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第十話 真鍮の騎士

「ヨグゥ……ヨグゥ……」

 ヨーグッドは麻衣子の部屋でふよふよと飛び回っていた。

短い手で腕組みを難しい顔をして飛行するデフォルメチックなウサギの姿はなかなかにシュールな光景だ。

 勉強机に向き合って麻衣子は明日には提出しなければいけない宿題をしていたが、ちょろちょろと背後で飛ぶヨーグッドの存在が気になってしまい、とうとう声をかけた。

「あの、さっきからどうしたんですか?」

「これは麻衣子ちゃんにも話すべきことヨグが……本当に話してもいいものヨグかね?」

 麻衣子に聞かれ、勿体ぶった調子で自問した後、腹を括ったようにようやく話を始めた。

「麻衣子ちゃん。今から話す事柄は魔法少女マリスのことヨグ」

 語尾のせいで台無しだが、いつもよりも真剣な声に麻衣子も自然と背筋を伸ばして聞く。

「魔法少女マリスはマリス……つまり人間の無意識悪意の集合体の分身のようなものヨグ」

 そこまでは前にも聞いたが、彼女はここからがヨーグッドの話したい本題なのだと思い、口を挟まなかった。

「マリスには実態がないけど、姿は金髪碧眼の少女をしているヨグ。そして、その分身である魔法少女マリスもまたマリスと同じ顔をしているヨグ」

 ヨーグッドはそこから詳しく語り出す。

 魔法少女マリスとは即ち、この現実世界に現れることのできないマリスが自分の一部を人間の子として転生させたもの。

 それは人間と同じように年齢を重ねて成長し、十四歳になった時に魔法少女マリスとなり、マリシャス・ミラージュを生み出して、本体であるマリスをこの世界に呼び出す銀の門を作ろうとする。

 故に魔法少女マリスの発生はマリスがこの世界に顕現するまで、十四年周期で人間の子供として誕生する。

 彼女たちは髪や肌の色などは生物学上の親のものになるが、姿かたちはマリスと同一のものとなる。

 そこまで話したヨーグッドはまた難しい顔を浮かべた。

「だから、魔法少女マリスは顔を隠す理由がないヨグ」

「この前出会った魔法少女マリスは顔を隠していたことで考え込んでいたんですか?」

 今回、初めて聞かされた情報を自分の頭の中で整理していた麻衣子は彼の様子に疑問を覚えた。

 確かに面が既に割れているのであれば、顔を隠すベールなど必要ない。しかし、そのことにそこまで考えを巡らせるにしてはヨーグッドの悩み様は大袈裟に見えた。

 それよりも彼女としては、魔法少女マリスが人間として生まれることの方が重要だった。

 この前は人の形をしているだけの化け物だと思っていたので、躊躇なく剣に変えたハンプティ・ダンプティで斬りかかったが、あれがもし直撃していたら殺人だったのではと今更ながらに顔を青くする。

