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暁を歩む

 かつて世は魔のけだものの手にあった。

 巨躯に特別な力を宿すそれらは、都を破壊し、里を襲い、田畑を荒らし、天を、地をかき乱して思うまま暴れ回り多くの死者を出した。

 人は彼らに対して無力だった。ゆえに彼らを恐れ、敬い、けしておろそかにすることのないように振る舞ってきた。


 あるとき、ついに一人の賢人が立ち上がった。けだものたちは次々と封じられていったが、最後の一頭、ただ一つの存在だけは術式が不完全に終わった。彼女は死後、魔獣の復活と復讐を予言した。

 ――正確には、その可能性を警告した。


 ある者はその言葉に救いを求め、恐ろしいいくつもの夜を越えるために、いつの日か救世主が戻ることを胸に復讐の時を待った。

 ある者はその言葉に震撼し、震えて眠れぬ夜を過ごし、死してなお得られぬ許しの時に焦がれて消えた。

 けれどおおむねの者は、時を経るごとに過去を忘れていく。



 シランという女が死んでから、三百年以上経った。



 人は未だに、凶鳥の片割れの顕現を知らない。


 凶鳥の片割れが既にこの世に在る事を知らないまま、世界は回り続けていく。



 * * *



 澄み渡る爽やかな朝、山奥に騒がしい声が響き渡った。


「シド、ねえ、シドったら! 朝よ、朝だよ、いい天気だよ! さっきから起きてって言ってるでしょ!」


 少女は衝立の向こうからひょいと顔を出すと、寝所に無遠慮に押し入って、掛け布団を勢いよく剥がしてしまう。少し伸びた髪を適当に束ねた彼女の耳元には、壊れた蝶の髪飾りの代わりに貰った白い貝殻の耳飾りが、今日も当たり前の様に収まっている。


 布団を引っぺがされた男は、毛深く太い腕で自分を庇うよう。その一瞬前、めざとく少女の耳に揺れる白い光を見つけると、ものすごく不機嫌そうに鼻を鳴らしてますます顔を少女に見えないように隠した。


「だーっ、この、くそっ、あー、健康的な奴め。休日だってのに働く日と同じ時間に起こしやがる……こっちはまだ本調子じゃねーんだよ、一応病み上がりなんだ、少しは加減しろや」

「あら、病み上がりならわたしだって一緒じゃない?」


 男は少女の言葉を聞くと、今までのけだるげな様子を一転させて素早く起き上がり、きびきびと動き出した。話の流れからして、次は絶対に年のことを言われ、その後不毛な口論になると察知したからだろう。それなりに学習する男なのである。


「おはよ、シド」

「……オウ。すっかり調子は戻ったみてえだな」

「おかげさまで」


 ファランは素早く身支度をととのえ終わった男に向かって、耳の髪をかき上げながらほほえみかける。シドの目線は自然と彼女の手元に引き寄せられた。白い小さな貝殻が揺れている。男の年季の入った眉間の皺がさらに三本ほど増えた。絶対に、絶対にそこに触れてやるものかという固い意思が感じられるようだ。しかし彼女はそんな男の態度を見ると、ますますはにかむように頬をほんのり染めた。


「朝ご飯ならお台所に軽く作ってあるから取っていってね、お寝坊さん。わたしはもう先にいただいちゃったから」

「あー、今日もまたあれか。お前よくまあ本当飽きねえな、朝飯なんて贅沢なもん別にいらねえっつーのに……」

「駄目だよ、頭に栄養がいかなくなると、できなくなることが増えるんだから。あとね、ちょうどいいから聞いておくけど、お昼の献立何がいいと思う? そろそろ同じものばっかりで飽きてるよね」

「俺ァ別に食えりゃなんでもいいよ、お前の好きにすりゃいいじゃねーか」

「……シドのバカ」

「ああ?」


 シドはファランの言葉に、いちいちぶっきらぼうに返したりそっぽを向いてしまったりを繰り返している。室内の水瓶まで歩いて行って、口をゆすぎ、顔や手を洗う。首のあたりに手をやって、ぐるりと一周させた。ゴキッといい音が鳴る。

