第8話 夢の守り人(ユーリマン編③)
「おやすみ。ここ数日大変だったんだから、貴方もゆっくり寝るのよ」
「はい、おやすみなさいませ、お嬢様」
睡眠を取るように言い含めるヴィオレッタの言葉に首肯と一礼をして、ユーリマンはベッドの周囲を覆う薄布を閉じた。
そうしてドアにそっと歩み寄り、開け閉めをして退室したふりをする。
それから暫く物音を立てぬようじっとしていると、程なくしてヴィオレッタの規則正しい寝息を彼の耳が捉えた。
最近のヴィオレッタは寝つきがいい。こうして待っているとほんの数分で眠りに落ちてしまうようだ。
天蓋の布越しにヴィオレッタが完全に寝入っている事を確認すると、ユーリマンは懐から取り出した紫色のロウソクを慣れた手付きで燭台にセットし、火を灯す。
すぐに、噎せ返る程に濃厚で独特な甘い香りが部屋中に漂い始めた。
*****
「さあ、いい子だから私の為に泣いて頂戴」
「イヤ!」
「ほら、お嬢さん。可愛い泣き顔を見せて?」
「イヤよ!」
暗くジメジメとした空間で、ヴィオレッタは鎖に繋がれていた。彼女が身を捩って動く度、ジャラジャラと金属の音鳴り響く。
対面している貴婦人風の女は、真っ赤な紅を引いた唇をニヤリと歪めて笑っている。
「いいから早く泣くんだ! そうしないと、俺はアンタを痛め付けなきゃならなくなる」
「やめて!」
「うるさい! お前は一生そこで泣いていればいいんだ! そうすれば金が手に入る」
「怖い……。お願いだからやめて……」
「いいねぇ、その美貌が歪んだ顔。そそるなぁ……」
恐怖に引き攣るヴィオレッタの顔を見て、男は舌なめずりをし、手に持ったナイフの刃先に口付ける。
「やめて! 触らないでっ!」
少しでも男から遠ざかろうとヴィオレッタがばたつかせた足が男の腹に当たった。
「いってぇっ! クソっ、公女様のくせに行儀が悪いな! 何だ、その反抗的な態度は? ちっとばかし、痛い目に遭わせて躾をしなきゃならねーな」
「いやあああっ!!!!」
男がナイフを振りかぶり、銀色の光が一閃するのと同時に、ヴィオレッタは絶叫した。
*****
「ハッ……はあ、はっ……」
飛び上がるような勢いで覚醒したユーリマンは、短く荒い息を吐いた。額と首筋は汗に濡れ、背中には肌着がべっとりと貼り付いたような嫌な感覚がある。
どうやらまた幻覚に魘されていたらしい。
彼のトレードマークの一つの眼鏡が、鼻梁からずり落ちかけていた。
ユーリマンは椅子に腰掛けたまま、足元に転がっていた本を拾い上げ、眼鏡の位置を直すとベッドの方を見遣る。
聞こえてくるのは相変わらず規則正しい寝息で。ヴィオレッタがぐっすりと眠っている事を確認すると、ようやくユーリマンは安堵のため息をついた。
最後に確認した時よりロウソクがあまり減っていない事から、幻覚に囚われていたのがごく僅かな時間だったことを彼は悟る。
何度も見た光景。ヴィオレッタが囚われ、痛め付けられ、最後には殺されてしまう悪夢のような光景。
それはあの、紫のロウソクによるものだ。
ユーリマンがヴィオレッタの侍従になる前のこと。一度だけ、ヴィオレッタは拐われた事があった。誘拐犯の狙いは彼女の涙だった。
薬として効果が高く、また非常に稀な彼女の涙の結晶は市場に出回れば高値で取引されることは目に見えている。公爵家に身代金を直接要求するよりも、賢いやり方だ。
公爵の懸命な捜索の甲斐あって、ヴィオレッタは無事に戻ってきたが、その事件は彼女の心に闇を残した。ヴィオレッタは毎晩、悪夢を見るようになったのだ。
ユーリマンが毎夜、ヴィオレッタの寝室に詰めるのは、彼女に悪夢を見せないためだった。
彼が寝室に持ち込む紫のロウソクには、ある薬が練り込んである。
直接服用すると、気が触れて死んでしまうその薬だが、こうして蝋に混ぜて火にかけ、気化させたものを体内に取り込むと、寝ている者には幸福な夢を、起きている者にはその者が最も恐れるモノを幻覚として見せることができる。文字通り、それは劇薬だ。
ユーリマンが最も恐れているものとは、ヴィオレッタの死だった。
薬の見せる幻覚に耐えるには、相当の精神力が必要だった。他ならぬユーリマン自身も初めて薬を使用した日、涙を流して泣いた。
ヴィオレッタの前では絶対に泣いてはならない。
クロウディア家の、この絶対の掟を知っていたにも関わずだ。
幻覚の中、胸を貫かれたヴィオレッタを血塗れになりながら彼が腕に抱いたのは一度や二度ではない。彼が侍従となってから、何百回と見た悪夢だ。
並の精神力の人間なら、既に廃人となっている事だろう。
それでも彼が毎夜、ヴィオレッタの寝室に留まるのは、ロウソクの火を絶やさない為。そして不意に起きたヴィオレッタが、恐ろしい幻覚に襲われる事がないように見守る為であった。
「早く、彼女を普通の人間に変える方法を見つけなければ……」
窓の外は暗く、夜明けの時間はまだ遠い。
ユーリマンは額の汗を拭うと、膝に抱えた本に視線を落とし、また一枚ページを捲った。




