扉の向こう側
彼女には居酒屋の上階にある角部屋に案内された。元々ここは宿泊施設だったらしく、昔の名残で2階には当時の部屋が残っているようだ。
部屋は埃っぽかった。ぼんやり床を踏むと、そこの空虚な生活感にうっすら足跡が馴染むような気がした。
扉の向かい側の壁には小さな窓が掛かっており、ガラス越しに月光が行場を求め、迷い込んでいた。ベールにも似て、ひたと降り注ぐそれは窓際のベッドをいだたせる。動き一つで乱丁していく沈黙。歩行のたびに軋む音は、饒舌に舞い上がる塵芥をより多く見せてくれた。
下階の声がここまで響いてくる。緩急は私を駆り立て、ベッドまで奮い立たせた。
ゆっくり深く沈み込んでいく。普段以上に下がった視界は、寄与する背中が大いに私を包み込む隷属を、映しはしなかった。唯一、私と成る淡い闇は皮肉たる私と垂れ流しの意識とを引き剥がしてくれる。盲従の影にも今日は体を与えよう。不断な狭義心が日の出と共に戻る頃まで。
翌日、私は日の光そして鳥のさえずりに目を覚ました。朝は快調ではない。だが、今朝は一段と空が明るかった。昨日までは囃し立てる声でごった返していたが、異様な静寂だけは取り残されていた。
身支度だけして部屋から出ようとする。すると、ドアの向こうから件の彼女の声が聞こえてきた。
「もう朝だぞ。起きてきな」
「はーい、すぐ行きます」
軽く返事だけ返し、一日泊めてくれたその部屋を感謝するように見回して、そのまま廊下へでる。心なしか、起伏に富んだ面持ちは真新しさを包括している気がした。
一階居酒屋は妙に綺麗に保存されていた。日の光が窓を通り、床のシミに伴って色を変える。
この先どうしていくのだろう。何が正解か、何が危険か模索しながらの旅になるのだろうか。気抜かれる前に横たえているかも知れない。
(まぁそんなこと杞憂だよな)
将来を恐れ、今を厳かにしてきた私は吹っ切れる事を優先し始めていた。
どうにかするから、どうにかなる。案外世界は単純に回っている。今はそう信じておく。
「本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」
彼女はやるせなさそうに話す。
「また困ったらいつでも来い。なんならまだここに泊まってても良いんだぞ?」
「いえ、失礼になってしまいますので⋯」
「そうか⋯。良い旅路をな」
「そちらもお元気で。お姉さん」
彼女は反応する。
「ははは⋯残念だが俺は男だ」
いや男なんかーーーい!
それから私は彼と別れた。振り返れば、まだ彼は手を振っている。感慨深くなるシーンのはずだが、男ということが衝撃すぎてしばらく立ち直れなさそうである。
(まずい、なんだか明日が不安になってきたぞ)
先までのポジティブは、嘘のようにグラスを伝うビールとともに流されてしまった。
そういえばこれからの予定、どうするべきか。このまま村でも良いのだが、折角なら別の場所へ観光と行きたいものだ。となれば、近場にある都市なり村を調べなければ。ありがたいことに人はたくさんいるため、捕まえるのは容易そうだ。
時間帯は朝だが、早速若い人が出歩いているのが見えた。話しかけるとしよう。
「すみません、そこのおにぃs⋯⋯⋯そこの人!」
流石にトラウマ過ぎる。
「ここら近くで町みたいな場所無いですか?抽象的ですみません」
その人は言う。
「あー、一応北側に一つ村はあるよ。でもこことあんまり変わらないかも。もし出世したいなら、ちょっと遠いけど南東の沿岸近くにある港町が良いと思う」
「ありがとうございます」
行く先は決まったようだ。目指すは南東、沿岸に隣する港町。
正直、道中が一番楽しい可能性がある。例の本を小脇に、色々な魔法を使いながら素朴に生活出来るのだ。探求の道でもあり、探検の道でもある。私としては興奮せざるを得ない。
「よし、行こうか」
これまでお世話になった人々に感謝と賛辞、それと幸運を。
そう心に唱えて、私は村から出立した。
「南東ってどっち?」
私の旅はすぐに出端を挫かれた。方角が分からないのだ。
言葉は知っている。意味も分かる。だが、方角を参照する方法が無かった。もしくはあるのかも知れないが、あいにく私には分からない。今の手持ちは本、そして居酒屋の彼からもらった食料、そのくらいだ。
(これは困ったぞ)
天の導きに頼って沿岸を渡り歩けば何かには出会えるだろうが、それでは埒が明かない。方角が分かる魔法等あればよいのだが、この本にはせいぜい基礎と基本の魔法くらいしか載っていないのだ。
「うーん」
非常に悩む。私が一歩を踏み出せないのは、運命だと盲信して従った結果、碌な目にあったことがなかったからだ。
なかなか判断を下せない。視界の端では影が濃くなっていく。
知識から模索しろ、何かあるだろ。何か、何か――――あっ、あった。
ふと思いついた。非常に身近なもの、いつも付き纏ってくるもの。
「太陽で大体の位置わかるじゃん」
当たり前だが、太陽は東から昇って西に沈む。つまり太陽が昇る側の沿岸を進めばよいのだ。
簡単な話だった。沿岸という情報がある以上、東西あるいは南北の一方が決まれば、おおよそ進んでいける。
まぁこれに気がつけて良かった、と言うべきか。
旅の始まりは不運から一転して、安堵感を及ぼした。だが、最初に行うことが天体観測とは如何にも破天荒だ。しかし、それさえも旅の一貫として認めている私がいるのもまた事実だった。
旅の扉は英断を犯す私を尻目に再び開いた。




