第二話 本物との邂逅
「これがさっき言っていた『マリシャス・ミラージュ』なんですね? ヨーグッドさん」
「そうだヨグ! 個人の負の感情が『マリス』と共鳴して生まれる悪意ある幻影、それがマリシャス・ミラージュなんだヨグ!」
魔法少女にヨーグッドと呼ばれたマスコットはボーイソプラノボイスで愛らしく語尾を付けて喋る。
「そして、その悪意ある幻影に対抗する唯一の存在が『魔法少女アリス』に選ばれた麻衣子ちゃん! キミなんだヨグ!」
佐雄也は震えていた。今まで夢物語だと思っていた魔法少女が実在していることに。
麻衣子という名前らしき、彼女のように自分も本物の魔法少女にしてもらえるかもしれない。
そう思ったが彼は己の先輩たる麻衣子に期待と羨望の眼差しで眺めた。
彼女や猪のマリシャス・ミラージュは佐雄也の存在に一切気が付かず、両者ぶつかり合う。
先に動いたのは猪のマリシャス・ミラージュ、ボア・ミラージュの方だった。
『ラゥナァ……ラゥナァ……』
重量感のある巨体で麻衣子に向かって、突進をかます。
ヨーグッドは彼女の後ろに下がると、即座にアドバイスを送った。
「麻衣子ちゃん! さっき教えた通り、魔法の杖『ハンプティ・ダンプティ』を変形させるヨグ!」
麻衣子はそれに頷き、持っていた杖を大きく振るい、声を張り上げ、呪文を叫ぶ。
「『ハンプティ・ダンプティは姿を変える ハンプティ・ダンプティは盾に変わった』」
すると彼女の握っていた杖は形状を変え、楕円形の大きな赤茶色の盾に姿を変えた。
直後、ボア・ミラージュの突進がその盾に直撃する。体重差では比べるまでもない彼女は勢いに負け、宙を舞うかと思われたが、僅かに後ろに後退する程度に留まった。
『ォ、ラゥナァ!』
防がれたことで怒り、更に奇妙な鳴き声を上げ、ボア・ミラージュは麻衣子から離れた。
十分に距離を取ると、身体の角を鋭く伸ばし、歪に肉体を変化させる。
棘だらけになった黒曜石の身体を再度、麻衣子に向けると速度を強め、突撃を開始した。
盾を向けた彼女は先ほどと同じようにその巨体を受け止めようとするが、スパイクのようになったボア・ミラージュの棘が盾を貫く。
「きゃあっ!」
罅の入った赤茶色の盾ごと質量に負け、彼女は壁際まで吹き飛ばされた。
「麻衣子ちゃん!」
ヨーグッドはそちらに浮いたまま移動する。駆け寄った麻衣子は腕に怪我をして深紅の血を流していた。
盾を貫通したボア・ミラージュの棘が麻衣子の腕を切った様子だ。
「今すぐ、治すヨグ!」
ヨーグッドの耳の内側にある目玉のような模様がぐるぐると反時計回りに動くと、傷が跡形もなく消えていく。
その光景は治癒というより、傷があったという事象ごと消滅させたように見えた。
「ありがとうです。ヨーグッドさん……」
傷を治してもらったことに感謝する麻衣子だが、ボア・ミラージュはその間も止まってはくれない。
『ラゥナァ! レ、ヲォ、ラゥナァ‼』
飛ばされた彼女の元まで助走を付けて、真っ直ぐに襲い掛かる。
「ひぃ……!」
痛みを感じたせいか、治ったとはいえ、目の前に迫る化け物の脅威を理解してしまった彼女は身を竦ませてしまう。
「危ねぇ!」
麻衣子の方に駆け出した佐雄也は両手で倒れた彼女を拾い上げる。
飛ばされた方角が佐雄也が居た近くだったことも幸いし、ボア・ミラージュより早く彼女に接触することができた。
佐雄也は麻衣子の背中と太腿の裏に手を回し、所謂お姫様だっこで抱える。ヨーグッドの方は長い耳の片方を口で咥えた。
「ふぇっ? だ、誰なんですか、あなた!?」
「な!? 一体、どこから入ったヨグか!? というか、耳を噛むんじゃないヨグ!」
「話は後だ! ってうおぉっ!」
速度を上げて、すぐ傍まで接近していたボア・ミラージュの突撃を、真横に跳んでどうにか回避する。
壁に頭を思い切り、衝突させたボア・ミラージュは壁諸共砕き、卵状の空間から出て行った。
『オレヲォ、ワラウナァ!』
その際に上げたボア・ミラージュの叫びに、佐雄也は井上のことを連想させられた。
割れた部分から徐々に亀裂が広がり、卵状の空間は消滅していく。
「まだ、マリシャス・ミラージュを倒してないのに結界が破られてしまったヨグ~!」
それを見たヨーグッドは耳を佐雄也に咥えられた状態で、顔を小さな手で覆う。
「倒してないまま結界が破られると、どうなるんですか?」
麻衣子がヨーグッドに尋ねる。
「マリシャス・ミラージュは己の負の感情の母体となった人間を吸収し、完全体になって……最終的には『銀の門』になり、この世界に人類の無意識悪意の集合体『マリス』を呼び出して世界を滅ぼすヨグ~!」