 それから一度、左腕の赤い腕輪になんとも言いがたいまなざしを投げかけた。いたわるようにさすってみるが、ファランに話しかけられるとぱっと手を離す。


「でも明日は町に下りるよね? ナークも来るだろうから、ちょっと奮発しないといけないかも」

「……そんな贅沢できるほど潤沢じゃねえぞ」

「だからやりくり考えてるんじゃない」


 彼女は彼のそんな素っ気ない態度に気を悪くした様子もなく、むしろ形相が怖くなっていく程に嬉しさが増しているようだった。腰のあたりを押さえながらあくびをしているシドの横で、手早く洗濯物の山を回収し、井戸に向かって歩いて行く。

 一方のシドは、言われたとおりに台所まで行って大きめの握り飯を口に投げ込むと、咀嚼しながら食器を洗い始める。ファランが見ていないのを良いことに、ながら飯だ。こっちの方が彼には効率がいい。

 終わると一度たたんだ布団を外に持ち出して、日当たりの良い干し場所に持っていく。


「あら……ありがとう、シド。できれば裏返してもらえるともっと嬉しいわ」

「るせえ」


 洗濯の合間にちらりと目をやったファランがシドの労働を賞賛しつつ干し方に口を出すと、悪態のようなものをつきながらもきちんと言われたとおりにやり直す。




 これ以上ないほど、穏やかな平穏がそこにあった。

 十日程前の、二人して死にかけた出来事が何かの間違いだったようにすら思える。


 山小屋までは三日ほどかけて戻ってきた。

 それから三日間、シドは熱を出して倒れ込んでいた。おそらく、あらゆる無理を重ねられた身体がここらで一度ぶっ倒れておかないといけないと判断したのだろう。

 シドが回復してから入れ替わるように、今度はファランが熱を出して倒れ込んだ。これもまた、無理がたたったのだろうと思われる。幸い彼女はシドほどは寝込まずに済んだ。

 付き合い上、一連の騒動の顛末を聞かされたナークが「わっかりやすい年の差って奴っすね」と、また懲りずに余計な一言を漏らしていた。彼はこの次の機会にも、シドに頭をしこたまひっぱたかれることだろう。


 何にしろ、頭上に広がる青空と同じ、曇りなく晴れやかな気持ちだ。

 強いて言うなら、今日の昼の献立についてちょっと悩んでいる。連日魚料理で芸がないが、へたに工夫しようとして失敗するのも面白くないと考えるとやっぱり無難な焼き物に落ち着いてしまう。そうだ、魚と言えば塩の備蓄がちょっと怪しかった。明日町に行くとき一緒に買ってもらえるだろうか。

 ファランが考え事をしながら洗い物を仕分けていると、お利口なシドは彼女がゆすぎ終えた物からせっせと、絞って皺を取っては物干しにかけていっている。ファランが作業をしながら無意識に鼻歌を始めると、一瞬手を止めて目を細め、彼女の横顔を眺める。が、やっぱりちょっと目立つ白い貝殻が目に入ると途端に目をそらす。


 あっという間に洗濯物の山は片付いた。

 青空を見上げて、さて次は何をしよう、結局お昼何を作るか決まってない、とうんうん唸っているファランにシドが小屋から呼びかけてくる。


「ファラン」


 彼は二人分の釣り道具を手に、顎をしゃくってみせる。

 ファランが心得顔で駆け寄って手を出すと、適当に重くないものだけ持たせてくれる。


 川に向かって歩き出すと、シドはゆっくり目に、ファランは早めに足を動かす。互いの歩調の差から、そうやって歩くと並んで行くことができるのだ。

 砂利を踏みしめる音をぼんやり耳に、やっぱり献立の改良にいそしみたいファランだったが、シドが歩きながら話し始めるとそちらに集中する。


「勘違いするなよ。俺は今でも、これが最善だとは思ってねえからな」


 ファランは横を歩いているままシドの顔を見たが、彼がこっちを見ずに話しているのを認めると、自分も前を向いたまま傾聴する姿勢になる。シドは進行方向に顔も身体も向けたまま、言葉だけファランに投げかけてくる。


