058-3
「……キス、しょっか」
「……え?」
りおなは手を後ろに組み波打ち際をゆっくり歩いた。
「なんかこう、いいふいんきじゃし。
やっぱし、ファーストキスはいいムードでしたいしにゃあ。
大門はキスしたことあるんか?」
「え!? い、いや、ないけど……さ」
「まあ、どっちゃでもいいや。
…………んーー」
りおなは振り返って目を閉じた。両手を腰の後ろで組んで、あごを少し上にあげる。
その表情は逆光でよく見えない。
大門はいつかのように、手のひらの汗をジーンズで何度もぬぐった。
「…………まだけ?」
「……いや、この状況じゃ無理だろ」
りおなが目を開けると、いつの間にか三浦が大門の近くまで来ていた。
男性としては比較的小柄な彼は、ごく至近距離で大門を見上げる。
「りおなさん、僕が来たからにはもう大丈夫です。悪い虫は一匹たりとも近づけさせません!」
――いや、悪いムシって。イナゴとツツガムシの怪人出してたんはあんたじゃろ。
「こっちのことはおかまいなく。
ってゆーーかあんた今晩どこに泊まんの? りおならぁは向こうのホテル泊まるんじゃけど」
りおなは唇を尖らせ山の方を示す。川を遡ったところに大きなホテルが建っていた。
「聞いたら、昭和天皇皇后両陛下もお泊まりになられた、由緒正しいところらしいわ」
「それなら心配ありません、山形県まで車で来ましたから。りおなさんを陰ながら守るため、ホテルの前で車で待機してます!」
「あかんがな、そんなんしたら真っ先にホテルの人から通報されるって。
部長に相談して一緒に泊めてもらうようにするわ。んだからここにいる間は騒ぎ起こさんといて」
「はい! わかりました!」
三浦が深々と頭を下げ、車に向かうのを確認してから、りおなは大門に向かってつぶやく。
「残念じゃったのう」
「なんでまた、こんな名前で申し込んどるんじゃ? 目立つじゃろ」
旅館の入り口まで来て、開口一番にりおなは部長にツッコむ。
「どうしてだ? 一番無難だろう」
――そうなんかもしれんけどさーー、ま、いいか。
りおなはでかかった言葉を途中で飲み込む。
玄関口の看板には、今日来るであろう予約客の名前が白字で列挙してあったが――
「この『ルヂブリウム・キャプサ極東支部(株)御一行様』っちゅうのんが私らのことじゃろ。
はーー、なんだか御大尽になったみたいじゃなあ」
「いやいや、(株)、っちゅうか株式会社って。一部上場でも――――」
りおなは言葉を途中で飲み込んだが、部長は言葉を継いだ。
「ああ、オープンにするっていうのが我が社のモットーだからな。全員で相談して公開はしてる」
「あらーー、そんなら私もへそくり出してなん株か買っとこうかねえ、株主優待とかしてもらえるけん」
眉間に指をあてるりおなをよそに櫻子は快からからと笑う。そして板書された白い字で書かれた宿泊客の名前を指で追った。
「――――ん、うん、あったわ。よかったーー、んじゃりおな、中に入ろう」
◆
「わあ、すっごい広―い! わたしおふろだいすきーー!」
「ほんとーー、Rudibliumにもあったけど、ろてんぶろってすてきーー!」
このはともみじは浴室を見て黄色い歓声を上げる。
見た目は4歳児相当の児童だが、屈託のない表情や容姿、すべすべの肌はまさに人形、そして天使のようだ。
何恥じらうことなく、全裸のまま辺りを見回す。
二人ともお風呂セット一式の他に、温泉には似つかわしくないのを連れていた。
「あんたがた、クマもお風呂に入れると?」
りおなは怪訝そうに尋ねたあと他の客を見渡す。
――普通に考えると、だいぶかっとんだ行動じゃけど、子供がすることって大目にみてくれてんのか。特に注目されてるわけじゃないみたいじゃな。
大きめのバスタオルを慎重に身体に巻きつけながら、りおなは櫻子に目線で伺いを立てる。
