最終話 僕はトニー~大好きなショーンと、それから……~
突然駆けだした僕の後ろから、マイケルが「どうしたんだよ!」と驚いたような声を上げて追ってきた。
けれど僕は、自慢の足でぐんぐんと前に進んで止まらなかった。おかげでマイケルとの距離は、数秒ごとに引き離されて開いてきた。
夢中で走る僕の両足は、カーブを曲がる際に、走る勢いで道路に飛び出しそうになる。それでも僕は、どうにか自分の身体を歩道に戻しながら、スピードを落とさず走り続けていた。
「待てよっ、トニー!」
「ショーンがいるんだ! 僕を呼んでる!」
後ろも振り返らず、僕は聞こえてくる家族の足音と声に集中して、そう叫び返した。
ほとんど人のいなくなった歩道を走り抜けると、交差点の角からショーン達が飛び出してくるのが見えた。汗だくになって必死に僕の名前を叫ぶショーンと、ペギーと父さんと母さんの姿が目に留まった僕は、ピタリと立ち止まった。
「ショーン!」
直後に嬉しくなって、僕は彼の名前を呼んで一気に駆け出してた。
ああ、もう魔法なんて要らないや、だってそこに『僕』を必要としてくれているショーンがいるんだもの……――そう思ったら視界が低くなっていて、気付くと僕は、自分の四本の足で地面の上を走っていた。
たっぷりの毛並みを、風が打つ疾走の感覚が心地いい。ふわりと解けていった魔法を、振り返りもせず、僕は元気いっぱいに駆け続けた。嬉しさでもう一回『ショーン!』と口にしたら、いつもの「わん!」って大きな声が出た。
すると、ショーンが僕に気付いて、驚いた顔をした。その一瞬後に、どうしてか泣きそうな顔に笑みを浮かべて「おいでトニー!」と嬉しそうに手を広げる。
僕は迷わず、ショーンの腕の中に飛び込んだ。彼に拾われた頃よりも、すっかり身体が大きくなっていた僕の力が強すぎて、押し倒しかけてしまったけれど、倒れかけたショーンを父さんが慌てて支えてくれた。
ショーンは、そんなこと構わないみたいな様子で、僕をぎゅっと抱きしめて頬ずりをした。
離れていたのは少しの間だけだったのに、久しぶりにショーンの匂いが胸いっぱいに広がったみたいにも感じて、僕はほっとした。けれど直後、彼の方から涙の匂いがして『ああ、心配させてしまったのだ』と察して泣きそうになった。
「トニーっ、トニー! どこに行ってたんだよ、とっても心配したんだぞ……!」
僕をぎゅうぎゅうに抱き締めるショーンの声は、小さく震えていた。
うん、ごめんね、ショーン。僕がいないことに気付いて、皆で探してくれたんだね。ただ元気付ける方法を捜したかっただけなのに、こんなに心配させるとは思わなかったんだ、本当にごめんよ。
僕は言いながら、ショーンの赤くなった目の下を舐めてやった。父さんが母さんに向かって、小さく苦笑を返して肩を竦め「まったく、この頭のいい『ゴールデンレトリーバー』は、一体どこに行っていたんだろうね」と言い、その隣でペギーが「ほんと、馬鹿犬なんだから」と鼻をすする。
その時、一つの足音が僕らの後ろで止まった。振り返ると、そこには息を切らせたマイケルがいて、ショーンがその存在に気付いてふっと顔を上げる。
そういえば、マイケルがいたんだった、と僕は遅れて思い出した。
ごめんねマイケル、お別れも言えなかったね。もう僕の言葉は伝わらないし、きっとお話していた『トニー』が僕自身だとは気付かないだろう。そもそも信じてもらえないだろうなぁ……。
息を切らしているマイケルは、肩を大きく上下させながら、僕らを見つめていた。ショーンが困惑したように後ずさりしかけたのに気付いて、すぐ僕は彼の後ろに回って、避けちゃ駄目だよとその背中を押した。
邪魔されたショーンが「何するんだよ」と、不機嫌な声で僕に言う。すると、母さんが「もしかして」と呟いて、マイケルに話しかけた。
「随分走ったみたいだけれど、もしかしてうちの『トニー』を見つけてくれて、ここまで連れて来てくれたのは、あなたなの?」
言われたマイケルが、小さく戸惑った様子で母さんを見つめ返した。ショーンが驚いたように彼へ視線を戻して、恐る恐る近寄って「そうなの?」と尋ねる。
あ、今思えばショーンって、僕が人間の姿をしていた時の声と、少し似ているなぁ……僕がそんなことを思って首を傾げたら、マイケルが難しい顔をしたまま、ショーンの向こうからこっちを見てきた。
ごめん、実はこんな姿だったんだ、と伝わるはずもないのに僕は言って、耳も尻尾もたれさせて、少し申し訳ない気持ちでショーンの隣まで歩み寄った。
でも、僕は友達として、本当に君のことが好きになっていたんだよ。マイケル。
そんな声が聞こえないマイケルを、僕はそっと見上げた。ショーンが僕の頭を撫でて、さらにもう少しマイケルへと歩み寄る。
「君が、トニーを連れて来てくれたの?」
「え、その……」
問われたマイケルは、困ったような顔をして、それから僕に視線を戻した。しばらく見つめ合っていたら、彼の両目が大きく見開かれて、唐突に僕の顔を両手でがっちりと固定して覗きこんできた!