「私は人を殺しかけたんですか……」

「うーん。確かに人間の子供としてこの世に生まれるヨグが、本質はマリスと同じ悪意しかない化け物ヨグ……そう、そのはずヨグ」

 また一人で思考の世界に没入しようとしたヨーグッドに麻衣子はまだ何かを隠していると確信する。

 魔法少女になったばかりの時とは違い、佐雄也に付いて回って大勢と接する機会が多くなったおかげで、麻衣子は些細な機微などの変化に鋭くなっていた。

「まだ、何か私に話してないことがあるんじゃないですか?」

 秘密主義のマスコットにじっとりとした懐疑の目を向けると、観念した様子でヨーグッドは言った。

「実は……その、佐雄也君の部屋にあった写真を見たヨグ。そこに映っていた彼の妹の顔が――マリスと瓜二つだったヨグ」

「それって……」

 マリスと同じ顔を持つ少女。それは即ち、魔法少女マリスが持つ特徴。

 麻衣子は風美から聞いた未亜の話を思い出す。

 彼女の顔立ちは両親とは似ても似つかなく、それが原因で疎まれていたと。

 だが、同時に彼女が既に他界したことが脳裏に過り、自分の中に生まれた考えを打ち消した。

「あり得ません。お師匠さんの妹さんは七年も前に亡くなったんですよ」

「そうヨグよね。だから、彼女がこの前の魔法少女マリスな訳がないヨグ……」

ただそうなれば、顔を隠しているという行為は俄然無意味ではなくなってくる。

そう、例を出すならば――。

「この前の魔法少女マリスが別人……本来とは違うイレギュラーな人物が代わりになった、とかですか……?」

「今まで九回に及ぶマリスとの戦いがあったけどそんなことは起きた先例がないヨグ。だけど、可能性がない訳じゃないヨグ」

 もしもこの仮定が正解なら、佐雄也の妹こそが本来の魔法少女マリスだったことになる。

麻衣子は信頼する佐雄也が愛する妹が悪意しかない存在だとは思いたくなかった。

 それに未亜が仮に魔法少女マリスならば、七年前に死んだ理由がいまいち分からない。果たして魔法少女マリスとは病気や怪我が原因で死ぬものなのだろうか。

 その疑問をぶつける前にヨーグッドは両耳をぴくりと持ち上げて、麻衣子に言った。

「もう少し話したいところヨグが……新たなマリシャス・ミラージュが生み出されようとしているヨグ」


 ***


「風美ちゃん!? どうして君が……いや、それよりも俺の命がマリスに狙われているって話はどういうことだ」

 冷静さを失いかけた佐雄也だが、すぐに己を律して魔法少女マリス――風美に問いかける。

「マリスは夢の中なら自在に現れることができます。夢の中で彼女に殺されれば二度目を覚ますことはないでしょう」

 静かに答える風美の目には諦念が見て取れた。彼女の心は既に折れていた。

 マリスに逆らうことができず、さりとてこうして佐雄也にすべてを打ち明けてしまう自分の弱さに呆れた。

「彼女は言いました。佐雄也さんを助けたければ、自分の願いを聞けと、そうしなければ佐雄也さんを殺すと。……これでも私、貴方を守るために頑張ったんですよ? それを邪魔したのは他ならない佐雄也さん自身でした」

