幕間 湿地の噂
降り続く雨は、交易都市の石畳を黒く光らせ、行き交う荷馬車の車輪を重く沈ませていた。
雨季の交易路は、本来ならば物流が滞る時期だ。泥濘に足を取られ、商隊は身動きを封じられる。
しかし、この街の酒場『濡れた錨亭』の喧騒は、季節を無視して高まっていた。
「……聞いたか? 湿地の方の荷だ。あそこから流れてくる薬草、こないだの検品じゃあ、見たこともないような品質だったぜ」
脂ぎった顔の商人が、安酒の杯を叩きながら身を乗り出す。周囲の商人たちも、湿った外套を脱ぎ捨て、興味を隠せずに耳を傾けた。
「ああ、聞いたよ。それだけじゃない。保存食の流通も、例年より格段に安定しているって噂だ。雨季だっていうのに、荷が止まらない。まるで、あの泥濘地の中に、別の道でも通っているんじゃないかって思えるくらいにな」
「ありえねぇよ。あそこは、一歩踏み外せば底なしの泥だ。道を作るどころか、荷台すら沈み込む場所だろうが」
誰かが鼻で笑った。しかし、その笑いにはどこか、言いようのない困惑が混じっていた。
「だが、実際、あのルートを通る運び屋の数は増えてる。……おい、ヴァルド。あんた、先月あっちの境界まで行っていたんだろ?」
話題の矛先が、テーブルの端で黙々と干し肉を噛んでいた男、ヴァルドへと向けられた。
ヴァルドは、交易のプロだ。湿地特有の「死の匂い」を知り、同時に、そこから生まれる「利益の匂い」を嗅ぎ分ける。彼はゆっくりと杯を置き、濁った瞳を商人たちに向けた。
「……あそこか」
ヴァルドの声は低かった。
「実際のところ、どうなんだ? 本当に、あの泥地が……そんな風に動いているのか?」
問い詰められたヴァルドは、視線を窓の外、暗い雨の向こうへと投げた。
「……説明がつかないんだ。ただの湿地じゃない。何かが、根本的に変わってやがる」
商人たちが息を呑む。ヴァルドは語り始めた。
「洪水が起きても、あそこの人間は逃げ出さない。水が溢れても、まるで最初からそうなっているかのように、水路が機能して、水が淀まずに流れていくんだ。木道は整備され、舟は淀みなく行き交う。……まるで、湿地全体が、巨大な一つの『仕組み』として、意志を持って動いているような……そんな感覚だ」
「仕組みだと?」
「ああ。湿地の村が、ほとんど一つにまとまっちまったんだ」
「前は一部の村で細々やってた薬草も、今は一箇所に集まる。荷も、人も、情報もだ」
「……気づけば、あんな泥地のど真ん中に、でかい市場が出来上がってやがった」
ヴァルドの言葉に、酒場の空気が変わった。
そこにあったのは、単なる「珍しい噂」への好奇心ではない。それは、枯渇した利益を求めて飢えた、商人の「嗅覚」だ。
「……それなら、税率はどうなってる? あそこを管理しているのは、どこの領主だ?」
「……領主、か。聞いたところでは、辺境の、捨てられたはずの男だそうだ」
「ほう……。なら、もっと独占できるはずじゃないか。あんなに荷が流れているなら、ルートを抑えれば、これだけの利益が手に入るぞ」
商人の瞳に、冷ややかな欲望が灯る。
「兵はいるのか?」「防備はどうなっている?」「どんなものが不足しているんだ?」
雑談は、瞬く間に「利権の計算」へと変質していった。彼らにとって、湿地はもはや「忌むべき泥地」ではなく、「掘り出すべき黄金の塊」へと姿を変えていた。
その時だった。
酒場の隅、影が深く落ちた一角で、不意に視線を感じた。
そこには、先ほどまで談笑していた商人たちとは明らかに毛色の異なる男たちが、静かに座っていた。
一人は、顔に深い傷跡がある。
一人は、使い古された、しかし手入れの行き届いた地図を無言で見つめている。
彼らは酒を飲まず、ただ、ヴァルドの語る「湿地の変容」を、獲物を狙う獣のような眼差しで聞き入っていた。
彼らが、単なる旅人ではないことくらい、ヴァルドには分かった。
盗賊か、あるいは没落した貴族の残党か。いずれにせよ、彼らの視線は、湿地が持つ「価値」を、その「脆さ」を、見抜こうとしていた。
だが、利益の話に熱を上げる商人たちは、その視線に気づきもしない。
周りの商人たちは、いかにして利益を掠め取るか、その策を練って盛り上がっている。
ヴァルドは、湿地帯の成長性と、自分のアドバンテージを再確認していた。
(……とんでもねぇ土地になり始めてやがる)
(俺は既に領主にも顔が売れている、今のうちに食い込めば……相当儲かるぞ)
外では、雨脚がさらに強まっていた。
湿地の噂は、風に乗って、より遠く、より広い世界へと、毒のように広がっていこうとしていた。
新幕に向けた1話です。
噂が出始めたらしい……?
楽しんでいただければ幸いです。
よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




