第二十九章
一週間に一度の定休日である月曜日、今日は望に会う約束もしていなかったので、見る暇がなく溜め込んでいたTVドラマの録画を朝からずっと見続けていた。
そろそろ日も暮れてきたので、夕飯でも作ろうかとソファーから立ち上がったとき、携帯が鳴った。望からだった。大抵いつも僕のほうから彼女に電話を掛けていたので、ちょっと嬉しかった。
「はい、もしもし」
「あ、康平君、あのね、急なんだけど今から出て来られない?」
「うん、いいけど、どうしたの?」
「母がね、突然来ちゃったの。だから、夕飯を一緒に食べないかなと思って。駅ビルの地下のレストランにいるんだけど、康平君にも来て欲しいのよ」
僕は少しドキッとした。「ええっ、そんな急に?」と思わず口にしそうになったが、「いいよ」と言って携帯を切った。
僕は、急いでクローゼットの中から、スーツとネクタイを取り出してきて、掛かっているクリーニングの袋をビリビリと無造作に破って捨てた。とにかく慌てていた。スーツなんて滅多に着ないものだから、ネクタイも綺麗に結べない。でも、そんなことをいちいち気にしている暇がない。望と望のお母さんは、とっくの昔にレストランに到着して僕を待っているのだから。
僕は慣れないスーツを着て、靴擦れが出来そうなくらい硬い革製のビジネスシューズを履き、通りを走りに走って駅ビルに到着した。レストランの入り口でウェイターに待ち合わせの事情を話し、席に案内してもらうと、望は僕のスーツ姿を見て唖然としていたが、その後十分ぐらい笑い転げていた。そんなに笑わなくてもいいだろうと僕は少し不機嫌になりかけたが、望のお母さんがいる手前、不機嫌になれるわけがあろうはずもなく、ひたすらポーカーフェイスを装った。そんな僕の様子をくまなく見ていた望のお母さんは、僕のことを気に入ってくれたのか、僕には笑顔を向け、望にはやめなさいというような困惑顔を向けていた。
「初めまして、葉山康平と申します」
僕は、笑っている望を半分無視して望のお母さんに自己紹介した。
「初めまして、望の母です。いつも娘がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ望さんにはいつもお世話になっています」
「あの、美容師さんなんですよね? お仕事、大変でしょう?」
「い、いえ、……いや、大変といえば大変です。自分の店を開いたばかりですし……」
「そうですよね。望から聞きました。でも、お若いのにご立派ですね」
「はぁ、ありがとうございます」
「もう、いやだ、康平君、普通に喋ってよ」
望はまだ笑いが止まらないらしく、ニヤニヤしながら僕に言った。
「まったくもう、本当にこの子は……。失礼ばかりしてすみません」
「いいえ、僕の職業柄から言って、スーツなんて滅多に着ないものですから」
「あら、でもとても似合ってらっしゃるわ」
「本当ですか? ありがとうございます」
ひととおりの挨拶を終えると、望のお母さんは望のほうを見て「しょうがない子ね」と呟いていた。
望のお母さんに、自分たちがどうやって知り合ったのかとか、望や僕の仕事の話をし、望のお母さんは、家に一人置いてきたお父さんの近況などを聞かせてくれた。
「お父さんは私が望に会いに行くって言ったら、凄く反対しちゃってね。だってお父さんは望に家に帰ってきて欲しかったみたいだから。だけど、私は我慢出来なくて一人で来てしまったのよ。お父さんも意地張らずに、来ればよかったのに……。だから、今度のお正月には絶対帰って来なさいね。お父さんが待っているんだから。葉山さんと一緒にね」
僕は内心「え!?」と思ったが、またもやポーカーフェイスを装い「はい」と答えた。望は憮然とした表情をしていたが「うん」と一言答えた。
僕たちの隣のテーブルには、一歳くらいの赤ちゃんと三歳くらいの幼児の子供連れの夫婦がいた。その家族は、上の子の誕生祝いをしているのか、テーブルの上には蝋燭の点いたケーキが載っていて、夫婦はハッピーバースディを歌っていた。幼い子供二人はケーキを前にじっとしていることが出来ず、赤ちゃんのほうはついに所構わず大声で泣き出した。公共のレストランで繰り広げられる騒ぎに、ウェイター達は慌てふためき、僕たちの席や他の席に近寄り「申しありません」と言った。すると、望のお母さんはすくっと立ち上がって言った。
「あら、赤ちゃんだもの、仕方ないわ。泣くのが仕事だもの」
と平気な顔をして赤ちゃんを抱え上げるとあやし始めた。
