⑧宿命という世界
ドンドンドン。
ドアを叩く音が、鳴り止まない。ずっと、脳に響いている。
彼氏だろう。私が出したメールを、彼氏が見た気配はない。私はドアにゆっくりと近付いた。
そして、ドアを開けた。心臓は、バクバクしているか、分からないくらい麻痺していた。
やはり、彼だった。ゆっくり顔を上げると、力強い顔をしていた。
「もう好きじゃないの。だから、別れましょう」
「他に好きな人がいるのかよ!」
「いるよ。その人を好きになる前から、別れたいと思っていた」
「はっ?」
「でも、できなかった」
「そいつの写真あるか?」
「うん」
「じゃあ、見せろ」
「でも、この人に危害を加えないって、約束して」
「分かった」
「この人なんだけど」
「あっ、俺の知ってる人だよ」
「そうなの?」
「うん。よし、分かった別れよう。今までごめんね」
「どうしたの。すごく、あっさりだね」
「うん、まあ」
「今までありがとう」
「ありがとう」
「うん」
「この人は、俺より素敵だって知ってる。だから、諦めがついた」
「そっか」
「じゃあね」
「うん。じゃあね」
彼氏と、オジサンは知り合いだった。彼氏はオジサンを、かなり信用していた。でも、ハテナがずっと飛んでいた。
オジサンは、すごい人だ。怒りや激しい感情を、超越する何かを持っている。そういうことだ。
彼氏は、元カレとなって、去っていった。オジサンに、助けられたカタチになった。
寂しそうな元カレの、去ってゆく背中は小さかった。少しだけ、申し訳ない気持ちになった。
すぐに、オジサンへのメールの返信に取り掛かった。これで、気持ち全部を返信に、注ぐことが出来る。
スマホを取り出し、親指を踊らせた。軽やかに、軽やかに。
『もしかしたら。もしかしなくても。彼氏いませんか?』
『かかかか、彼氏いる顔していたので』
そんな、オジサンのメールを見返す。可愛くて可愛くて、仕方がない。
『お友達という、カタチではありますけど苺王、角煮んしたいのです』
『彼氏がいたら、普通は誘ってきませんからね』
これが、あとに来た方のメールだ。これを見て、勝手に作り出そうとしていた。オジサンが、私に好意があるという事実を。
『彼氏はいましたけど、たった今、別れました』
『苺王は≪一応≫。角煮んは≪確認≫と、打ちたかったんですよね?』
『彼氏がいたのに誘いました。ごめんなさい。彼氏がいて二人きりは、駄目ですよね』
『別れたので、もう大丈夫です。火曜日は、楽しみにしています。よろしくお願いします』
柄になく、長文になっていた。既読にもなっていないのに、4通続けてオジサンに放っていた。
自分の気持ちを、一方的に放っていた。デートが無くなってしまう。そんな不安のなか、何かが来る予感がした。
ピコン。
予感の5秒後に、メールが来た。オジサンからだった。このメールは、良いメール。そんな予感しかしない。
だからきっと、いい内容だろう。何通も続けて、メールが来た。
まわりには分からない、口を閉じたままの、小さな深呼吸をした。そして、ひとつ目のメールを見た。
『苺王と角煮の件は、すみませんでした。こんな丁寧な文章、ありがとうございます』
オジサンこそ、かなり丁寧な文章ですよ、と脳内で言っていた。メールを見ている私の顔は、柔らかくなっていた。
次のメールも、かなり気になる。