59 袁紹の覚醒
吸い込んだ空気の冷たさが、ぼやけた意識を覚まさせる。しかし呂布は、目を閉じたま動かなかった。大地に横たえた身体に、ほんの微かな振動を感じる。頭の遥か上、足の遥か下。どっちが早いか。ゆっくり息を吸うと両腕を挙げ、頭上で手を組み大きくひと伸びしてから上体を起こした。
「あ、起きた」
投げ捨てられた雑な言葉に、開いた目を向ける。声の主、曹性に悪びれる様子はない。
「おはようございます。……良く寝れますよね、こんなとこで」
陽は既に高く昇っていた。白い日差しに照らされた大地には、相変わらずの袁紹軍が整然とこちらを取り囲んでいる。呂布は立ち上がり、もう一度伸びをした。直感的に頭に浮かぶ、青装束の将軍・文醜。アイツが先に現れるようなら。
「気合、入れとくかー」
7分の力で駆ける騎馬隊の先頭で、張遼は腕を組んでいた。鄴から袁紹軍の増援が出ているとして、呂布が囲まれた渉からの距離を考えれば、動き出しは相手の方が早い。この調子では間違いなく後手を踏む。しかし。
「後ろ、遅れ気味ッス!」
「だろうな」
隣に並びかける成廉を見もせずに即答する。率いる兵の9割が馬も兵も賊上がり、そんなものだろう。先着は諦めだ。
「ここからは山に入る!遅れるなよ!」
陰を進んで到着次第奇襲をかける。迷い無く浮かんだ考えに、張遼は小さく笑った。敵の注意は、あの馬鹿が引く。そこは、疑う余地も無い。
「やはり……やはり、貴様が!」
(やっぱり、コイツが先か)
怒りに全身を震わせる文醜を前に、呂布は笑顔で手を挙げた。時間稼ぎ、を考えなくても、この分なら向こうから一騎討ちを挑んでくれそうだ。その文醜の背後から広がるように、こちらを囲む兵列が分厚くなっていく。何人連れて来たのやら。
「そこに直れ!下郎ぉおっ!」
怒声が響き、白刃が駆ける。問答無用、か。迎える呂布も戟剣を構え、腰を落とした。
こちらに向かい滑るように加速する文醜の切っ先にブレは無く、射抜く視線に迷いは無い。以前にも増して、気合の上に乗った必死さを感じる。槍の間合いで力強く踏み込み、体の捻りを活かして放たれる超長剣の切先は、速く鋭く空を貫く。相変わらず悪くない。以前の手合わせで力の差は認識できていそうなものだが、それでも真正面からかかってくるのも、なかなか感心である。
(ま、ただの向こう見ずかもな)
毎日師に挑み続けた昔の自分の姿が重なり、呂布の顔には小さく笑みが浮かぶ。よし、ここはひとつ本気であしらってやろう。
まさに目の前に迫った白刃に黒い刃を叩き付け、瞬時に構えに戻る。右に大きく打ち払った長剣は白い軌跡を描いて上段から返ってくるが、それも真っ向から打ち返し再び構えに戻る。一瞬ふらつく文醜を前に、しかし油断はない。ここで一撃。即座に切り返した白刃は速度を増し、袈裟斬りに襲い来る。これも正面から弾き返し、もう一撃。さらに斬撃を繰り出す文醜に対し呂布はその悉くを強打で返し、攻撃を入れる隙を、ただ、数えていく。青い敵将の連撃に以前の速度は無い。与えない。油断は、しない。
唸る余裕も無い。一撃ごとに両腕に響く重過ぎる衝撃に、攻撃を繋ぐのがやっとである。全身から嫌な汗が滲み出し、文醜は奥歯を噛みしめた。何だこれは?曲がりなりにも連撃で押し込めた前回とはまるで違う。受けられるだけ、弾かれるだけで、剣が吹き飛ばされそうになる。自由に動けない。対して常に構えに戻っている呂布の姿は、まさに泰然自若。怒りのあまり視界が狭まる。賊、が!限界を超えた力が両腕を焼く。余裕を!見せるな!
明らかに力み過ぎの一撃が来る。流して利用するにはおあつらえ向き、これも、同じか。が、オレは師匠ではなく、奴の師匠でもない。黄家の技を使ってやる義理は無い。呂布は今までとは違う、狙い澄ました一撃をもって白い爪撃を迎え撃った。
歪な力で強引に振るわれた長剣に黒い閃きが交錯する。激突の衝撃も音も軽やかに、振り抜かれた黒き旋風は輝く白き刃を鮮やかに両断した。
「まだまだ、未熟だな」
勝ち誇る呂布の声が、頭のはるか上をおぼろげに通過する。文醜はその目を見開いたまま、固まったように動きを止めていた。馬鹿な。剣を、斬られた?そんな馬鹿なこと、できるはずがない。できるとすれば、そこにある力量差は。
(…有り得ん!)
