四 日常がすばらしい的なそーゆーの
夕焼けの海岸線をガタゴトと走る。これは何か特別なことを暗示しているのであろうか。残念ながらそれが分かるだけの知識は持ち合わせていない。
彼を見る。じっと、わたしを見つめ返している。
貴方、わたしがわがままだと思う? と、わたしは聞いた。
いいえ。彼は答えた。
嘘。足るを知らない愚かな小娘だ、なんて思っているんじゃないの? わたしは言った。
彼は首を横に振った。いいえ。わたしはあなたのお望みになられるものを、あなたと探すことができれば、それでよいのです。たとえ幾千の時をここでさまようこととなっても。と、彼は答えた。
……ねえ、いったい貴方は何者なの? わたしたち、前に会ったことがあるの? わたしは聞いた。
どんなことがあったら、まるで狂信者のように、わたしにその人生を捧げられるのだろうか。わたしのために殉ずることも、きっと厭わないだろう。
そんなこと、どうでも良いことなのです。と、彼は笑った。
その笑みには、どこか陰があった。
……ねえ、貴方は、それで救われるの? わたしは聞いた。
「救い」。「救い」とは……? 急に頭に浮かんだ言葉だ。いったいどうしてそんな言葉が?
良いのです、わたしのことなど。彼は穏やかに答えた。
列車が止まった。もう、問いかけられることも答えることもなかった。
わたしはマンションの一室に居た。
ただいま。玄関から声が響いた。弟が部活から帰ってきたのだ。元気よく居間へと入り込む。
こら、帰ったらまず手洗いうがい。母親が怒鳴る。はーい。弟が元気に返事。父親は居間で新聞を読んでいる。わたしはその近くで携帯をいじっている。
夕食の支度は整った。食卓を囲む。学校の出来事を楽しく話した。愚痴を言い合ったりもした。
なるほどなるほど、楽しい楽しい中流家庭ごっこか。
どうです。悪くはないでしょう。彼は言った。
……うん、悪くはない。わたしはきっと、こんな生活に憧れていたのかもしれない。わたしは答えた。
時間をかければ、あなた自身が家庭を持つことだって可能ですよ。彼は言った。
ねえ、これは、夢? 現実? わたしは聞いた。
どちらだって良いじゃあありませんか。あなたは今、ここに居て、幸せを享受できる。この光景だけがあなたの居場所であるならば、そう思い込むことができたなら、夢も現実もあったものではありますまい。あなたがこの世界で、幸せになろうと決意できたなら……。と、彼は言った。
父は、昔は仕事一辺倒でしたが、今は、会社でそこそこの地位に立ち、今までの人生を自戒し、家庭に時間を割くようになりました。母は、逞しく元気な方で、専業主婦では物足りないとパートで稼ぎ家計を助け、少々強引なところもありますが、皆に好かれる気持ちのよい方です。弟は、生意気なところもありますが、頭も良く気の利く良い方です。何か不都合がありますか? と、彼は続けた。
そう……。
この世界にいて、何か不都合があるだろうか?
ああ、何だろう。
思い出さなきゃいけないことが、あるような気がする。
でも……いいのか……な……。
忘れた。
わたしは笑って夕食を楽しんだ。本当に心の底から幸せだと思えた。世間では思春期の子供はこんなに親と仲がよくないらしい。わたしたち姉弟は、どうもこの父と母がどうしようもなく好きなのだ。
それにわたしはどうやら、この弟もなかなか好きらしい。本の読みすぎの所為かやけに大人びて生意気な言動も、世間を少し賑わせる程度の頭の良さも、気にならない。笑い合う。
どうやら、ご満足いただけそうですね。彼は笑う。
ええ。どうやらわたしは、昔、不幸だったことがあるみたい。こんな当たり前が、幸せに思えるだなんて。わたしは言う。
いいのです、そんなこと。完全に忘れてしまいましょう。彼が言う。
居間のソファでくつろいでいると、後ろから弟が抱きついてきた。
もう、何? わたしが言う。
ううん、何でもない。こう言うのも、別に悪くないのかなって思ったの。弟が笑う。
弟が不意に、耳元に、口を、息がかかるほど近づける。ドキッとする。
ねえ、姉さん。吐息がかかる。
な、何? わたしの心臓はドクドクと鳴る。
「姉さんって、ぼくのこと、そんなに好きだったっけ?」
ゾクッと、背筋が凍った。跳ね起きて弟を見る。弟は悪魔的な笑みを浮かべていた。本能的に恐怖した。
あれ……?
そう……だったっけ?
本ばかり読んでいて、頭が良くて、ときどきテレビ局が来たくらいで……。
えっと……?
あれ?
そんな姿を見て、わたしはどう思った?
わたしは……。
「そんなあんたが、昔は、あまり好きじゃなかった……?」
生意気で、わたしに対していつも小馬鹿にしたような態度を取っていた。だからわたしは、本ばかり読み頭でっかちの弟を、何かにつけて馬鹿にした。疎ましく思っていた。
弟はにっこりと笑い頷いた。
「ふふ、正直な姉さんは、割と好きだよ」
ばりん、と空間が硝子のように割れた。
「いけないッ!」彼が叫んだ。
辺りに黒い点がボツボツボツボツと浮かんだ。その点が、周辺の色を吸収するように大きく成長してゆく。
わたしの身体にも黒点が迫り来る中、わたしはじっと弟を眺めている。
「あんたは……中学に上がる前に、既に……」
そうだ。わたしの弟は、小学生の頃、事故に遭って……。
お母さんだって、もともと身体が丈夫じゃなくて、最近病気がひどくなって……。
あとひとり……
お母さんが居て、弟が居て、あとひとり……
弟は笑っている。その姿はみるみるぼやけてゆく。闇が支配してゆく中、彼は必死にもがき、
「何故だ? 何故お前が邪魔をするのだ! お前だって、実の姉に幸せになって欲しいと思うだろう!」
と、半ば悲鳴のように叫んだ。
「ま、姉さんのことは、なんだかんだあったけど、わりかし好きだよ。そりゃあ幸せになって欲しいと思わなくもないさ。でも、ここに居ることが、ここに居続けることが、本当に幸せかい?」
弟の姿はぼやけているが、きっと笑っている。
「くっ……! 本当の幸せなど……! そんなもの……! 仕方ない、すべてを思い出す前にッ!」
彼は闇に溶けた。
そして、わたしの全ても闇に飲まれる、その刹那、
「淀みに留まり腐るくらいならば、濁流に身をなげうち、飲み込まれ、溺れ、苦しみ、滝壺に叩きつけられ、水面に漂うゴミのように死ね」
と、幼い、わたしの見慣れた弟が、楽しげに笑った。




