湿地の商人
遠く、湿地の境界に近い「迂回路」の方から、重苦しい、しかし規則的な音が聞こえてきた。
それは、泥を跳ね上げる音ではなく、木材を叩くような、硬い振動を伴う音だ。
かつて、この付近に近づこうとする者は、腰まで沈む泥濘と、数時間を要する大迂回に絶望して引き返していた。だが、今やそこには、私が整備を進めてきた「木道」の末端が、迷路のように続く泥の道へと繋がっている。
「……来るぞ。かなり、重い荷を積んでいる」
私は、新たに構築した高地の端にある監視櫓から、視線を向けた。
アイヴィーも、作業の手を止めて、泥の向こう側を見つめている。
霧の向こうから、泥にまみれた馬車が姿を現した。
一頭の馬が、苦しげに嘶き、荷車の車輪が、木道の継ぎ目によって生じる不規則な振動に耐えかねて悲鳴を上げている。
馬車は、慎重に、まるで地雷原を進むかのような足取りで、新しく整備された木道の入り口へと辿り着いた。
やがて、馬車が止まる。
使い古された、しかし頑丈そうな革の外套を纏った男が、重い足取りで馬車から降りてきた。
男は、周囲を見渡して、呆然と立ち尽くした。
「……なんだ、これは」
男の口から漏れたのは、驚愕だった。
彼が聞いていた「噂」と、目の前の「現実」があまりに乖離していたからだ。
彼は、端切れのような情報を、湿地の外で拾っていたのだろう。
『ドナール家から、使い物にならぬ嫡流が、死の地へ追放された』
『あの湿地には、もう誰も住んでいない』
そんな、遠い世界の出来事のような、不吉な噂を。
だが、目の前にあるのは、死の地ではない。
整備された木道、排水によって制御された水路、そして、泥の海から突き出たように築かれた、整然とした「人工の地盤」だ。
「……へぇ。噂じゃ、ただの捨て石が、泥溜めで朽ち果ててるとか、そんな話だったんだがな」
男は、ひょいと木道に足を踏み出し、確かめるように地面を叩いた。
その目は、獲物を見つけた獣のような、鋭い光を宿している。
「俺はヴァルド・レイン。……見ての通り、ただの、運のいい行商人だ」
男は、不敵な笑みを浮かべ、私を値踏みするように見上げた。
「あんたが、あの『追放されたお坊ちゃん』かい? ……驚いたよ。まさか、こんなところに、まともな『道』を作っているとはね」
「……珍しいですね。外から人が来るのは」
私は、努めて冷静に、事務的な口調で告げた。
だが、ヴァルドは気にする様子もなく、馬車の荷台を指差した。
「……普通の商人は、こんな湿地まで来ない」
ヴァルドは、木道を見下ろしながら苦笑した。
「俺も今までは、外縁の村をたまに回る程度だったんだが……」
彼は、整備された水路と木道を見渡す。
「こりゃ、思ったよりずっと商売になりそうだ」
彼は、一歩、また一歩と、木道の奥、村の居住区へと進んでいく。
その背中には、外部の、乾いた土地の空気――埃っぽく、しかし活気に満ちた、外の世界の匂いが纏わりついていた。
「……あんた、この場所を、どうするつもりだい?」
ヴァルドが、振り返って問いかけてくる。
「ただ、泥を片付けて、住みやすくしているだけです」
「ふん……。もし、その『片付け』の先に、価値のあるものが生まれるなら……俺のような連中が、喜んでこの泥溜めを訪れるようになるだろうよ」
彼は、荷物の中から、小さな、しかし鮮やかな色の布に包まれた何かを取り出し、私に投げた。
受け取ると、そこには、外の領地でしか手に入らない、珍しい香辛料の香りが漂っていた。
「……これは、お礼だ。まずは、これくらいの『外の味』を、あんたたちの食卓に届けてやるよ」
男は、再び馬車へと戻り、馬を操り始めた。
彼が去った後の木道には、重い車輪の跡と、微かな、しかし確実な「外の世界」の残り香だけが残された。
私は、手の中の香辛料を見つめながら、悟った。
私は、この湿地を、「外から切り離された死地」だと思っていた。
だが、違った。見えていなかっただけだ。
価値を見出す者がいなかっただけで、この湿地には、最初から「流れ」が存在していた。
人が居るところならば、あえてそういったところを狙う行商人も来るだろう。
と予想してキャラを追加しました。香辛料を渡すのはやりすぎ?
それは……そうね!
楽しんでいただければ幸いです。
よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