 誰よりも守りたかった佐雄也が、そのための行為を邪魔する。

 直接、話し合うこともできずに今までずっと一人苦悩し続けてきた。

 けれど、それも今日で終わりだった。

「マリスが次のマリシャス・ミラージュの母体に選んだのは佐雄也さんでした。これがどういうことだか解りますか?」

 マリシャス・ミラージュに取り込まれた母体は融合し、銀の門となる。そして、マリスをこの世界に呼び出すためだけの物体になるのだ。

 そうなればもう生きているとさえ、言えないだろう。

 風美は顔を手で覆い、泣き叫ぶ。

 今まで抑えていた想いが、嗚咽と混じって流れ出た。

「貴方が……っ! 貴方が余計なことをしたせいで、私は貴方を守る術を失ってしまいましたっ! もう私にはどうすることもできない‼」

 佐雄也は泣き喚く風美の傍に柔らかい微笑みを浮かべて、一歩ずつ歩み寄る。

「ありがとう、風美ちゃん」

 唐突に語られた自身の生命の危機に混乱することなく、彼は風美に感謝を述べて近付いた。

 佐雄也の心には彼女の優しさと苦しみが感じられた。

 彼女は何も言わず、自分を陰ながら守っていてくれたのだ。

 世界の破壊の片棒を担がされ、それでもなお自分を守ろうとしてくれた。

 どれほど怖かっただろうか。どれほど辛かっただろうか。

 十四歳しか生きていないごく普通の少女に掛かる精神の負荷は計り知れない。

 そんな中、一人孤独な闘いを続けていた風美に佐雄也は言葉をかける。

「俺なんかのために頑張ってくれてたんだな。本当にありがとう」

「佐雄也さん……?」

 風美の目の前まで来た佐雄也は手を伸ばして彼女の頭をそっと撫でた。

 彼女を安心させるようにできるで柔らかく、慈しむように手のひら全体で触れる。

「大丈夫だよ。俺は魔法少女マジカルマロンだ。全部どうにかしてみせる」

 その穏やかなのに力強い言葉を受け、風美は張り詰めていた心が解されていくのを感じた。

「佐雄也さん、私……うっぐあぁ!」

 何かを話そうとした風美だったが、突然台詞の途中で苦しみ始める。

「風美ちゃん!?」

 彼女の肩に手を置き、佐雄也が顔を覗き込むと彼女の顔は見たこともないほど悪意に歪んだ笑みを浮かべていた。

「……まどろっこしいから、直接私が来たよ。お兄ちゃん」

 風美の美貌が醜悪な笑みで汚され、佐雄也は彼女の肩を掴み、怒りの表情を見せる。

「っ……! お前がマリスか。風美ちゃんから出て行け!」

「酷いなぁ。お兄ちゃん。私を忘れたの? 未亜だよ」

 軽々と佐雄也の掴んでいた手を肩から外すと、風美の中に居るマリスは妖艶に笑う。

 当然、佐雄也には彼女が何を言っているのか意味が理解できない。

「未亜だと? 何を言っている!」

「理解できないのも無理ないか。今、風美ちゃんの中に居るし。なら、ゆっくり向こうで喋ろっか」

 マリスの後方の空間に亀裂が入り、そこから巨大な二十メートルほどの真鍮(しんちゅう)でできた鎧騎士が這い出て来る。

『ミィアァ……マモ、ルゥ……』

 唸るような叫びを上げ、それは公園の中に現れた。その鳴き声と見た目でそれが誰を母体としたマリシャス・ミラージュなのか佐雄也は察した。

「このマリシャス・ミラージュは、まさか!」

「そうだよ。お兄ちゃんのマリシャス・ミラージュ。お兄ちゃんの中にある負の感情を元にしたおかげで今までで一番強そうなのが生まれたね」

 佐雄也はこの場から一刻でも離脱しようと、公園の入り口に走るが身体がどれだけ駆けても辿り着かない。

 佐雄也は先ほどから雨が止まったこと、麻衣子たちを初めて目撃した場所を思い出し、理解する。

「結界か!?」

「そうだよ。アリスだけじゃく、私も使えるの」

 外に逃げ出すのは不可能と判断した彼は、マリスや騎士のマリシャス・ミラージュ――ナイト・ミラージュから距離を取った。

 少なくとも動くことができるのなら、麻衣子たちが来るまでここで結界内を逃げ回ればいい。