僕はびっくりしてしまって、同時に顔を押さえられて、ぐえっ、と言った。けれど口からは「わふっ」って変な声が出ただけだった。
一体何をするのとショーンが動揺するそばで、マイケルはじっと僕の瞳を見つめていた。そして、何故かふっと苦笑をこぼした。
「そっか。お前『トニー』なんだな。なんでああなってんのかは知らねぇけど、――ははっ、目はそのまんまだぜ、トニー」
僕は大変驚いた。さっきの子が僕だって、どうして君には分かるの?
するとマイケルが、内緒話をするように僕の耳に顔を近づけた。
「お前が、俺を案内してくれたトニーなんだろう? そうなら、何か合図してくれねぇかな。…………せっかく友達になれそうだったのに、俺、色々よく分からなくて、ちょっと心が折れそうなんだよ」
そう言って顔を離していったマイケルは、今にも泣きそうな顔に無理やり笑みを浮かべていた。
友達だという言葉を聞いて、僕は嬉しくなった。だけど、何も分からないまま『人間のトニー』が消えてしまって、落ち込んでいる彼に僕が『トニー』だって、どうにかして分かって欲しいことについて考えた。
こんなことになるんだったら、はじめっから、そうだって話しておけば良かったんだろう。不思議なお爺さんが現われて、奇跡の魔法をおすそわけしてもらって、一時だけ人間の姿にしてもらったんだよ、って。
僕は器用じゃないし、声では「ワン」としか言えない。二本脚で立つことも出来ないし……、あっ、そうだ!
僕は良いことを思いついて、胸を張るように座り直した。
最近、鳩のおじさんに教えてもらって習得した技があるのだ。これ、ショーンにもまだ見せたことがないんだよね! ショーン、ねぇショーン見てて、鳩のおじさんといっぱい練習して、この前から上手く出来るようになったんだよ!
座ったまま「わんわん」上機嫌に吠える僕を、なんだろうと見ていたショーンとマイケルが、次の瞬間ほぼ同時に目を丸くした。
「え?」
「は?」
僕は器用にも、左目を閉じて見せたのだ。なんて言う名前の技かは忘れたけど、鳩のおじさんは、人間がよくやっているやつだと口にしていた。時々、父さんがやっているのを見ていたから、僕もやりたくなって教えてもらったんだ。
上手く成功した僕は、そう言って、誇らしくなって胸を張り直し「わふっ」と鼻を鳴らした。すると、マイケルが突然笑い出して「こいつは間違いない」と言い、戸惑ったようにしていたショーンも、しばらくもしないうちにつられて笑い始めていた。
こっちを見守っていた父さん達が、顔を見合わせて「まぁいいか」と安心した様子で笑みを浮かべた時、ショーンがマイケルに礼を言うべく、手を差し出して握手を求めた。
「うちのトニーを探してくれて、ありがとう」
「いや、こいつが偶然空き地に来て、しばらく遊び相手になってもらっていただけさ。――お前、案外握手が力強いな」
「あ、ごめんね、いつもトニーのリードを引いているから、力が付いちゃって……あの、犬、好きなの?」
「友達として、こいつのことが気に入った。それだけさ」
マイケルがそう言って、肩をすくめる仕草をした。ショーンの表情が明るくなるのを見て、僕はいい感じだぞと思って、身動きせずわくわくと二人の様子を見守っていた。
「あのっ、僕はショーン。君は、えぇと、転入生の……」
「マイケルだ」
答えたマイケルが、しゃがんで僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「じゃあな、トニー」と言って立ち上がると、にやりと笑ってショーンを見やった。
