「そうじゃなくて、何に使うものなの?」
瞬間、奏が彫像のように停止した。
理解が及ばない未知の現象に出会ったように、仄火を振り返る。
「師匠、こいつの用途って何です?」
「え、雪ノ下が考えたんじゃないの?」
「僕は知りませんよ。師匠が作ったんじゃないですか」
「私は作れそうだから作っただけ。何に使うとか、全然考えてなかった」
沈黙。
通常、この種の工作は『競技会への出場』や『家事の自動化』といった、明確な用途を目指して行われる。だが仄火の目標は、ただ『作ること』だった。
これを世間では迷走という。
しかし、奏は力強く首肯した。
「そうですよね! やっぱり天性の技術者は、そういうタイプなんですよ! そこに技術があるから作る、使い道なんて後で考えればいい! 真理です!」
たった一晩の間に、奏に何があったのだろう……。
仄火のやることは全て肯定する、狂信的な馬鹿弟子に仕上がっていた。
制作した二人にすれば、現状の完成度で目標を達したと言っていい。
だが陽織だけが不満げな顔をした。
「ねえ、このロボット、これで終わりなの?」
「ハードウェアとしては出来たかな? 作動テストも終わったし」
「こんなに地味なのに? 骨ばっかりで可愛くないー」
「……塗装でもすれば?」
仄火が適当に提案したら、陽織の乙女心を逆撫でしたらしい。
「可愛くない!」
陽織はスマホを取り出すと、画面を操作して目前に突き付けた。
「こういうの! こういうのがいいの!」
陽織のスマホに映っていたのは、白熊のマスコットキャラクターだ。魔術師アニメの相棒キャラだそうで、ぬいぐるみのように愛らしい。
ロングコートを着た黒ずくめの魔術師と並んで、悪の秘密結社と戦っていた。
「私、これ持ってるんだ。ちょうどこのロボットくらいの大きさだよ」
仄火は眉をひそめる。
ロボットに求められる性能は、安定性と耐久性が大前提だ。その上でなら見た目の満足度も理解するが、仄火の趣味は『可愛いよりもカッコいい』である。
機械を可愛くデコレーションするなど、仄火が作ったらまずやらないことだ。
「あ……」
しかしこのとき神が振り向いたのか、仄火の脳裏にまたも新構想がよぎった。全てを解決して有効活用するアイデアを、天啓のように閃いてしまったのだ。
「……ねえ、陽織。そのぬいぐるみって、玩具屋で買えるの?」
「買えるよ。駅前のデパートに売ってる」
出来合いのぬいぐるみが店頭に並んでいて、そして今ここには骨組みだけの高性能ロボットがある。
サイズ感に問題はなさそうだ。
そのぬいぐるみから綿を抜いて、皮をこのロボットに被せれば?
おりしも学校では、下着泥棒が跋扈している。仄火の『学校要塞化計画』に組み込んで、有効活用するのが合理ではないか。
ブラックアイアン社の倉庫には、同じフレームがまだ山積みである。部活で作った素体など量産は容易いし、スワーム戦術で群体運用すれば疑いなく強力だ。
仄火は不敵に笑う。陽織が質問した使い道を思いついたのだ。
「雪ノ下。このフレーム、自律機動型の領域拒否兵器へ転用するよ」
「了解です師匠!」
奏は即答である。
疑問すら返すことなく、コンマ一秒で全肯定した。
「ペイロードには余裕があります。制圧用エフェクタの実装ですね!」
早口でまくし立てる。
「ノンリーサルを前提とするのなら、テイザー弾あるいは、伝導性液体による高電圧アーク放電はどうでしょう? CQCレンジなら、確実な無力化が期待できます」
「悪くはないけど、単体制圧じゃ飽和攻撃に対応できない。もっと広域かつ、対象の戦意を根こそぎ折るような、心理的、生理的な拒絶反応を誘発したい」
仄火は空中に指で図を描くように提案する。
「ADSモジュールはどう?」
「そ、それは最高に人道的です!」
奏が恍惚と叫んだ。
「95GHz帯で表皮を誘電加熱して、侵害受容器を直接励起させるの」
「それならマグネトロンの発振周波数を、あえてカオス変調させませんか? 定常波よりも不規則なパルス列の方が、熱順応を阻害するはずです」
「会社で微細発振素子を作ってるから、胸元に千個くらい並べてさ。電子的に位相を制御すれば、レーザーみたいに細くできるんじゃない?」
「だったらSSPAですね! サーマルと連動させて、自律的な排除シーケンスを組みましょう!」
「ビーム形成はフェーズドアレイで良いよね? サイドローブを抑制しながら、多目標への同時照射を可能にするアルゴリズムを組む。単機だとバッテリーがネックになるから、複数機で焦点合成させよう」
「不可逆的なネクローシスを伴わない、純粋な熱地獄の再現ですよ!」
まさに水を得た魚のように、会話のキャッチボールを繰り返す。
しかし黙って聞いていた陽織は、完全に蚊帳の外だった。仄火たちは日本語を喋っているはずなのに、単語の意味をひとつとして理解できないのだ。
「……あの、二人とも? 何の話?」
困惑している陽織に、仄火は天使のような笑顔で言い放つ。
「ロボットを可愛くする話。さっきの熊みたいに」
「ほんと!?」
自分の希望が通ったことに、陽織は嬉しそうに破顔する。
「なら名前を決めていい?」
「陽織の好きにしなよ。私は何でもいいから」
「じゃあそうね……。この子のことは『ティム』って呼んであげて!」
「可愛い名前じゃん」
「でしょ?」
技術馬鹿の一号と二号。そして可愛ければ大抵は許せる天然娘……。
ブレーキ役などいなかった。
こうして誰も止めないまま、地獄の蓋が静かに開こうとしていた。