 恐らく、ヨーグッドは既にこの場所を探知し、麻衣子を引き連れて急行しているだろう。

「ふふ、流石はお兄ちゃん。圧倒的に不利な状況でも諦めることなく、行動できるなんてすごいね。でも」

 マリスは風美の身体を動かし、その手に黒の大剣『ジャバウォック』を作り出す。

「『ジャバウォックの牙は敵を砕く』」

 大剣は無数の刃の群れと化し、離れた佐雄也の方まで追跡するように飛んでいく。

「くっ……がっ」

 無数の黒い刃は佐雄也の手足に深々と突き刺さり、彼の肉を骨ごと貫通する。刃の群れは佐雄也ごと緩やかに浮上すると、ナイト・ミラージュ眼前へと彼を突き出した。

 血液をだらだらと流し、四肢に黒の刃を食い込ませた佐雄也はもがくが、その程度ではジャバウォックの牙からは逃れられない。

「普通なら、気絶しているレベルの激痛だけど、流石はお兄ちゃんね。でも、逃げられないからもがくだけ無駄だよ――じゃあ、食べちゃって」

 ナイト・ミラージュの目の部分が開き、そこの見えない暗闇が佐雄也の網膜に広がった。その中に彼は吸い込まれるように落ちて行く。

 彼の目の端で結界を張られた公園の中に進駐する赤茶色のエプロンドレスの麻衣子とヨーグッドの姿が見えたが、一瞬で視界は闇色に塗り潰された。


 気が付けば、佐雄也は自宅の居間にある椅子の一つに腰かけていた。

 目の前のテーブルにティーセットと洋菓子が置かれている。

 手元のカップに入っている紅茶は淹れたてなのか、芳醇な香りと共にほのかな湯気を漂わせていた。

「あれ……?」

「もう、お兄ちゃんたら聞いてるの?」

 彼の対面に座った少女が彼に尋ねる。

 黒いのふんわりとした柔らかそうな長い髪と澄んだ瞳を持った人形のような美しい顔の少女。

 佐雄也は彼女の顔を見て思わず、呟く。

「……未亜」

「ん、何? どうしたの? お兄ちゃん」

 不思議そうに首を傾げる少女は紛れもなく妹の未亜だった。しかし、その姿はどう見ても小学生ではなく、中学生くらいの年齢に見える。

 呆けたように彼女を眺める佐雄也に、未亜は怪訝そうな顔から、次第に心配そうに眉根を寄せた。

「本当に大丈夫? 急に黙り込んだと思ったら、ぼうっとしたりして」

 テーブルを越えて彼女は佐雄也の額に手を伸ばしてくる。柔らかく温かみのある手のひらが佐雄也の肌に触れた。

「熱はないみたいだけど、ひょっとして昨日夜遅くまで勉強してたの? 駄目だよ、ちゃんと寝ないと」

 (たしな)めるように言う未亜のその声に、その仕草に佐雄也の目頭が、言葉にならない感情で熱くなる。

 止め処ない涙が溢れ、頬を伝い、テーブルに滴を落とした。

「ど、どうしたの? いきなり泣き出して……怖い白昼夢でも見てたの?」

「夢? ……そうか。俺は夢を見てたのか」

 未亜の戸惑う様子を見て、佐雄也は理解する。未亜とのお茶会の途中で、いつの間にか眠っていたようだ。

「そんなに怖い夢だったの?」

「どんな夢、だったかな……」

 彼女に問われ、今しがた見ていた夢の内容を思い出そうとする。だが、いくら思い出そうとしても自分が見ていたはずの夢の中身が出て来ない。

 辛うじて思い出せるのは、その夢が自分にとって、とても悲しくて苦しかったということだけだ。

「思い出せない。でも、凄く悲しい夢だったことは何となくだけど覚えてる」

「じゃあ、思い出さなくていいよ。そんな悲しい夢さっさと忘れちゃおう」

 あっけらかんと笑顔でそう述べる未亜に佐雄也も同意する。

所詮夢は夢だ。そんなものを気にしていても時間の無駄にしかならない。

今、佐雄也にとって重要なのは未亜との会話の続きだ。

「えっと、それで何の話をしてたんだっけ?」

「だから、二人でこの後遊びに出掛ける場所を決めようって話だよ。昨日の夜から言ってたでしょ? 明日は二人とも学校が休みだからお出掛けしようって。……今度は眠らずにちゃんと聞いてよね?」