「俺が人殺しだった事は……そう、うるさく何度も言わなくても、わかってるな」

「……うん」

「お前を拾ってから、そっちの方からはなるべく足を洗ったが、今からどんだけ善行重ねようが、過去やったことが消えるわけじゃねえ。だからいつ誰がどんな理由で報復に現れてもおかしくねえ。俺がそういう奴だって事だけは、絶対に最後まで忘れるなよ」

「……ん」


ファランは足下に視線を下げ、もぞもぞとすりあわせるように足を動かした。

シドの静かな言葉は続く。


「それに、なんだ、その……大声で言いたかねえが、もうすぐ四十だ。病気でも、怪我でも、俺の身体はこれから劇的に悪くなることがあっても、良くなることはまずない。どんなに頑張っても、お前よりは早く死ぬ。そこはもう、仕方ねえよ、順番だ。……言ってることがわかるな」

「うん」

「前なら腕っ節の強さぐらいは多少自慢できたかもしれねえが、紅炎熊グエンジュのことがある。この前のことで一回ヒビを入れちまった、こいつが今後どんぐらい役に立ってくれるかは、正直俺もわからねえ。前みたいに守るってところを期待されてんなら、大分悪いことになっちまってる。まあ、無皇凰オウドを完全に従えたお前ならその辺は問題ないのかもしれねえがな」

「……そうかもね」


 ファランは軽く自分の胸元に手を当てた。


 鳥はもう、以前のように気ままに自由に空を飛ぶことはないだろう。

 彼は真名に従ってシドを治療した後、ファランの影の中にするりと滑り込むように戻っていき、それ以来姿を見せようとしていない。

 呼びかければかすかな反応のようなものはあるし、おそらくまたきちんと真名を呼べば出てくるのだろう。

 けれど、彼女が自分の正式な真名を手に入れた以上、以前ほど勝手ができなくなったのか。

 あるいは幻滅したのかもしれない――ただ純粋に側に在る事だけを望み、人の欲のために鳥の力が行使されることを自分の命を削ってでも善しとしなかったシランとは、明らかに異なる選択をしたファランに。


 彼が何を考えているのかは、真名を得た今でもわからないままだった。たぶんこのまま一生わからないだろう。

 近くなったかと思ったら、より遠くなった半身。


 けれど、ファランはシランではないし、シランになることはできなかった。

 それなら、この形こそ、むしろお互いに正しいのかもしれない。

 鳥はいつだって、一番正しい在り方をしているのかもしれない……。


 彼女がぼんやり考えている間にも、シドの言葉が続けられている。


「収入が安定してるわけじゃねえ、誰からも尊敬されてるって職業や立場についてるわけでもねえ、性格は気が利く方じゃねえ、顔だってナリだってこんなもんだ。総合的に言って、俺はお前にとってこの先大層邪魔なお荷物に――おい、テメエ、なんでそこで笑う」

