三 あなたとわたしとおとぎの国と
お気に召されませんでしたか。と、彼が言う。
どう答えて良いやら分からなかった。男は十分魅力的だったし、一緒に一生を生きてゆけたら楽しかろう。世界観も、おとぎ話的で悪くない。ちょっと惜しいことをした、とも思っている。しかし、
「違う」
と言ったのも本心だった。
どうしてそんなことを言ったのか、今は分からない。そして、何故、求婚の答えが「嫌だ」ではなく「違う」だったのか……。
列車に揺れる。夕焼けに染まる砂浜を車窓に臨み。
列車が止まります。彼が言う。
降りますか。わたしが聞く。
どちらでも。彼が答える。
では、降りてみましょう。わたしが返す。
わたしは森の中にいた。列車は当然のように姿を消している。
彼を背後に従えて歩いてゆく。大きく太った猫がにやにや笑い、枝に寝そべりわたしを見下ろしている。
やあやあいらっしゃい。こんなヘンピなところによくもまあいらっしゃったものだね。歓迎するよ。ゆっくりするような場所でもないが、楽しんでいってくれ。ぜーんぶ忘れてこの世界に浸るが良いさ。構いやしないよ。ひとの一生というのは、かくも儚いものなのに、たいしたこともできやしないのに、どうして誰も彼もが苦しみ、苦しみ抜いて生きなきゃならんのかね。業が深い。全部どっかにほっぽりだして、脳天気に笑って生きちゃいけないのかい? 誰もがそれを望んでいるはずだろうにさ。やだねえ、やだねえ。ささ、奥に進みなさいな。ここに居たいと思えばいればいい。気に入らなかったら去ればいい。すべては自然に任せばいい。
言われなくても奥へと進む。
喋る猫か。ありきたりだな、と思った。今頃身体が消えて口だけ残っているのだろうか。特に興味もなかったので振り返らなかった。
奥へ行くとお菓子の家があった。クッキーでできた外壁に、チョコレートのドア。ドアノブは金平糖、ガラス窓は水飴。……案外驚かないものだ。連続のおとぎ話な世界観だったからかもしれない。
中へ。
そこら中にお菓子が転がっていた。テーブルの上にある、タルトのお皿に乗せられたレープクーヘンを試しにつまんでみた。香辛料がきいていて好みの味だった。どんなものがあるのだろう。少し心を躍らせながら、辺りを見回す。
天井から吊されたリンゴ飴がぽうっと優しい光を灯している。ベッドの布団は綿飴だ。パイ生地を固めたような竈には火が点いていて、のぞき込んでみたら燃料はバームクーヘンだった。
視線をテーブルに戻す。おや? と思う。つまんだはずのレープクーヘンが元に戻っている。
もう一度試しに、今度は壁をはがして食べてみた。瞬きする間に、食べた壁は元通りとなっていた。なるほど都合がいいな。この世界では飢えがなくなったわけだ。
そう、都合がいい。
ここには甘味に吸い寄せられる蟻も、巣を張る蜘蛛も、そこら中を這うトカゲもナメクジも、食べ物を腐らせるカビも存在しない。現実では有り得ないことばかりだ。
……ん?
わたしは今なんて?
「現実」?
「現実」とは?
ここが「現実」ではないとすれば……
わたしは今、どこにいるの?
「わたしが」、「本当に在るべき世界」とは、「いったい」……?
がちゃり。思考を遮って小人たちが家に入ってきた。
これはどうしたことだ、鍵が開いている。
ああなんだ、誰かいるぞ。
むむ、巨人が中にいるぞ。しかしこいつはなかなかのべっぴんさんだ。
各々騒ぎ立てる。
うるさい。わたしは小人のひとりを蹴り飛ばした。壁を突き抜けて外へ飛び出した。
しかし他の小人は、何事もなかったかのように各作業を始めた。瞬きする間に、六人になったはずの小人は七人に戻っていた。突き破った壁も元に戻っている。
作業中の小人たちを次々蹴り飛ばしていった。しかし、小人はすぐに元通りとなった。
なるほど、ここでは誰も傷つかない。誰も傷つけられない。
わたしは小人を全員掴み取り、家の外へと投げた。すると、二度とは小人は戻ってこなかった。
彼を見た。表情を変えず、ひたすら微笑みを浮かべてわたしを見ている。わたしはベッドの綿飴の上にどっかり腰を下ろす。
ここには、わたしに毒リンゴを食べさせに来る悪い魔女は居ないの? と、わたしは聞いた。
あなたが望むならば。彼は言った。
そう、つまらない。わたしは言った。
何故です? 彼は聞いた。
だってきっと、助けに来てくれる素敵な王子様とセットでしょう? わたしが倒れたとしても、それは、キスで目覚める物語のための前戯でしかない。予定調和。猛毒にのたうち回り苦しんで死ぬことなど、きっとここでは有り得ない。そうでしょう? わたしは聞き返した。
彼は眉を八の字に寄せた。出会ってから初めて困ったような顔を見せた。少し親近感がわいた。
彼は少し考えて、あなたは猛毒に苦しみたいのですか? と聞いてきた。
そんなわけはなかった。
しかし考えてみれば、そう捉えられても仕方のないことを、わたしは言ったのだ。
苦しむのなんて嫌だ。わたしは答えた。
嫌に決まっている。楽しい方が、楽な方が良いに決まっている。
でも……
「それでも、苦しみもつらさも一切が排除されたこの世界では……」
わたしはそのとき、何かを「思い出しそう」だった。わたしをわたしたらしめる「何か」を。
わたしは列車に揺られていた。何を思い出そうとしたのか、その一切が抜け落ちていた。