 唇の先を尖らせて、少し不満げに上目遣いをする未亜に苦笑して、佐雄也は謝る。

「ごめんごめん。もう大丈夫だから。そうか、じゃあ、どこにしようか。未亜はどこに行きたい?」

「私はね、映画館がいいな。ちょうど今やってるのが気になってて」

 楽しそうに話す未亜の顔を眺め、佐雄也は満ち足りた気分に浸る。

 彼は妹の浮かべるこの表情が何よりも好きだった。この笑顔が見たくて、昔からついつい甘やかしてしまう。

 可愛らしいお姫様に従う忠義のある騎士のように、佐雄也は不満一つ漏らさず彼女の我がままを聞く。

 それこそが妹想いの兄である彼にとっての幸せだった。

 けれど、彼は何か頭の片隅に引っ掛かるものを感じていた。

 大切な、忘れてはいけないものを、思い出せないような感覚。それが喉奥に刺さった魚の小骨のように佐雄也に自己の存在感を主張してくる。

 それさえなければ、もっと楽しいはずなのにと思いながらも、思考を巡らせた。

 自分は何を忘れてしまったのだろう。さっきの夢の内容か、それとも――。


 ***


「お師匠さんっ!」

 麻衣子とヨーグッドが公園の中に入ったとほぼ同時に、真鍮の鎧騎士に呑み込まれていく佐雄也の姿があった。

 彼の名を叫ぶ麻衣子の声も空しく、佐雄也の身体は巨大な鎧騎士の開いた頭部に吸い込まれる。

「遅かったヨグ……まさか、彼が次の母体にされていたヨグか」

 ヨーグッドはまさか佐雄也が母体なるとは思いもよらなかった。強固な彼の精神に負の感情など存在があると想像できなかったからだ。

 自分に悪意を向ける人間にさえ、手を伸ばして救おうとする高潔さと、どれだけ重傷を負おうとも決して挫けない芯の強さから、彼のことを超人のように見ていた。

 麻衣子も師として尊敬する佐雄也がそういった後ろ暗いものを持っていたとは考えもしなかった。

「そんな、お師匠さんが……マリシャス・ミラージュに……」

 真鍮の鎧騎士はただでさえ大きかった巨体をさらに肥大化させ、銀色のその身を染める。

 三十メートルほどの規模にまで到達したナイト・ミラージュは空を仰ぎ、獣じみた咆哮を上げる。

『オオオオオオオオオオオオォォォ‼』

 公園をぐるりと囲むように覆っていた結界がその一声で砕け散り、消失した。

「うぐぅ……」

 余りの耳を麻衣子は耳を塞ぐ。ヨーグッドも長い耳を折り曲げて、轟音に耐えるが聴力のいい彼は麻衣子以上に苦しめられている。

 しかし、そこで麻衣子は黒いゴシックドレスの衣装を着た風美の姿をようやく視界に収めた。

「風美さんっ!? あなたが……魔法少女マリスだったんですか!」

 風美は麻衣子の声にも反応せず、その場に両膝を突いて、ただ呆然と完全体になったナイト・ミラージュを見上げていた。

 既に彼女の中にはマリスは居らず、意識も風美のものに戻っていたが、その心は絶望に塗り潰されていた。

「もう……何もかも終わった。佐雄也さんは戻って来ない……」

 マリシャス・ミラージュと一つに融合した母体はやがて銀の門へと成長し、マリスを呼び出すための入口になる。

 今まで風美の頭の中で囁いていたマリスの声も聞こえなくなったのは、彼女が風美を必要としなくなったせいだ。

 前回までと違い、マリスは直々に佐雄也に干渉し、銀の門生成の機会を逃さないつもりなのだ。

 今にして思えばマリスは最初から、佐雄也を母体として狙っていたのかもしれない。

 もしそうなら、マリスは風美との約束など守る気がなかったことになる。

 前回までとは遥かに規格の違う、強烈な悪意の波動が銀の鎧騎士から放たれていた。

 空気さえ淀ませるその強烈な負の感情の奔流はナイト・ミラージュの雄叫びに混ざり、周囲に拡散する。

 公園の周辺に居た人々が怪訝そうに窓から、顔を出した頃、鎧騎士の原形が溶け落ちるように変化し、巨大な銀色の門となった。

 直径三十メートルはあろうその重厚な門は、鈍い音を立てて開く。

 開いた先から凄まじく何かが溢れるように、流れ出して来たかと思うと、瞬く間に世界を覆い尽した。

 公園の周りだけはなく、どこまでも空間そのものを汚染するように埋め尽くしていく。

 まるで透明な水の中に大量の絵の具を混ぜたように、この世界に存在するありとあらゆるものを己の色で塗り潰した。

 空を、海を、陸を、地球を得体の知れない何かが覆い尽す。

 風美と麻衣子、そして、ヨーグッドだけはその何かによる汚染を免れることができたが、取り残された彼らが見たものは文字通り悪夢のような光景だった。

 大きく戯画的に歪んだ樹木が、カラフルな地面からそれぞれ地面の色に対応して生えている。

 建造物は軒並み、物理法則を無視して斜めに傾ぐように立っていた。

 幼児の書いた絵のような幻想的で抽象的な物体で溢れた世界は夢の中の景色に酷似している。

 人間の代わりに蠢く昆虫や鳥、獣といった動物たちが跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)しており、そのどれも例外なく鉱石や宝石で構成されていた。