「滅茶苦茶やばいじゃないか、それ!?」
ヨーグッドの慌てふためく言葉を聞き、佐雄也が突っ込みを入れる。
「というか、キミ誰ヨグか!?」
砕け散る卵型の空間を背景に佐雄也はそういえば自己紹介もまだだったことを思い出し、名乗りを上げる。
「俺は魔法少女マジカルマロン。魔法少女を目指す者だ!」
「信じられない馬鹿ヨグ~!? よく見れば、何て格好してるヨグかっ!?」
元居た路地裏に周囲の景色が戻る中、魔法少女のマスコットに詰られる魔法少女志望のコスプレ男。
麻衣子はそれもようやく佐雄也がフリル付きの魔法少女の服装をしていることに気付き、抱えられた状態で目を剥いた。
「へ、変態さんですか……!?」
「まあ、否定はしないな。女装してる訳だし」
「妙に自分を客観的に見られる変態ヨグ~!」
佐雄也の存在に混乱する麻衣子だが、それどころではないことを思い出し、去って行ったボア・ミラージュを追うために走り出した。
「私のせいで大変なことに……早く行かないと」
思い詰めた顔で呟いた彼女に佐雄也は声をかけようとするが、それよりも先に駆けた彼女はあっという間に離れて行ってしまう。
「あ……」
佐雄也は自分の足の速さには自信があったが、それを遥かに超える人間とは思えない速度に言葉を失った。
やはり魔法少女という存在は特別なものらしい。
「麻衣子ちゃん行っちゃったヨグ。まあ、それよりもキミにはボクたちと出会った記憶を消してもらうヨグ」
ヨーグッドにそう言われ、佐雄也は慌てたように彼の小さな身体を掴む。
「待ってくれ。アンタは魔法少女のマスコットなんだろ? 俺を……俺を本物の魔法少女にしてくれ!」
「キミを魔法少女アリスに? 無理ヨグよ。大体、キミは男ヨグ。男は魔法少女にはなれないヨグよ」
困惑した表情を浮かべて一蹴するヨーグッドにそれでも佐雄也は食い下がった。
「頼む。そこを何とか……俺はどうしても魔法少女にならなきゃいけないんだ!」
「無理ヨグ」
「そこを何とか……」
「無理だつってんだろうが‼」
低い怒声と共に小さな拳が佐雄也の頬を捉える。
「ほごぉっ!」
不意打ち気味に受けた一撃は重く、井上の回し蹴りの十倍以上の激痛が彼の顔面を焼く。
ボーイソプラノボイスから一変して、低い壮年の男性のような渋みのある声がヨーグッドの口から流れた。
「……何度も言わせんじゃねえよ、小僧。男はな、魔法少女にはなれねえんだよお‼」
「え、えー……」
先ほどまでの愛らしい顔から、豹変したヨーグッドは眼球がカッと開くと羊のように真横に伸びた瞳孔が露わになる。小さく小動物めいていた口元は耳まで裂け、鮫の如き鋭い歯が並んでいた。
耳の内側の目玉に似た模様は、本物の眼球となり、血走った網膜を佐雄也に向けている。
その顔は魔法少女のマスコットというより、悪魔か魔物の類に見えた。
「ば、化け物……」
「化け物だあ? 小僧、口の利き方ってものを知らねえのか?」
「す、すんませんでした」
凄みのある形相で睨み付けられた佐雄也は思わず、素直に謝罪してしまう。
だが、我に返り、変貌したヨーグッドに指を差し、糾弾する。
「何だ、その邪悪な顔は!? 魔法少女のマスコットがしていい面じゃないぞ! ハッ……ひょっとしてお前は偽物で、どこかで本物のヨーグッドと入れ替わったんじゃ……」
「馬鹿野郎が。正真正銘、俺が魔法少女アリスの力を与えてる存在、ヨーグッド様だよ」
どこから取り出したのか分からないキセルを口に咥えたヨーグッドは煙を噴かす。
邪悪な悪魔めいた相貌には不思議と様になっていた。
「あのな、小僧。俺はこの役目を百四十年やってんだよ。魔法少女アリスの力を与えたのだって、これで十度目だ」
「百四十年間で十人って、少なくないか?」
単純計算で割ったとして、魔法少女一人作るのに十四年掛かることになる。
佐雄也には魔法少女に力を与えるマスコットを他に知っている訳ではないが、十四年に一人と言う割合は非常に少なく思えた。
「馬鹿が……必要にならない限りは魔法少女なんてならない方がいいんだよ」
少し遠くを見て嘯くヨーグッドの横顔は言い知れぬ哀愁が漂っていた。
それきり、一旦会話が途切れたが、佐雄也は気を取り直し、もう一度頭を下げて彼に頼む。
「それでも俺は魔法少女になりたいんだ。頼むよ」
真剣にそう言う佐雄也にヨーグッドは溜息を紫煙と共に吐き出した後、尋ねる。
「分からねえな。どうして、テメエはそこまで魔法少女を目指すんだ?」
「魔法があれば今より多くの人を助けられる! 何より……約束したんだ。妹と」
