第一話「敵国の牢屋は、思ったより飯が旨かった」
牢屋というものは、もっと陰鬱なものだと思っていた。
マティアスは石造りの壁を眺めながら、そう考えた。じめじめしていて、鼠が走り回っていて、看守は無口で横柄で、飯は腐りかけのパンと水だけ——そういうものだと、長年の軍人経験から学んでいた。
現実は違った。
まず飯が旨かった。
シチューだった。肉が入っていた。パンも焼きたてだった。
「……なぜこんなに旨いんだ」
独り言のつもりだった。
「コック長が元々、王都の高級料理店にいた人なのよ」
隣の牢屋から声がした。
マティアスは壁を見た。石の向こうに、声の主がいた。女の声だった。若い。そして、やたらと明るかった。
「お前は誰だ」
「エルザ。あなたは?」
「……マティアス」
「へえ。固い名前ね」
「名前に固いも柔らかいもない」
「あるわよ。私の弟なんてフワンっていうの。どう考えても柔らかいでしょ」
マティアスは返事をしなかった。
シチューを食べた。本当に旨かった。これは困った、と思った。飯が旨い牢屋は、脱出する気力を削ぐ。
「あなた、何をやらかしたの?」
「やらかした覚えはない」
「じゃあ何で捕まったの」
「……敵国に潜入していた」
「スパイ!」
エルザの声が跳ね上がった。壁の向こうで、何かが倒れる音がした。
「凄い。本物のスパイ、初めて見た」
「見えていないだろう」
「声を見たのよ。ねえ、スパイって何か特殊な技術があるの? 毒を歯に仕込んでたりする?」
「ない」
「じゃあ変装は? 今もしてるの?」
「していない」
「普通の顔なの?」
「……普通かどうかは知らん」
エルザはしばらく黙った。考えているらしかった。マティアスはその隙にシチューを半分片付けた。
「ねえマティアス」
「なんだ」
「私、ここから出たいんだけど、手伝ってくれない?」
マティアスはスプーンを止めた。
「お前はなぜ捕まっている」
「王様の甥っ子に求婚されて、断ったら捕まった」
「……」
「理不尽でしょ」
「理不尽だな」
「でしょ! だから手伝って」
マティアスはシチューの残りを見た。旨かった。本当に旨かった。
しかし隣の声は、シチューより早く、彼の思考の中に入り込んでいた。
「お前は脱出する手段を持っているのか」
「ゼロ」
「計画は」
「これから考える」
「協力者は」
「今のところあなただけ」
マティアスは天井を見た。石造りの、無愛想な天井だった。
「私はスパイではない」
「え、でもさっき——」
「敵国に潜入していた軍人だ。スパイとは違う」
「どう違うの」
「……鎧を着ている」
エルザはまた黙った。今度は少し長かった。
「比喩?」
「そうだ」
「かっこいいこと言うのね」
「褒めていない」
「褒めてたわよ、今の私は確かに褒めてた」
マティアスはシチューを食べ終えた。皿を置いた。
牢屋の窓から、夜風が入ってきた。遠くで、何かの花の香りがした。名前は知らない花だった。
「エルザ」
「なに」
「脱出は三日後だ」
壁の向こうが、しんと静まった。
それから——
「やったああああ!!」
という声が、牢屋の廊下中に響き渡った。
看守が飛んできた。マティアスは目を閉じた。
鎧の下で、ごく小さな何かが、音もなく笑っていた。
つづく