彼らの一匹一匹が、数メートルはあろう巨体を忙しなく動かし、麻衣子たちを見据えている。

「これが世界の終わり……?」

 麻衣子はぽろりと口から呟きを漏らす。

 自分が今まで見てきたものが一瞬にして塗り潰された精神的衝撃は彼女の頭を麻痺させていた。

 心のどこかでは甘く見ていた。世界という単語があまりにも漠然としていて、こうもあっさりと日常が壊れると考えていなかった。

「……これはほんの予兆にしか過ぎないヨグ。まだ、マリス本体が、この悪夢の世界の女王が現れていないヨグ……」

 絶望的な光景を眺めながら、ヨーグッドは麻衣子の独り言にも似た呟きに返答する。

 今日常を完膚なきまでに破壊し尽したこの状況ですらまだ序章。

 本当の絶望が訪れるのは、悪夢を統べる邪悪の女王が降臨する時だ。

 無限のマリシャス・ミラージュで満たされた現実世界はさながら死刑執行を待つ囚人のようなもの。

 確実な滅びを前にしながらも、迫り来る最期を恐れ慄き、震えて待つしかない。

「ふふふ、あはははははははは!」

 その中で笑い声が上がる。

 麻衣子とヨーグッドは声の主の方に顔を向けた。

「終わりよ。もう、何もかも……皆、悪意の幻影に染め上げられて、何も残ってない」

 乱れた前髪が顔に垂れ、退廃的な雰囲気を増した風美は蹲った姿勢で諦念と自暴自棄の籠った声で言う。

 彼女の口ぶりが麻衣子の麻痺した脳に怒りという名の刺激を与えた。

「っ……誰の、誰のせいだと思ってるんですか!」

 風美の方まで歩み寄ると、腕を掴んで無理やり引き擦り起こして、叫ぶ。

「これは全部、あなたが望んで引き起こしたことでしょう! それなのに!」

 麻衣子にかっと見開いた風美は、彼女に負けじと声を張り上げ、叫び返した。

「望んだことですって? ふざけないでよ! 私の望んだ通りなら、佐雄也さんは助けられた! 何よりも守りたかったあの人をっ‼」

 剣幕に気圧され、麻衣子は怯みかけるものの、風美の言っていることが正当性を欠いている。

 そんな自分勝手な言い分に負けるほど、麻衣子も柔な少女ではなかった。

「お師匠さんをマリシャス・ミラージュに取り込ませたのはあなたじゃないですか!?」

「私じゃない! マリスが、私の中に居た未亜ちゃんがやらせたのよ! 誰が好き好んで、愛しい人を化け物の餌にするっていうの!?」

 お互いに血が上った頭では叫び合うことはできても、まともな会話は成立しない。

 どちらも一方的に自分の言いたいことを相手にぶつけているだけなので、相手の言葉から情報を得ようとしてなかった。

 そこで、ヨーグッドは仲裁に入り、今にも殴り合いに発展しそうになる二人を宥めた。

「落ち着くヨグ、麻衣子ちゃん。そっちの魔法少女マリスも」