「約束だあ? 馬鹿なことしたな、小僧。妹のところに戻って取り消して来い」
頭を下げた姿勢で佐雄也は首を横に振った。
「そいつはできない。もう、妹は……未亜はこの世に居ないから」
その言葉にヨーグッドの声が僅かに沈む。
「……死んだ妹との約束か。滑稽だなあ、何でまた、魔法少女になるなんて言ったんだ?」
「それが最期に未亜が願ったことだから」
顔を上げた佐雄也の瞳には強い意志と覚悟が感じ取れた。ヨーグッドはそれを見て、何かを感じたが、口に出さずにキセルを噴かした。
「だが、男は『アリス』にはなれねえ。なれるのは十四歳の少女だけだ」
煙と混ざって吐かれた言葉は、先までの振り払うようなものではなく、どこか言い聞かせるような音色を含んでいた。
「……どうしてもか」
「どうしても、だ」
そうかと俯いた彼は地面を数秒見つめた後に、ヨーグッドに言った。
「なら、せめて記憶は消さずに魔法少女のために俺も協力させてくれ」
「テメエに何ができる? マリシャス・ミラージュには物理的な干渉は無意味だ。あれは文字通り、幻影。魔法少女の魔力の籠った攻撃以外は当たることすらない」
マリシャス・ミラージュとは実体を持つ幻影という、矛盾した存在。
故に、物理的な攻撃はすり抜けるが、マリシャス・ミラージュ側からは物理干渉できるのだという。
「あれは魔法少女以外にはどうにもできねえ。どうにもな。分かるか、小僧がどれだけが足掻こうが意味すらないんだ」
だからお前は大人しく記憶を消して魔法少女のことは忘れろ、そうヨーグッドは諭してくる。
浮かべているのは、聞き分けのない子供を見る大人の眼差しだった。
何度も向けられ、佐雄也の目を覚まさせようとしてくる現実の眼。
悔しさに拳を握り、下唇を噛み締める。
俺は、また届かないのか。大切な願いはいつだって叶えられない。
その時、真っ直ぐ立たせたヨーグッドの両耳を何かにびくんと反応したように動いた。
「こいつはやべえな……あの猪のマリシャス・ミラージュ、母体を見つけ出したみてえだ」
耳の内側にある彼のもう二つの眼球がぎょろぎょろと忙しなく活動する。
その『母体』という単語を聞き、佐雄也はヨーグッドに尋ねた。
「さっきも言ってたその母体っていうのは、あの化け物を生んだ人間のことだよな?」
面倒そうにしながらも、彼はその問いに丁寧に返した。
「ああ、そうだよ。マリシャス・ミラージュは、母体となる人間の負の感情にシンクロした人類の無意識下の悪意が深層心理から沸き上がり生まれる存在だ」
その説明で佐雄也の中で先ほどボア・ミラージュに感じたものが腑に落ちる。
「なあ、今その母体が狙われてるんだろ?」
「だから、さっさとテメエの記憶を消して、俺は麻衣子のところに……」
「俺、その母体の人間に心当たりがある」
「……何だと?」
先ほどのボア・ミラージュが結界を破って出て行った時に佐雄也は確かに耳にした。
『俺を笑うな』
歪で不快な声だったが、奴はそう言っていた。
その言葉と同じ台詞を吐いた人間を彼は知っている。
「井上だ。井上琢也、俺のクラスメイト。恐らく、あいつが母体だと思う」
偶然同じ台詞を吐いた可能性も無きにしも非ずだが、あの時のボア・ミラージュの叫びから感じたものは井上が佐雄也に向けた苛立ちのような感情だった。
だからこそ、佐雄也はあの時、井上を連想したのだ。今、思い返せば攻撃を受け止められた時に、一旦距離を取って突っ込んで来る行動パターンも井上とそっくりだった。
「小僧……記憶を消されたくねえからって、パチこきやがったら許さねえぞ?」
ドスの利いた低い声で凄むヨーグッドに佐雄也ははっきりと言う。
「魔法少女に嘘はない!」
凛とした彼の表情を四つの眼で睨むヨーグッドだったが、すぐに呆れた風に吐き捨てた。
「……何が魔法少女だ、変態野郎が。ケッ、信じてやるよ。そいつの居所は分かるか?」
井上は確かに先ほどあったばかりだが、バイクを運転して去った彼は当然移動してしまった。
住所を知っているほどに仲が良い訳でもなく、居場所についての手がかりは皆無だった。
そこまで考えてから、弾かれたように佐雄也は腕時計に目を落とす。
「……今は午後四時五十三分。あと七分で五時になる」
「それがどうしたんだよ? そいつの居所と何の関係があるんだ?」
「大有りだ。この夢見市には『ブージャム』って大きな暴走族が一つあるんだが、そこの集会は決まって午後五時に街外れの廃ビルの前で行われる」
「だから、それが何なんだ?」
「井上はそこに所属していると自分で言っていた。あいつの発言が嘘じゃないなら、今そこにいるはずだ!」