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見えない視線


 湿地都市シュヴァンプの市場は、今や活気という名の熱気に包まれていた。

 季節を問わず漂う湿った大気の匂いに、異国の香辛料や、運び込まれたばかりの新鮮な荷物の香りが混ざり合う。

 行き交う人々の足音、荷車の軋み、商いをする威勢のいい声。そこには、かつての停滞した空気は微塵も存在しない。


 だが、どれほど賑わいが満ちていようとも、人の集まる場所には、必ずしも善意だけが流れ込むわけではない。

 光が強まれば、その分だけ影も濃くなる。悪意は、騒音の隙間に、あるいは人混みの背後に、音もなく潜み、静かに手を進めるものだ。


 市場の自由区画。ここには、あらゆる種類の品々が集まり、あらゆる階層の人間が交差する。

 その喧騒の中、風呂敷を広げ、手元に何かを書き記す者がいた。


 その男は、一見すれば熱心な商人にしか見えなかった。

 だが、その視線は商品を追うものではなかった。

 視線は、街の構造――すなわち「機能」をなぞるように動いていく。

 自由区画から見える倉庫の配置、他の区画へと続く出入り口の数。

 警備の巡回が何時ごろ、どのような間隔で行われるのか。

 どこに何人の衛兵が立っているのか。


 周囲の喧騒の中には、さまざまな「情報の交換」が行われていた。

 ある者は、禁制品となる物品をいかにして持ち込むか、その手口を練るために。

 ある者は、万が一の火災に備え、迅速な連携経路を確認するために。

 ある者は、大切な荷を預ける倉庫の安全性を見極めるために。

 あるいは、ただ世間話の皮を被せ、他人の口から情報を引き出すために。


 その光景を、少し離れた場所から見つめる男がいた。

 ガルムである。


 彼は、元兵士としての、あるいは「現場のリアリスト」としての本能的な違和感を、肌の表面に感じる冷気のように察知していた。

 確かに、街の治安は良くなっている。フリドが整えた規則と、整備されたインフラによって、事件の数は目に見えて減った。

 かつてのような無秩序な泥棒や、行き場のない混乱は、秩序という名の堤防によって堰き止められている。

 当初、その合理的な管理に反発の声を上げていた者たちも、今ではその恩恵に依存し、静かになっていた。


 だが、問題は「内側」ではなく「外側」へと広がりつつあった。


 ガルムの耳には、近辺からの不穏な噂が、風に乗って断片的に届いていた。

「山を越えるための交易路に、不審な人影があったらしい」

「山の向こうの村が、何者かに襲撃されたという話だ」

「敗戦した騎士の残党が、近くに潜伏しているという噂もある……」


 真偽のほどは、今のところ誰にも分からない。

 それはただの迷い子の目撃情報かもしれないし、あるいは、これから起こる事態の前触れかもしれない。

 しかし、交易路の不安定化は、この都市の生命線である物流を脅かす、都市全体の問題である。


「……フリド様」


 ガルムは、隣で書類に目を落としていたフリドに、低く、重い声で語りかけた。


「街の警備を、もう少し増やす必要があるかもしれませんな」


 フリドは、手元の図面から視線を上げることなく、短く応じた。


「……僕も、そう考えていたよ。だが、交易路の広範囲まで見回るには、今の人員では足りないな」


 フリドの思考は、常に冷静な解析に基づいている。

 この世界は、近代的な法治国家とは何もかもが異なる。

 刃物を持った盗賊もいれば、飢えた獣の脅威も存在する。

 それらに対処するには、強力な魔法使いの力が必要だ。

 しかし、この領地において、まともな戦闘魔法を振るえるのは、わずか二人しかいない。

 市民の中にも、魔法を使える者はわずかに存在する。

 だが、その大半は、せいぜい生活魔法を数回使えば魔力が尽きてしまう、微々たるものだ。


(……足りない)


 フリドは、内なる思考を巡らせる。

 湿地帯の人々を守るため、地面を固め、水を制御し、物理的な「台地」を作ることはできた。

 しかし、それだけでは不十分だ。


(土地を造ることはできた。だが、その土地に集まる「意志」を制御する方法が、まだ見当たらない)


 都市を構築するという「工学的な達成」と、都市を維持するという「統治の難しさ」。

 フリドは、自らが作り上げた機能的な美しい構造物の背後で、

 じわりと、人々の欲望と悪意が、外の世界から流れ込んできているのを感じていた。


 熱狂的な繁栄の影。

 どこからともなく、熱を帯びた「見えない視線」が、この水の都を狙い始めている。

 何も問題が起こっていないのか、それとも、起こさずにいるのか。

 ……底知れぬ不安だけが残った。


 ――……‥‥‥・・・・・・

 

 山奥へ一人、歩いてゆく人影。

 そこは交易路から少し遠く、人が通ることもめったになかった。

 

「どうだった」

 

 そこで待っていた、顔に傷がある男が訪ねる。

 

「思った以上だ」

「倉庫もある、物も、人も多い」

「それなのに……まともな魔法使いは2人だけだ」

 

 報告をうけ、男はしばらく黙り込んだ。

 遠くに見える湿地都市を眺める。

 

「なるほど、あの都市を守るには人手が足りぬだろう……攻めるには容易いな」


 その視線に何が込められているのか。シュヴァンプ領の民は誰も知らなかった。


不穏な気配……!!!

もうちょっとだけ続くんじゃよ。


楽しんでいただければ幸いです。

よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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