 麻衣子も風美も納得してはいなかったが、ヨーグッドが間に割り込んだおかげで一旦距離が生まれ、一触即発の空気からは脱する。

「今の話を聞く限り、魔法少女マリス……風美ちゃんもマリスに騙されて利用されていただけみたいヨグ」

 ちらりと周りのマリシャス・ミラージュを見て警戒をしながら、ヨーグッドは二人に情報を整理して共有しようと試みる。

「風美ちゃんは佐雄也君を守るために、マリスに加担して魔法少女マリスになった……これであってるヨグか?」

「……ええ、そうよ。何もかもご破算になってしまったけどね」

 隠す理由もなくなり、自棄になった風美の口は軽かった。元々、やっていたことに多少なりとも罪悪感を持っていた彼女はこうして誰かに打ち明けたかったのだ。

 風美から大体の話を聞き、麻衣子も彼女へ向ける眼差しが同情を含むが、それでも彼女が犯したすべての所業を許す気にはなれなかった。

 ヨーグッドはそれらの話を聞き終えると、一つだけ風美に対して質問をする。

「今の話だと、栗山未亜がマリスのように聞こえたヨグが……」

「それがなんだって言うの?」

「何か引っかかるヨグ。本当に栗山未亜がマリスと完全に同一の存在なら、なぜ彼女は七年前に病死したヨグ?」

「そんなことどうだっていいわ……」

 腕組みをして考え込むヨーグッドに風美は興味なく、項垂れた。

 もはや、佐雄也の居ないこの世界に彼女は何の感慨も湧かない。未亜やマリスへの関心など既に消失していた。

 麻衣子はヨーグッドと同じ疑問を懐くが、世界がこうも崩壊してしまってはそれどこではない。

 周囲に居た無数のマリシャス・ミラージュがぞろぞろと麻衣子を取り囲むように集まって来る。

「ヨーグッドさん、マリシャス・ミラージュが来ます!」

 鋼鉄でできた狼、青銅でできた大蛇、水晶でできた一角獣など様々な幻想的な生物がこの場にそぐわぬ異物である麻衣子たちを排除しようとにじり寄る。

「麻衣子ちゃん! まだ戦えるヨグか?」

 ヨーグッドの言葉に数瞬麻衣子は黙り込んだ後、大きく頷いた。

「はい! まだやれます!」

 ハンプティ・ダンプティを構え、彼女はマリシャス・ミラージュの群れへと眼光を向ける。

 その目には確かな輝きが灯っていた。

 諦めずに抗おうとする強い光が麻衣子の中で輝いている。

 それは絶望しきった風美には理解のできないものだった。

「『ハンプティ・ダンプティは姿を変える ハンプティ・ダンプティは剣に変わった』」

 杖から剣へと己の武器の形状を変えると、麻衣子は向かってくるマリシャス・ミラージュへと斬りかかる。

 一体、また一体と剣を振るい倒していくものの、地面やオブジェから次から次へと生まれるマリシャス・ミラージュは減るどころか、数を増やしていく。さながら体内に入った雑菌を始末しようとする白血球のように麻衣子たちが死ぬまでキリがなく生産されるようだった。

