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第二章

 次の日の朝、いつものように、僕は店のシャッターを開けると、店の前の通りを箒で掃き、ドアと窓を磨くとバケツの水を通りに撒いた。朝日を浴びながら、今日もお客さんが沢山来てくれるといいなと思いながら、店頭を念入りに掃除していた。


 僕の名前は、葉山康平である。職業は美容師。来月の八日で二十八歳になる。つい一週間前に、念願叶って自分の店を開店したばかりである。店の名前は「サンシャイン」。まるで一九六〇年代に流行った喫茶店の名前みたいで、ちょっとダサイかなと思ったけれど、僕は前から自分の店が持てたなら、名前をサンシャインにしようと決めていた。とにかく、店がみんなのサンシャインになればいいなと思っていたからである。


 八年間、僕は食べる物も着る物も節約して貯めた金を頭金にして、裏通りではあるけれど、商店街の一角に住居付きの小さな店を出すことが出来た。お客さんは、僕が元いたカリスマ美容師が経営する大型チェーン店「クレア四号店」からの常連さんばかりである。けれども、開店二日前に駅前で、スタッフ二人と僕と三人で懸命に配った割引券を持ってやって来る新規のお客さんもかなりいて、次にもう一度来てくれるかが当面の僕の悩みになりそうだった。

 クレア四号店は駅前の表通りに面していて、ここからさほど遠くない。クレア四号店の店長には恨まれるかもしれないが、僕を指名してくれる常連さんを失いたくないというのが本音で、それにもまして僕はどうしてもこの街から離れがたく、近隣に店を出すことにした。都会にしては、下町情緒の残るこの街に愛着があったからである。




 僕の予想通り一番初めにサンシャインに来てくれたのは、僕が新米の頃からずっと僕を指名し続けてくれた門脇のおばちゃんだった。門脇のおばちゃんは、僕が「今度、新しく自分の店を出すことになりましたので、宜しくお願いします」と言った瞬間、いつ、どこで開店するのかしつこいくらいに僕に質問し、三月二十日の開店初日には、大きなフラワーアレンジメント二基と特大のカトレアの鉢を贈ってくれた。


 門脇のおばちゃんは今年五十三歳だそうで、「自分は更年期で体調が悪い」というのがいつもの口癖だったが、実際は、僕の知っている限り、お客さんの中で一番血色が良く、一度喋り出したら機関銃のようにいくらでも喋り続ける元気のいい人である。

 最近、総白髪になりかけた髪の毛を黒くするのを潔く諦め、前髪をレインボーに染めて欲しいというとんでもないことを彼女は口走った。いくらなんでも髪の毛を七色にするなんて、僕には一度も経験がないので物凄く戸惑ってしまったが、彼女の旦那さんが経営する、見た感じ一面灰色の陰気臭い(僕じゃなくておばさんが言うのである)魚屋を活気付けるためにどうしてもと言いはるし、大切な常連のお客さんの注文でもあるので、仕方なく彼女の言うとおりにした。初めて試みたわりには、うまくいったと思う。彼女は「これで、果物屋さんに負けない雰囲気になったわ」と言って喜んだ。


 けれども、門脇のおばちゃんは、元気そうに見えて、いつも僕の顔を鏡越しにじっと見ては、さめざめと涙を流す瞬間がある。そういうときは、僕はいつでも仕事の手を休めて、彼女の大好きなロイヤルミルクティーを、ウェッジウッドの特別なティーカップで出してあげるのである。彼女は僕の淹れたロイヤルミルクティーをすすりながら、自分の涙も一緒に喉に流し込んでいる。実は、彼女には生きていれば僕と同じ歳の息子がいたはずなのである。彼女の息子は不慮のバイク事故で、ちょうど十年前、十八歳という若さで亡くなっていた。免許を取って一ヶ月も経っていなかったそうである。

 彼女はひとしきり泣いた後、いつも僕に同じことを言う。


「康平君は本当に私の息子みたいね」

「僕で良かったら、いつでも息子になりますよ」

「息子じゃ勿体ない、恋人になってくれる?」

 門脇のおばちゃんは、いつも泣き笑いをしながらそう言った。


 僕は冗談ではなく、本当に門脇のおばちゃんを母親のように慕っていた。実は僕は、天涯孤独の身で、両親も兄弟も親戚も身内といわれる人が一人もいなかった。僕は小学三年生から孤児院で育ったのだが、それまでの記憶がまったくなく、父や母の顔も覚えていなかった。そんな僕を気の毒に思った孤児院の園長先生と奥さんは、僕のことを本当の子供のように可愛がってくれた。それでも、やはり幼いなりに彼らに気を遣い、この人たちは本当の父母ではないのだからと、どこか遠慮しながら生きてきたのだった。


第三章に続く

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