「俺、お前のこと嫌いじゃないぜ。んじゃ、また明日『学校で』な、ショーン」
こちらに背を向けて、マイケルはそう言いながら片手を振った。ショーンがとても嬉しそうに手を振り返して、「うんッ、明日、学校で!」とびっくりするほど大きな声で答え返した。
僕が、またねって言ったら、その吠える声を聞いたマイケルが、道の途中で不意に足を止めて振り返って口を開いた。
「ショーン、今度遊ぼうぜ。トニーも一緒にさ」
「勿論!」
ショーンが答えるのを聞いて、僕は嬉しくなって尻尾を振った。
その時、後ろで母さんが、父さんに「この子が噛み切れないタイプの物を、買い直さなくちゃね」と溜息交じりに呟いているのが聞こえて、僕は途端に小さくなった。それが僕の『紐』だと分かったからだ。
歩き出そうとしたマイケルが、「なんだ、リードを噛みちぎったのか?」と僕を見て意地悪そうに笑い、ショーンに愛想笑いを返して去っていく。
ショーンがマイケルの後ろ姿を見送る横で、僕は慌てて母さんを振り返った。ごめんね、母さん。もう二度としないから、怒んないで! そう言って上目遣いで見上げると、ペギーがその隣から僕を見下ろしてきて、こう言った。
「もっと大きくなるんだったら、大型犬用のやつを買えばいいじゃないの。あれって隣のフランクおじさんにもらった闘犬用のだけど、中型犬向けの物なんでしょう? それくらいなら、今のトニーじゃ噛み切っちゃってもおかしくないよ、よそのゴールデンより大きいって、動物病院の人もびっくりしていたもん」
「まぁ、確かにそうねぇ」
母さんが、怒る気配を見せずに、片頬に手をあてて言う。ペギーにしては珍しくも優しい『手助け』に、僕はほっと胸を撫でおろしたのだった。
※※※
数日後の休日、僕は家から少し離れた小さなグラウンドにいた。
昨日雨が降った土は、まだ湿っていたけど、風が吹くたびに涼しさが感じられて、僕には過ごし易かった。グラウンドの周りには、たくさんの草が生い茂っていて、土が敷かれた試合場には大勢の子供たちがいた。
「マイケルっ、行ったよ!」
「任せろ!」
ショーンの声が上がってすぐ、答えたマイケルが上手い具合にボールを蹴るのを、僕は彼らの周りを走り回りながら見ていた。
外側にいた僕のところにボールが飛んで来て、誰かが「トニー、こっちだ!」「いや、こっちだって!」と口々に言いながら、こっちに向かって走って来る。
僕はボール遊びの天才だった。ショーンとの特訓の日々を活かして、僕は石頭だと言われている頭で、思いっきりボールを弾き飛ばした。
「トニー、ナイスだ!」
マイケルが叫んで、飛んできたボールを蹴ってショーンに回した。走り出そうとしたショーンが「うわっ」と声を上げてよろけた際、彼の倒れかかった頭にボールが当たって、そのままゴールシュートを決めてしまっていた。
わっと盛り上がった子供たちが、仲間同士ではしゃぐだけでは飽き足らず、かわるがわる僕のふさふさの毛並みをぐしゃぐしゃにしていった。
言葉が通じなくても、僕はとても幸せだった。今では、ショーンが通っている学校の敷地内にだって自由に入れるのだ。そこでは、大人の友達もたくさん出来ていた。
僕はサッカー同好会のメンバーの『トニー』としても、ショーンやマイケルと共に学校の運動場でも走り回っている。たくさんの友達に囲まれて、ショーンもマイケルも笑顔が絶えることがない。
鳩のおじさんには話し聞かせていたけど、いつか、あの不思議なお爺さんと出会ってから今日まで話を、人間の誰かに伝えたいと思ったことは、――きっと僕だけの秘密。




