第三章
門脇のおばちゃんの後ろに並んで次に店に来てくれたのは、専業主婦の波多野さんだ。彼女は一年前から常連客になってくれていて、いつも小さな娘の花音ちゃんを伴って店にやって来る。花音ちゃんは三歳で可愛い盛りである。いつも波多野さんと一緒に髪を切るが、カットだけの花音ちゃんと違ってお母さんのほうはパーマもかけるので、必然的に花音ちゃんはお母さんを待っている間、途中で飽き飽きしてきて、店の中を走り回ることになる。クレアの中には託児室もあったが、空間的に僕の店にはそんな余裕がなかった。けれども、門脇さんをはじめ、子供好きな中年のおばさん客が常に一人や二人は店の中にいたので、花音ちゃんの面倒を喜んで見てくれていた。本当にありがたかった。僕は門脇さん達には足を向けて寝られない。
波多野さんの旦那さんは都市銀行に勤めていて、いつも夜遅くまで家に帰らないという。しかも店舗が全国に散らばっているので、二、三年ごとに転勤もあるらしい。波多野さんは結婚八年目の三十七歳で、やっと花音ちゃんを授かったそうである。「子供はまだ?」と顔を合わせるたびに浴びせられていた、悪意はないにしても無神経な親戚達の言葉もそうだが、転勤ばかりしている夫について、知らない土地に住むこともかなりのストレスになっていたそうだ。五年間、病院に通い不妊治療したのに、芳しい結果が得られなかったのである。波多野さんは子供を持つことを切望していたが、彼女の旦那さんが「子供が出来ないなら出来ないでもいい、僕は子供が欲しいから結婚したんじゃなくて、君と一緒にいたいから結婚したんだよ」と言ってくれたおかげで、まるで憑き物が落ちたように気が楽になったそうだ。これからは、自分の生活を充実させようと思い、積極的に町内会の催し物に参加したり、趣味のパッチワークの教室に通って友達を作ったりした結果、治療をやめていたのに自然妊娠したのだそうである。
なるほど、女性というものはデリケートな生き物なのだなと思う。それにしても波多野さんの旦那さんは立派な人である。僕も結婚したら彼のようでありたいと思う。とにかく、波多野さんにはこの街にいる間、いい思い出となるように、精一杯良いサービスをしてあげられたらなと思う。
「葉山さん、花音がご迷惑をかけてごめんなさいね」
「迷惑だなんて、全然大丈夫ですよ。門脇さんも花音ちゃんが店に来た瞬間に、顔がぱっと明るくなって喜んでいるし」
「そうね。皆さんにはすごく感謝しなくちゃ」
波多野さんは、笑顔で店の中を走り回っている花音ちゃんを眺めながら言った。
「人生って不思議ね。あんなに悩んでいたのに……」
「そうかもしれませんね」
「前はね、子供連れの夫婦を見ていると、羨ましくて悔しくて泣いてばかりいたのに、今は、自分の子供だけじゃなくて、他所のお子さんもみんなかわいく思えるの。世のお母さんて、みんなそう思ってるのかもしれないな。自分が子供だったときも、そんな風に大人は見てくれてたんだなと気づいた」
「そうなんですか。いや、勉強になるな……」
「悪いときもあれば良いときもあって、悪いときがあるからこそ良いときが、こんなに幸せなことがあるんだと感謝できる。人生に無駄なんて何にもないんだなと思ったわ」
「たしかに……。本当にそうですね」
第四章に続く




