首都セントレア
国境の門が見えなくなってからも、グラムは何度か後ろの気配を探った。
追手はいない。帝国兵の足音も、鉄門の軋む音も、もう聞こえない。
あるのは、乾いた街道を踏む自分の足音と、遠くから近づいてくる荷車の車輪の音だけだった。
「兄ちゃん、退いてくれい」
前から来た荷馬車の御者が、軽く手を振った。
グラムは一歩、道の端へ寄る。
荷台には麻袋が積まれ、その上に子どもが二人座っていた。片方がグラムの剣を見て、すぐに母親らしき女の陰へ隠れる。
「旅人か?」
御者が尋ねた。
「分からない」
「分からないってことはないだろ。どこへ行く」
「アルヴェリア王国」
「ここはもうアルヴェリアだよ。目指すならセントレアか?」
「たぶん、そこだ」
御者は妙な顔をした。
グラムはその顔を見て、何か間違えたのだと分かった。だが、何を間違えたのかまでは分からない。
「まあ、道なりに行けば着く。日が落ちる前には門が見えるはずだ。腹は減ってないのか?」
「減っている」
「なら、少し行ったところに茶屋がある。帝国の硬貨も、たいていは両替してくれる」
「両替」
「……兄ちゃん、本当に旅は初めてか?」
グラムは答えなかった。
闘技場から別の闘技場へ運ばれたことはある。だが、それは旅ではない。鎖につながれ、荷として運ばれただけだ。
自分で歩き、どこかへ向かうことを旅と呼ぶのなら、たしかに初めてだった。
御者はそれ以上聞かず、荷馬車を進めた。
すれ違う直前、荷台の子どもが小さく言った。
「おじさん、怖い顔」
「そうか?」
女が慌てて子どもの口を押さえる。
怖がらせるつもりはなかった。だが、どうすれば怖がらせずに済むのかも分からなかった。
御者の言った茶屋は、街道の分かれ道にあった。
屋根の下には、旅人や行商人が数人いる。誰も鎖をつけていない。誰も監督官の合図を待っていない。
それぞれが勝手に座り、勝手に食い、勝手に話していた。
「いらっしゃい。食べるかい?」
店主の女が言った。
「あぁ、食べる」
「パンと豆の煮込みで銅貨三枚。水なら一枚、薄い酒なら二枚だよ」
グラムは旅袋から革袋を出した。中には帝国が渡した硬貨が入っている。
彼は硬貨をひとつかみ取り、台の上に置いた。
女店主が目を丸くする。
「ちょっと待ちな。出し過ぎだよ」
「足りないのか」
「逆だよ。店を買う気かい?」
近くの席で、若い旅人が吹き出した。
グラムはそちらを見る。旅人は慌てて手を振った。
「悪い悪い。怒るなよ。初めてなら仕方ないさ」
「怒っていない」
「そうかい?怖い顔してたからな」
店主は硬貨を数え、必要な分だけ取って残りを戻した。
「帝国の小銀貨だね。ここでも使えないことはないけど、セントレアに着いたら両替所へ行きな。全部そのまま出していたら、悪い商人に丸ごと持っていかれるよ」
「商人は敵か」
「違うよ。敵じゃない。けど、金の扱いを知らない奴は損をするのさ」
「損をすると、死ぬのか」
「あんた変な人だね。損をしても死なないよ、すぐにはね。でも飯が食えなくなる」
「なら、危険だ」
店主は少し黙ったあと、豆の煮込みをよそった。
「そうだね。腕っぷしに自信があるのかもしれないけど、旅の危険は剣で斬れるものばかりじゃないよ」
グラムは木椀を受け取り、席についた。
味は薄い。だが、誰かに配給されたものではない。自分で金を出し、自分で選んだ食事だった。
それがよいことなのか、まだ判断できない。
「兄ちゃん、帝国の人間か?」
先ほど笑った旅人が尋ねた。
「そうだった」
「だった?」
「今は自由民だ」
旅人の視線が、グラムの手元の銀板へ向く。
店主もそれを見たが、すぐに目を逸らした。事情を深く聞くつもりはないらしい。
「自由民なら、仕事を探してんだよな」
「あぁ」
「セントレアなら冒険者ギルドがある。剣が使えるなら、そこで登録すればいい」
「剣を使えば、仕事になるのか」
「使い方によるだろ。魔獣を倒すなら仕事。町中で振り回したら犯罪だ」