「うん、クマさんたちが入りたがってるんなら、いいんちゃろう」
「りおなさーん!」
「洗いっこしましょーー!」
このはともみじが洗い場から手を振る。
「よーし、二人とも背中流しちゃろう。それからクマも」
りおなはスポンジにボディソープを垂らした。
風呂用いすに並んで腰かける双子の背中を交互にこする。
同時に双子は、エムクマとはりこグマに泡立てたボディソープをつけ丹念に洗っている。
クマたちは――耳の裏やわき腹を洗われるとくすぐったそうに身をよじるが、自発的に動いているとは誰も思わない。自然な感じにりおなには見えた。
――しかし、ほんとに布と綿でできてるとは思えんのう。
双子がシャワーでクマたちの泡を洗い流すが、布地にお湯が染みた様子は全くない。
それどころか弾いているようでもある。
――縫う時はなんとも思わんかったけど、縫ってすぐ生地を裏返すとかなかったし、そもそも縫い目一つないわ。
それにしても、この子らもぬいぐるみ? 言われても全然わからんわ。
シャンプーで泡だらけになったブロンドの髪は、二人ともとても滑らかで絹糸のようだった。
それに肌は大理石のように白く、それでいて体温を感じさせるような内側からの熱を感じさせる。
事前に知っているりおなですら、血肉を持って脈動する生命力にあふれた肌の色つやそのものに見えた。
りおなが感慨深げにクマたちと双子を見ていると、このはともみじがほぼ同時にくちっと小さくくしゃみをする。
身体を洗うのに集中してシャワーを浴びせるのを失念していたのに気づく。
「あーー、湯冷めするといけん、二人ともお湯に入ろう」
りおなはあわてて、双子とクマたちの身体をシャワーで洗い流した。
このはともみじは、エムクマとはりこグマを前に抱え湯船につかる。りおなもあとに続いた。
「もみじーー、えいっ!」
「やったなーー! おかえしっ!」
このはともみじは湯船の端に行き、きゃっきゃっとはしゃぎながらお湯をかけあっている。
クマたちは無言で湯船にぷかぷかと浮かんでいた。
「二人とも元気じゃねえ、りおなの子供のころ思い出すわ」
櫻子ははしゃいでいる双子、それにクマたちにいたずらっぽく耳打ちする。
「クマさんたち、長湯してのぼさせんようにな」
「ふいーーーー、やっぱし風呂は生命の洗濯じゃのう。疲れから何から全部飛ぶようじゃわ」
湯舟に浸かったまま櫻子は大きく息を吐く。りおなもそれに合わせて首まで湯につかり息をついた。
そのまま口までお湯に身体を沈めて、双子やクマたちの様子を見る。
クマの両手を持って、泳ぎの練習をさせているようなその様は、なかなか奇抜だった。だが他の客は気にした様子もない。
クマたちも人目を気にしてか、全く動かなかった。
「今日は色々行って楽しかったねえ。
ちょっと強行軍じゃったけど、観光地とか見るとこがいっぱいあってよかとこじゃ。
あの三浦さんちゅうひとも、りおなんこと守ってくれるって言うてたし、急にモテモテじゃのう、りおな」
櫻子は満面の笑みを浮かべる。りおなは少しためらったあと櫻子に問いを投げた。
「あのーーさ、おばあちゃんはどこまで知っとうと?」
「どこまでって?」
「説明難しいけんど、ぬいぐるみのこととか、りおなのこととか……」
「『ほうしんせんき らぐどーるばるきりー』のことけ? 知ってるっちゃ知っとるし、知らんといえば知らん」
りおなは反射的に上体を上げる。お湯が勢いよくはねた。
「『なんで知っとんの?』って顔しよるのう。
チーフさん、富樫さんじゃったっけ? あのひとにも知らしちゃいけんて、とりあえずは言われとるけのう。
ただ、私としちゃ可愛い孫が一生懸命がんばってんのに、何にも知らされとらんちゅうのも不公平じゃと思って。
あーー、なんか独り言言いたくなってきた」
