第3話 記憶の向こう
朝を迎える、音がした。
「んん……」
アナログ時計がうるさく鳴いているのを尻目に、俺は気だるげな声を漏らしながら身体を起こした。
昨日は起き上がるのに数分かかったが、今日はすんなりと起きることができた。
というのも、昨日の昼過ぎに何というか、心持ちが軽くなったのだ。そこからというもの、少しだけ調子が上向きになった。
普段と変わらない日常の、何の変哲もないワンシーン。
これまでの日々と同様に、孤独を感じながら、その孤独を責めながら、コンビニ弁当を突いては溜め息をこぼし。己の境遇や周りの視線だけに全ての意識を集中させて。
なのに、弁当を食べ終わる頃には『まあこんな自分もありか』なんて、ちょっぴり楽観的になって。
自分の中に、開き直りを司る妖精でも住み着いたのかと思った。
「…………変なの」
一人暮らしのワンルーム。
電灯は中心に一つ。壁はコンクリートでできていて、骨組みが所々むき出しになっている。
これ、欠陥住宅じゃないのか……?
デザインにしては、センスがない。
床に散らかったゲーム機やリモコンを足でどかしながら、寝ぼけたままの俺は出かける準備を進めていた。
昨日のあれは、怪奇現象と呼んでいいのだろうか。
メンタルリセット、ってあれのことか。初めて体感したけど、昨日なんて誰とも関わってないのにな。
『折り合いがつく』という情動を始めて体感したような気分で、何だか心地よかったけど。
――本当に?
心地のよさとは別に、気味の悪い違和感が全身をなぞるような感覚が意識のどこかにあった。
当然といえば当然だが、躁鬱が急転する瞬間というのを人はそこまで俊敏に感じ取ることができない。
自分でも気づかぬ間に価値観が揺れ動き、それにふと気付くから疾患と呼べるのであろう。
だから、今回の俺はあまりに特異な状況に置かれているといえる。
記憶が曖昧だが、突如として自分のことを受け入れたあの情緒は、今までに体験したことがなかった。
一体、何だったんだろうか。少し、頭を冷やしたほうがいいかもしれない。
まあ、いっか…………。
服を着替えた俺は時計の時刻を確認したのち、ベランダの外に見える汚い街を眺めていた。
この街は、常に人の気配がする。窓を開ければ、人の匂いがする。
人のことは相変わらず好きになれないし、そんな自分のこともあまり好きにはなれないけど。
人間嫌いの人間がいてもいい。地の底を見つめるような暗い人間であっても、いい。
なんとなく、もう一人の自分がそう語りかけている気がした。
◇ ◇ ◇
六号館の食堂はさながらフードコートのような様相をしている。
屋台のような店構えのチェーン店が三つか四つ並び、それぞれに長蛇の列ができていて。
俺は窓際の端っこの席で、列に並ぶ人間を眺めながら菓子パンを食べていた。
「…………あんなに並ぶ意味が分からない」
ぶつぶつと他人のことを卑下する癖は治らない。
それなのに、誰にも聞こえないように、自分と対話するためだけに呟いている。
つまり、文句を他人に言う勇気こそない。
大学に入ってからこの方、昼は菓子パンしか食べていない俺が偉そうに。
本当は、栄養のある定食だかを食べたほうがいいこと、三年目にもなるとうすら気付いているのだが。
逆張り精神が、生涯消えることはないのかもしれない…………。
列から目を外すと、今度は中央の席で五人テーブルを囲んでいる女子たちが目に入った。
そこそこ広い食堂スペースなのに、五人の声はひと際響いているように感じた。
面白いのが、会話の内容まではよく聞き取れないこと。
というか、特徴的なフレーズが出てこないからイマイチ頭に入ってこないだけ。
「がち?」「ありえないんだけど」「わかるー」「そうなんだー」
同意、というか相槌だけで会話を進めている…………。
あれだけ周波数の高い声を発していて目立っているのにもかかわらず、何か興味そそるようなインパクトのあるコミュニケーションを取っていないのが勿体ない。
かと言って、俺が生産性のある話をするわけではないのだが…………。
すると、五人のうちの一人とつい目が合った。
その瞬間視線を違うところに向けたが、女は依然俺の方を見ている。
げ。まずい。恥ずかしい。消えたい。
なぜそこまでじろじろと見てくるんだ。君たちは、なぜそこまで人の感情を予期しないのだ。
俺が気まずそうにしているのに、なぜそちらは気まずそうじゃないんだ。
感情の波長を合わせないのはお互い様かもしれないが、せめて自分らのグループの会話に集中して――
「――ごめんなさい」
………………………………へ?
女は、頭を下げていた。
近づいてきていたことにも気づいていなかった俺は、窓の方に寄ってびくびくと怯えていた。
例のグループにいた他の女子四人が、こちらを見て驚いた表情を浮かべている。
だが、驚いているのは俺も同じだ。見ず知らずの女にいきなり謝罪されたって、俺何もしてないし。
何かのドッキリ?というより、イタズラ?ハニートラップ?
少なくとも俺は、この女と接したことがないどころか顔を見たこともない。
完全に初対面の人間が、謝ってきた。何が目的か。
「え、えーと」
女は頭を上げると、随分と申し訳なさそうな表情で、
や、なんだ。
まるで、親友と絶交したみたいな。それで仲直りがしたい、みたいな。
兎にも角にも、必死に訴えかけている。その綺麗な瞳が、濁るほどに。泥臭い表情だ。
とてもイタズラとは思えない。偽りの仮面を付けているとは、思えない。
「あ、あの…………」
「…………」
「だ、誰でしたっけ……………………」
ワードチョイスミス。
もう少し遠回しな聞き方があったろう。久しく会ってない方ですよね、とかなんとか。ワンクッション置く必要があったろう。
ほら、今にも女が泣き出しそうだ。なぜそこまで俺に対して情を震わせているのか聊か判断できかねるが、とにかく苦悶の相貌でこちらを見ているではないか。
終わった。何が起きているのかパニックで全く状況が整理できないが。
俺は今後の大学生活を、この女を泣かせた男として生きていかなければいけない。
常に呵責の念に駆られながら、一生この女に詫びながら毎日を過ごさなければ――
「――朝露翡翠と言います」
吹っ切れたように見えた。
それが諦念なのか開き直りなのか、感情の名前は定かでないが。
随分と綺麗な名前をしている。翡翠って、宝石だっけ。
葉から露の滴る朝に、ゆっくりと起き上がって眺む日はまるでこの世界に招き入れてくれるようで。
小さい頃の記憶を掘り返せば、いつも雨上がりの朝は俺を迎えてくれていた。
朝日に照らされる露というのは、それこそ翡翠のように透き通っていて――
「――素敵な名前」
「え」
「え、あっ」
――もう少しだけ生きてみようかと、思わせてくれた。