戦うだけじゃない
マッドタスクボアが動かなくなっても、バルドはすぐに盾を下ろさなかった。
泥と血の混じった地面で、巨大な猪型魔獣は荒い息の名残だけを残して沈黙している。グラムは剣を抜き、刃についた血を払い、視線を上げた。
傾いた荷車。泥にはまった車輪。震えている馬。泣き疲れた子ども。荷台から落ちた麻袋。リックに支えられている小商人。
倒した相手より、残ったものの方が多かった。
「……何をすればいい」
「まず人だ。次に馬と荷車。最後に死体を片付ける」
「わかった」
バルドは盾を肩に戻し、子どものそばへ向かった。
リックは子どもの足首を見ている。指先は少し震えていたが、手当ての動きは止まっていなかった。
「骨は折れていないと思います。腫れはありますけど、動かせます」
「治療院に行けるか」
「歩かせない方がいいです。馬車が直れば乗せられますけど……」
リックが荷車を見る。
片方の車輪が泥に沈み、軸が少し歪んでいた。積み荷を戻す前に、まず荷車を起こさなければならない。
小商人は何度も頭を下げていた。
「助かりました。娘が、娘が……」
「礼は後だ」
バルドが遮る。
「名前は書けるか」
「は、はい」
「なら、あとで証言書を書け。マッドタスクボアに襲われたこと、子どもが荷車に挟まれたこと、グラムが助けたこと、俺が現場にいたこと。ギルドに提出する」
「分かりました。必ず」
グラムはそのやり取りを聞いていた。
「証言もいるのか」
「いる。依頼外の魔獣を倒した。荷車を助けた。誰が見ていたかを書かねえと、報酬も記録もややこしくなる」
「牙を持っていけばいい。兎のように」
「それじゃあ、横取りした可能性もでてくるだろ。」
「そんなことはしない」
「お前さんはそうかもな。でも、他の奴は違う」
バルドはそこで、グラムの方を向いた。
「お前は強い。あのボアも、真正面から斬るだけならどうにかできただろう」
「ああ」
「だが最初は止めきれなかった。ぬかるみも、荷車の位置も、馬の暴れ方も見ていなかったからだ」
グラムは黙った。
反論はない。自分が止められなかった突進を、バルドは盾で止めた。倒す力とは違うものが、確かにそこにあった。
「ここは闘技場じゃねぇ。色んな状況が起こるんだ。まずは周りを見ねぇとな」
バルドははっきり言った。
「守る相手がいるなら、敵より先にそいつらを見る。どこに逃がすか。何が邪魔か。何を残せばいいか。冒険者の仕事は、勝って終わりじゃねえ」
「勝って終わりではない」
「そうだ」
「分かった」
「本当に分かったか?」
「ああ、敵だけ見てたらダメなんだろ」
バルドは少しだけ眉を上げ、それから鼻で笑った。
「まあ、今はそれでいい」
次に問題になったのは、マッドタスクボアの死体だった。
グラムは巨体の脚を掴み、そのまま引きずろうとした。泥が大きく動き、リックが目を丸くする。
「全部持っていくんですか!?」
「証明になる」
「道が塞がります!」
バルドが大きくため息をついた。
「やめろ。丸ごと持って帰るな」
「なぜだ」
「重い。邪魔だ。腐る。そもそも門で止められる」
「なら、どこを持って帰る」
「牙と魔石。泥皮膜は一部でいい。肉は食えるが、今日は荷車の救助が先だ。余裕があるなら商人に分ける」
グラムはマッドタスクボアを見下ろした。
闘技場で倒した敵は、係の者が片づけた。勝者が死体をどう扱うかなど、考える必要はなかった。
「解体は知らない」
「だろうな。殺すのと解体するのは違う」
バルドは腰の解体用ナイフを抜いた。
「見てろ。牙は根元を折るな。魔石は胸の奥だが、深く突きすぎると割れる。泥皮膜は乾くと硬くなるから、薄く剥いで布で包む」
「難しいな」
「だから仕事だ」
バルドが最初の切れ目を入れる。