櫻子はりおなに背を向けると、わざとらしく咳払いをする。
「お風呂あがったら大宴会場で夕飯じゃけど、私ももう年じゃから、ケータイ電話部屋に置いたままにするかもしれんのう。
忘れたときは、届けてくれると助かるんじゃが」
櫻子はりおなに向きなおった。りおなは視線をそらして備え付けのタオルで空気くらげを作る。お湯の中から細かい泡がたった。
「チーフに相談してから決めるわ」
◆
「おい」
「……はい、なんですか?」
「さっき聞きそびれたからもう一回聞く。お前とりおなさん、どういう関係だ?」
「どうって、俺とりおなは同級生で……」
「呼び捨てするな! 彼女は我が社の――――」
「わが社?」
三浦は今の発言をごまかすように大げさにせきこむ。
「とにかくだ! 僕がいる限り、りおなさんには指一本近づけさせないから覚悟しろ!」
――覚悟ったってなあ。
大門は三浦から視線をそらし、大げさに頭をかく。
大門と三浦、それに部長は一緒の湯舟に浸かっていた。
当然のように共通の話題もなく、なんとなく先に上がったら負けのような暗黙の了解が三人の間にできあがっていた。
部長は手持ちぶさたで視線をそらしながら、しぶしぶつきあっている。
「そうだ皆川部長、試作品のヴァーレットフィギュアのことについてお聞きしたいことがあるんですが。
それと新種のネティングやネラーバ、ネフィギ族のこともそうです。
皆川部長に意見や指示を仰ぐように、芹沢さんから言われてます」
「んん? 仕事の話か? 熱心なのはなによりだが、俺は今『研修』でヤマガタに来ている。難しい話はまた今度だ。
まあ、ヴァーレットフィギュアっていう響きはいいがな、特別にあとで聞いてやろう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ようやく自分から話題や視線が離れた大門は天井を仰ぐ。大量の湯気で照明が淡くかすんで見えた。
――りおなはこのひとたちと関わってんのか、大変だな。
◆
「これか」
りおなは客間の窓側にある二脚の籐の椅子、その間のガラステーブルに置かれた二つ折りの携帯電話を手に取った。
とりあえず、窓際に移り障子戸を閉める。櫻子からは(一応の)許可はもらっていたが、自分以外の携帯電話を見るのは相当の罪悪感を覚える。
「あった」
未発信のメール欄の中に櫻子の言う人物のアドレスを発見した。
りおな自身の携帯電話に氏名や住所、電話番号やメールアドレスを手早く打ち込んでいく。
念を入れて櫻子の携帯の画面を撮影した。
「ふう」
携帯電話を胸に当て一息つく。
自分以外の携帯電話を見ることもそうだが、今までチーフくらいからしか聞いたことのない『縫神戦姫ラグドールヴァルキリー』の名前を実の祖母から聞いたのだ。
動揺もあったが、気分が高揚したのもまた確かだ。
――好奇心は猫をも殺すとはよく言ったもんじゃのう。
りおなは櫻子の携帯電話の電源を切った。
「りおな?」
「うひょう!」
りおなは肩をすくめ少し跳びあがる。
「びっくりさせんなにゃーー!」
「ああわりい、もうじき宴会場で夕飯だからって皆川さんに言われてさ」
「んーー、今行く。一緒に行こう」
りおなは大門の手を握り部屋を出た。が、
「おい、なんだその手は。気安くりおなさんに触れるんじゃない」
いつのまにか三浦が部屋の入り口に立っていた。見上げるようにねめつけられた大門は仕方なく手を離す。
「全く、油断も隙も無い……」
ぶつぶつ言いながら宴会場に向かう三浦を、大門はやりきれない表情で眺める。
「なあ、りおな」
大門は唇を突き出しているりおなに尋ねる。
「今さっき手つないだのって……わざと、だよな?」
りおなは腕を前で組んで上体を左右に揺らした。
「『なんですかねえ、なんのことだかわかりませんねえ』」