「だって、シドったら、そこまで自分で言わなくても」

「いいか、俺ァ大まじめに話してるんだからな」

「わかってるもん」


 まるでファランに言われる前に悪口を全部先んじておこうと言わんばかりの自主的駄目男アピールに、彼女は思わず声を上げて笑ってしまう。


 自然と二人の足が止まり、ゆるやかに身体が動き、二三歩以内の近い距離で向かい合うような格好になっていた。


 ファランは少しいたずらっぽく、紫色の目で上目遣いに見上げる。

 シドはわざとらしく咳払いしてから、ファランの目をしっかりのぞきこんだ。


「お前、それでも、こんだけ挙げても、俺と一緒に来るってか」


 ファランは手に持たされた道具を下げたまま、シドに歩み寄ってその手にそっと触れる。


「だって、わたしにとってここ以上にいい場所なんてないもの」


 答える様子にまったく迷いはなかった。

 冴えない濃褐色の瞳に、宝石のような紫色がつかの間映り込む。

 シドはしっかり彼女と目を合わせたまま、大きく息を吸った。


「じゃあな、お前。とっとと育て。……できるだけ早く」

「……えっ?」


 小さくて、風が吹けば紛れてしまいそうな程の言葉を、ファランは一瞬聞き間違えなのかと、思わず呆然と瞬きしてしまう。

 けれどその後シドがきびすを返して猛然と早足で川に向かって歩き出したので、今のは現実の出来事であったのだと確信し、慌てて後を追いかける。


「ちょっとシド、今の、今の! どういう意味、教えて!」

「るせえ、お前が育たねえと何も始まらねえだろうがよ、そういうことだよ、テメエ頭回るんだから言わせなくてもそのぐらいわかるだろうが」

「ね、ね、シド! それって、わたしが大きくなるまで待ってくれるってことだよね? そういうことだって考えていい?」

「知らねえよ、それより前にどうせテメエが愛想尽かして出て行くんだよ、俺ァ知ってるからな」


 話すほどに足早になるシドに、ファランはかなり全力で追いかけているのだが、次第に遅れてしまう。

 仕方ないので彼女は息を弾ませながら、前を行く大きくて小さな背中に届くよう、力強く投げかけた。

 結果的に二人とも半ば相手に怒鳴りつけるような形で会話することになる。


「わたしは、死ぬまでずっとシドって、決めてるもん!」

「抜かせ!」

「シド!」

「なんだよ!」

「好き!」

「やかましい、このマセガキ!」

「好きよ、大好き、とても好き! あっ――は、ごめん、ちょっとまだ恥ずかしいかも!」

「るせえつってんだろ、アホ!」

「シドは? ねえ、シドはわたしのこと、どう思ってるの!?」

「んなもんわざわざ言うまでもなくわかるだろーがよ!」

「ちゃんと聞きたいの、ちゃんと教えてほしいの! そういえば結局、前の事だってちゃんと答えてもらってないじゃない――」


 わっ、とファランは思わず声を上げる。

 目的地にたどり着いてしまったシドが急停止してその辺にばらばら道具を放り捨て、くるりと彼女の方に振り返ったからだ。


 あまりに怖くなっている形相に、ファランもさすがにちょっと言い過ぎたのだろうかとしゅんとしぼみ、おろおろしかける。

 シドは大きく荒く息を繰り返しながら腰に手を当て、口を開け、止まり、口を開けたまま手を上げ、下ろし、また上げたと思ったらばりばり頭をひっかき、助けを求めるように空を仰ぎ、たぶん悪態のようなものをつぶやき――長い導入を経てから、ようやく言い切った。


「なんでわからねえ? 嫌いだったらよ、ずっと一緒になんざ、暮らせるわけねえだろうが――だから、そういうことなんだよ。……勘弁してくれ」


 たぶんそれが、彼なりに精一杯の妥協の限界だったのだろう。

 腹に穴を開けられて死にかけていた時とどっちがマシだっただろうと思うほどにゆがめられた顔が、本人の葛藤を重く物語っている。


 沈黙が、数拍。

 それが終わると、少女の歓声のような声が山奥に、川にこだまする。


 ファランは自分も手持ちのものをその辺に投げ捨ててしまって、シドの名を呼びながら勢いよく飛びついた。

 虚を突かれたような顔をした男も、懐に入ってきた彼女をとっさに受け止めると、最初は挙動不審に、すぐにしっかりと抱きしめて離さない。ぐしゃぐしゃと不器用に彼女の頭を撫でる左腕には赤い腕輪が、彼女の耳元では白い貝殻が輝いて光を反射している。





 血を呼ぶ紅の黄昏も、死を呼ぶ漆黒の夜も、今はすっかり過ぎ去って遠い。

 昇りゆく朝日が白くまばゆく輝き、やがて手をつないで歩き出す二人の姿を明るく照らしていた。








~完~

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