「ほらほら、ケーキを食べましょうね」と言って、泣いている赤ちゃんの口にスプーンでクリームを掬って持っていくと、途端に赤ちゃんが泣き止んだ。その場にいる客も店員もみんな「やれ、やれ」という感じでほっとした表情をしていた。隣の席の夫婦は「本当にすみません」と言ったが、望のお母さんが嫌がりもせず子供をあやしてくれたことが嬉しかったらしく、二人とも笑顔だった。望のお母さんは「赤ちゃんなんだから、普通のことよね」と言って笑った。
「お母さん、偉いね」
望が言った。
「あら、のんちゃんのときも大変だったわよ。いっつも、ぴーぴー泣いてたんだから。幼稚園に行っても小学校行っても、いつも泣きべそ描いて帰って来てたのよ。お母さん、どれだけ心配したか……」
望はその言葉を聞いて、急に黙り込んだ。望の顔を見ると涙ぐんでいるようだった。
「お母さん、私が小さい頃も、さっきみたいにあやしてくれてたのね」
「当たり前でしょ。親なんだもの」
「そうか、そうよね……今までごめんね」
とぽつりと一言、望が言った。
「……」
望のお母さんの顔を見ると、彼女もまた涙ぐんでいて言葉が出てこないようだった。
「もっと、家に帰るようにするね」
「うん、うん……待ってるから」
それから、少しずつ、いろんな話をして三人で盛り上がっていたのだが、望がお母さんのほうに顔を向け、口を開いた。
「ねぇ、お母さん、訊きたいことがあるんだけど」
「何? あらたまって」
「私の兄弟のことについてなんだけど……」
「え?」
望のお母さんは、急に娘にそんなことを言われて、驚いている様子だった。
「話せば長い話になるから今は全部言わないけど、あのね、康平君が、もしかしたら私と自分が兄妹なんじゃないかって、気にしてるもんだから」
「葉山さんも養子なの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
「康平君の話は今度ちゃんとするから」
「ええ、僕もいずれ、ご両親にきちんとお話しなければと思ってます」
「だからね、お母さん、どうなの? 私にお兄ちゃんがいたの?」
「あなたの本当のお母さんは、初産だったはずよ。あなたは初めての子供だったって聞いているけど? ご主人もいなかったし、だからあなたを養子に出したのじゃないかしら。名前と住所以外は何も分からないの。あなたのおじいさんにしか会っていないし、詳しい話は聞かされなかったのよ」
「じゃあ、康平君がお兄さんってことはあり得ないわね?」
「ええ、そうだと思うわ。でも、双子のお姉さんがいる、と確かおじいさんは言ってたのよ」
「え? そうなの?」
「ええ」
「お姉さんの名前は分からないの?」
「ええ」
「じゃあ、康平君と私は兄妹じゃないのね?」
「そうだと思うわ」
「良かった……」
これで一つ心配が減った。僕と望はそう思った。しかし、双子のお姉さんがいるという事実が判明し、やはりそれが心に影を落とした。
それから、僕は二人を望のマンションに送るためにレストランを後にした。途中、望のお母さんに見せるために、僕の店の前を通った。望のお母さんは興味深く僕の店を覗き込み、「立派なお店ね」と笑った。
それから、大通りではなく僕の店から望のマンションへの近道である裏通りを三人で歩いていたのだが、急に前方が騒がしくなり空も赤々としていたので、もしかしてと思っていたら、やはり民家が火事になっていた。近付けば近付くほど熱と煙で酷い状態になった。通りは消防車と消防員と野次馬でごったがえしている。
「かわいそうに……。中にいた人は助かったのかしら?」
望の母はそう言った。そのうち、消防員が、顔が煤で真っ黒になった小学生くらいの男の子を助け出し救急車に乗せると、「他、幼児一名は残念ながら息をしておりませんでした」と上司に涙ながらに報告していた。その子の両親と思われる人たちも、その言葉を聞いて泣き崩れていた。望も望のお母さんも涙ぐんでいた。
僕はその消防員の言葉を聞いて、急に気分が悪くなり、その場にしゃがみこんだ。頭の中を、火事で渦巻く炎が占領していた。昔見ていたに違いない自宅の火事と思われる光景が、何度もフラッシュバックした。けれども、僕の意識が、燃え盛る家の中に入って行こうとすると、強い力で押し戻された。何度試してみてもだめだった。
頭を抱えてしゃがみ込んでいる僕に気付いた望は、「康平君、大丈夫!」と叫び、僕はその声でようやく現実に引き戻された。僕はよろよろと立ち上がると「……大丈夫だから」と言った。
望と望のお母さんをマンションに送り届けると、二人とも何度も僕に「今日はここに泊まっていったら?」と勧めてくれたが、やはり明日の仕事のことを考えるとそういうわけにもいかず、僕は望のマンションを後にした。
民家の火事の光景が、僕の記憶をほんの少し蘇らせた。認めたくないが、やはり火事は本当にあったことなのだろう、そう自覚せざるを得なかった。
第三十章に続く