 ヨーグッドの傍でその姿を眺める風美には、麻衣子の奮闘が無意味な行為にしか映らない。

 疲労し、無為に傷を増やすだけのその行動に何故力を注ごうとするのかまるで分からなかった。

「馬鹿な人……もうどうしようもないのがまだ理解できないの?」

「……理解してるだろうさ。その上で麻衣子は頑張ってんだよ」

 ボーイソプラノボイスから一転してドスの聞いた低音になったヨーグッドがそう吐き捨てる。

 風美は悪魔の如き相貌になったウサギのマスコットに目を丸くしたが、やがて取るに足らないことと判断し、元の諦めに満ちた顔に戻った。

「それなら本物の馬鹿ね。僅かに死ぬまでの時間を伸ばす悪足掻きにしかならないじゃない。この世界がマリシャス・ミラージュに塗り潰された以上は、何をしても無駄よ」

 嘲るというよりも、憐れむように言う風美にヨーグッドも同意する。

「確かにそうかもしれねえ。だが、麻衣子は知ってる。絶対に叶わない夢を追い続けて努力を重ねた馬鹿野郎を」

 風美はその台詞に魔法少女を目指し邁進する佐雄也の姿を思い出すが、振り払うように頭を振った。

「……佐雄也さんはもう居ないわ。あの人は銀の門になって、今もマリシャス・ミラージュを吐き出すだけの存在になってしまった……」

「それでもあの馬鹿野郎がここに居たらって、戦うだろうって麻衣子は思ってんだろうな」

 それだけ。たったそれだけのことが今の麻衣子を支えていた。

 多勢に無勢で追いやられ、赤茶色のエプロンドレスをボロボロにしながら、ただ一人で彼女は戦っている。

 アップヘアーにセットされた茶色い髪も解けて、くしゃくしゃに乱れ、汚れていた。小さな身体が吹き飛ぶたび、出しそうになる悲鳴を押し殺し、剣を振るい続ける。

 風美は無性にその姿に苛立ちを覚えた。

 愚かにも戦うことを止めない麻衣子にではない。何もかも諦めて指を咥えて見ているだけの自分自身にだ。

 それを横目で見たヨーグッドは言った。

「その馬鹿によるとだな――魔法少女は不可能を可能にする存在、なんだとよ」

 その言葉は風美の背中を押すには十分過ぎる言葉だった。

「私だって……私だって魔法少女よ! 来なさい! ジャバウォック‼」

 天にかざした彼女の手に黒い靄が集まり、一本の大剣となる。

 ジャバウォックをその手に握り、風美は叫びながら麻衣子を襲うマリシャス・ミラージュの方へと駆けた。

「『ジャバウォックの尾は敵を弾く』っ‼」

 大剣は蛇腹状に伸び、麻衣子に噛み付こうとしていたオパールの狐を捉え、一撃で粉砕する。

 麻衣子はそれを見て、自分の隣にまで来た風美に微笑んだ。

「助けてくれてありがとうございます!」

「余所見している暇があるの? 本当に馬鹿な人ね」

 素っ気なく風美は彼女の感謝を一蹴すると、蛇腹状の剣の長さを活かし、中距離に居たマリシャス・ミラージュも巻き込んで砕いていく。

 麻衣子はその様子に少しだけ苦笑いをした。そして周囲の敵が減ったことを確認すると、ハンプティ・ダンプティの形状を弓に変える。

「『ハンプティ・ダンプティは姿を変える。 ハンプティ・ダンプティは弓矢に変わった』」

 弦を引き、風美が狩り残したマリシャス・ミラージュを一匹ずつ仕留め始める。

 麻衣子の周りが落ち着くのを見計らっていたヨーグッドは元のマスコット顔に戻し、彼女の傍まで飛んだ。

「麻衣子ちゃん、ありがとうヨグ。すぐに回復させるヨグよ」

 弓矢を撃つ麻衣子を邪魔しないように、後ろに立ったヨーグッドは時間を巻き戻し、彼女の傷を消す。

「ありがとうございます、ヨーグッドさん」

 ここら辺で一息吐きたい麻衣子だったが、マリシャス・ミラージュは無限に湧くので休む暇はない。

 幸い、ヨーグッドのおかげで肉体的な疲労はなくなったため、大分楽になったが精神の疲労は彼女の中で蓄積し続けていた。

 十四年しか生きていない少女にとって、先の見えない戦いは容易く精神を削るものだ。それに加え、自分の住んでいた世界が異常なものに侵食された光景。

 絶望し、崩れ落ちてない方が不思議なくらいだ。

「麻衣子ちゃん、大丈夫ヨグか?」

「平気です。だって、私、魔法少女ですから」

 蒼白に染まりつつある顔で気丈に笑みを作る麻衣子にヨーグッドは掛ける言葉が見つからずに口を閉ざした。

 こんな時にあの魔法少女を名乗る愚か者が居れば己とは違い、彼女を安堵させることができたのではないか。

 そんな栓なき考えが脳裏を過る。

 麻衣子は苦渋の見えるヨーグッドの顔を覗き込んで、優しく言った。

「お師匠さんもきっと帰ってきます。この世界も元に戻ります」

 叶いそうにない願望のような言葉。しかし、その声には確かな希望が籠められていた。

 麻衣子はそれだけ言うと、戦いを続けている風美の方へ走って行った。

 ヨーグッドはその背を見送り、空に浮かぶ巨大な銀の門を見上げた。

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