犯罪。
その言葉は分かった。闘技場にも規則はあった。従わなければ鞭が飛び、ひどければ次の試合で殺されるよう組まれた。
だがここでは、命令した者ではなく、振るった本人が責任を負うらしい。
「自由は、手間が多いな」
グラムが言うと、旅人は笑った。
「まあな。でも、手間をかける相手を自分で選べる」
「それが自由か」
「たぶん、そういうことだ」
グラムは返事をしなかった。
まだ分からない。だが、帝国兵の隊長が言った言葉と似ている気がした。
セントレアの外壁が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。
帝国の黒冠都市グラン・オルドの城壁は、見る者を押さえつけるための壁だった。黒く、高く、近づくほどに息が詰まる。
セントレアの壁は白灰色の石でできていた。高いことは高い。だが、門の前には商人の列があり、荷馬車の検査を待つ者たちが文句を言い、門番がそれに言い返している。
「次」
門番が言った。
グラムの番だった。
門番は最初に顔の傷を見て、次に剣に目線を落とした。最後に、手にした銀板に視線を移し、グラムに問う。
「身分証は」
自由民の証と旅券を出した。
門番は受け取り、刻まれた文字を読む。
「……オルドレア帝国。グランオルド闘技場。百勝剣闘士、グラム」
隣にいた若い門番が驚いたように顔を上げた。
後ろの列も少し静かになる。
グラムは黙っていた。こういう時、何を言えばよいのか分からない。
「帝国の剣闘士が、何の用でアルヴェリアへ来た」
「自由民になった」
「それは書いてある。目的を聞いている」
「仕事を探す」
「知り合いは」
「いない」
「宿は」
「まだない」
「金は」
「少しある」
門番は眉間を押さえた。
「お前、よくここまで来られたな」
「道は一本だった」
「そういう意味じゃない」
若い門番が小さく笑い、年上の門番に肘で突かれた。
年上の門番はもう一度、旅券を確認する。
「書類は本物だ。帝国の印もある。こちらで罪を犯している記録もない。入城は認める」
「入っていいのか」
「アルヴェリアでは、元奴隷だからといって門前払いはしない。だが、覚えておけ」
門番は銀板を返しながら、グラムを見る。
「ここでは、お前は誰かの所有物ではない。だから、問題を起こせば、お前自身の責任になる」
「誰かの命令でもか」
「命令した奴がいれば、そいつも裁かれる。だが、お前の剣を抜くかどうかはお前の判断だからな」
「そうだな」
分かりやすい言葉だった。
闘技場では、鐘が鳴れば剣を抜いた。監督官が言えば敵を殺した。剣を抜かねば死ぬのはこちらの方だった。ここでは違う。
剣を抜く前に、自分で決めなければならない。
「分かった」
「本当に分かってるか?納得してる顔には見えんが……」
「そういう顔だ」
「そうか。なら、町中で剣を抜くな。揉め事は衛兵かギルドへ持ち込め。安い宿は西門通りにある。仕事を探すなら中央通りの冒険者ギルドだ」
「冒険者ギルド」
「そうだ。魔獣退治、護衛、採取、荷運び。剣で飯を食いたいなら、まずはそこへ行け」
門番が半歩退いた。
グラムの前に、セントレアの通りが開く。
石畳の上を、人が歩いている。商人が声を張り、子どもが走り、毛皮に覆われた二足歩行の獣人が、遠くの通りを横切る。人間とは明らかに違う姿だったが、誰も首輪をつけていない。
誰も、グラムに次の命令を出さない。
「行け」
門番が言った。
命令に聞こえたが、違う。門を塞ぐなというだけの言葉だ。
グラムは一歩、セントレアへ入った。
自由というものは、まだよく分からない。
ただ、次に向かう場所だけは決まった。
冒険者ギルド。
そこへ行けば、仕事がある。
そこへ行けば、自分で選ぶということが、少しは分かるかもしれない。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