グラムはその手つきを見た。力は強くない。だが、無駄がない。盾を構えた時と同じで、必要な場所だけを押さえている。
「やってみろ」
差し出されたナイフを受け取り、グラムは牙の根元に手を置いた。
「そこじゃねえ。少し外側だ」
「ここか」
「そうだ。力任せにするな、隙間に刃を入れろ」
グラムは言われた通りにした。
力を入れればすぐに切れる。だが、入れすぎれば証明部位が傷む。ホーンラビットの角を残した時より、さらに面倒だった。
「面倒だ」
「丁寧に慣れておけ」
バルドが笑い、リックが小さく吹き出した。
グラムは笑わない。だが、手を止めずに続けた。
一本目の牙を外す。二本目は少し早くなった。魔石を取り出す時は、バルドが横から手を添えて位置を教えた。
「割れていない」
「上出来だ」
「報告に使うのか」
「討伐証明と素材だ。ホーンラビットの角とは別に出す」
「増えたな」
「ああ、増えた」
リックが遠い目でうなずいた。
「ホーンラビット三体、角三本。マッドタスクボア一体、牙二本、魔石一つ、泥皮膜。荷車の被害。子どもの怪我。商人さんの証言。バルドさんの監督報告……はぁ」
「多いな」
「はい。多いです」
バルドは荷車の軸を確認し、商人に指示を出した。
積み荷を一度下ろし、車輪の下に板を噛ませる。グラムが荷台を持ち上げ、バルドが車輪の位置を直す。リックは子どもを座らせ、応急布で足を冷やしていた。
完全ではないが、セントレアまで戻るくらいなら何とかなる。
「動かせる」
グラムが言うと、小商人はまた頭を下げた。
「本当に、何とお礼を言えば……」
「礼状を書け」
バルドが即答した。
「金の話はギルドを通せ。現場で直接渡すと、あとで面倒になる」
「は、はい」
グラムは首を傾げた。
「礼も手続きか」
「手続きだ。自由な国ほど、そういうところは細かい」
「そうか」
小箱に入れたホーンラビットの角は無事だった。マッドタスクボアの牙と魔石は、別の布に包む。泥皮膜の一部は、バルドが乾いた葉を挟んでまとめた。
荷車がゆっくり動き出すと、馬はまだ怯えていたが、商人の手綱には従った。
「ギルドへ戻るぞ」
バルドが言った。
「治療院は」
「子どもは商人が連れていく。お前も後で行け」
「俺は動ける」
「それは答えになってねえ」
リックが苦笑した。
「ミレーヌさんにも言われますよ」
「分かった」
「本当に分かっていますか?」
「報告する。治療院にも行く」
「よし」
バルドが満足そうに頷いた。
グラムは歩きながら、頭の中で言葉を並べる。
ホーンラビット三体。角三本。怪我なし。帰りに荷車が襲われていた。子どもが挟まれていた。バルドが突進を止めた。子どもを助けた。マッドタスクボアを倒した。牙と魔石を持ち帰る。
「報告書がまた面倒になるな」
バルドがぼやく。
「なぜ面倒だ」
「今日の出来事をギルドがしっかり書き留めるまで、帰れねえからだよ」
「それは……面倒だ」
バルドが大声を出して笑った。
「お前もミレーヌの尻に敷かれ始めたな」
リックが笑った。
グラムは振り返り、道の端に残った泥の跡を見た。
倒したものより、守ったものを数える。まだ慣れない。だが、それも仕事だと言われた。
「良く周りを見ろ」
小さく繰り返すと、バルドが横目で見た。
「忘れるなよ」
「ああ」
セントレアの城壁が、遠くに見え始めていた。
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この作品とは別で「スローライフってそういう事じゃなくって」という作品を書いております!
この奴隷剣闘士よりも情景描写や心理描写に焦点を当てた作品となっております。気になる方はぜひそちらも読んでください!!