文醜は目の前に漆黒の切先を突き付けて立つ大男の顔を睨みつけた。この男が、賊が、自分より、上!しかし、軽くなった剣、その重みが物語る、否定しようのない感覚。これは、あるいは顔良殿より。
「若ぁっ!」
走った声と同時に黒い刃が動いた。天高く舞い上がっていた長剣の半身が、呂布の頭上に落下したのだ。黒い軌跡に再度打ち飛ばされた白刃は冷たい輝きを残して遥か右手の木々の中へと消え、この隙に文醜は大きく距離を取っていた。
認められぬ武勇の差、それは、今はいい。いや、強ければ強い程なおのこと、この悪は害を成す。形振り構わず、この場で討たねばならん!
「この呂布は黒山賊に繋がる裏切者!遠慮はいらん!首級を挙げて手柄とせよ!」
静まっていた周囲の兵が、一声で一斉に槍を向ける。
「強引に来たなあ」
こちらに向かい動き出した無数の穂先を、呂布は苦笑いで迎えた。こうなってしまっては、もはや穏便にはいかない。
(独断での暴走、なら、まだいいんだが)
今のところ袁紹殿の名は出ていない。不穏な噂のある自分を大歓迎してくれたあの名家の総大将を、呂布は疑いたくなかった。自分が袁紹軍中の一部の連中から敵視されているのは、来た瞬間からわかっている。おそらくは、袁紹殿が不在だからこその強行だろう。だとすれば、これは総大将の意向に反する行動である。大所帯をまとめる、というのは本当に大変らしい。
考えている間に槍の列は迫り来る。しかし呂布には余裕があった。さっき打った長剣、あれは丁度いい合図になってくれた。
呂布達30騎をぐるりと囲む袁紹軍、文醜の命に応じて動き出していたのは、呂布の前面側、およそ半数である。残りの半分、その背面側では。
「邪魔だ!雑兵ども!」
呂布のみに注目していた袁紹軍の脇を突いて襲い掛かったのは、山の木々に紛れて接近していた張遼隊である。
「雑魚が!殺すぞ!」
「どう見ても死んでるッス!」
「やかましい!」
先頭を駆け、混乱する袁紹軍に対し当たるを幸い突きまくる張遼は、少々機嫌が悪かった。脚の遅い新参1000騎は結局置いて先行し、上手く潜んで突撃の期を窺っていたのだ。そこへ、呂布が命令とばかりに打ち上げた剣をこちらに飛ばしてきたのである。「助けてやる」つもりだったところが、あの馬鹿に気づかれていたのも、さも計算通りと言わんばかりに命令を出された(気がする)のも、何とも気に入らない。
囲みの一角を貫き呂布の元まで一気に流れ込んだ黒い列は、
「一旦下がる!」
「おう!」
勢いを一切緩めることなく向きを変え、文醜のいる南側とは真逆、北の敵兵に突進する。側面からの奇襲を受け動揺の残る袁紹軍では、その突撃を止めることはできなかった。
「さっすが、早かったな!」
全力で駆ける中、並びかけて来た呂布を一瞥し、鼻を鳴らす張遼。
「……いつから気付いていた?」
「ん?オレは全然だぞ。ただ、曹性が叫んでくれたからな」
「…フン」
なら、まあ、よしとするか。
「んなことより、こっからどうするんだ?どっかで反転でもして」
「黙ってついて来い」
「…へーい」
その後方で、文醜は手早く騎兵をまとめ、追撃を開始していた。剣を折られたからといって、心まで折れるほど軟弱ではない。衝撃を飲み込む必要はあったが、それ以上に彼の信じる正義の為に、文醜の身体は動いた。
「あらん限りの力で駆けよ!」
何としても、仕留めねばならない。奴は、悪でなければならない!
己の下した判断、その影響、見せつけられた圧倒的な力の差。文醜の原動力たる『正義』、その形は、強迫観念にも似た妄執に歪められていた。
冷静さを欠き、狂気をはらんで猛追する文醜。しかしそんな状態で勝てるほど、張遼は易しい相手ではない。ほどなくして、文醜率いる袁紹軍3000騎は、張遼が伏せていた新参1000騎の奇襲により壊滅的打撃を受け、撤退することとなる。呂布軍はこれを追わず、并州山中へと姿を消した。
「……と、いうことのようです」
北方から鄴に戻った袁紹がこの報告を聞いたのは、それから丁度一日後である。
いつか呂布と顔良が打ち合った袁家の屋敷の絢爛豪華な大広間には、袁家の柱石をなす軍師・将軍達が集結していた。その数30余名、それぞれが見事な装束に身を包み、上座の袁紹の前に2列に並ぶその様子は、それ自体が荘厳な芸術作品のようであった。
「で」
口を閉ざしたままの主君に代わり声を上げたのは、軽装鎧の上から文官の衣を纏った厳めしい面構えの男だった。公孫瓉攻めの中心人物・審配である。
智略に加え兵法武勇も併せ持つ彼は、武官を総括する立場にあった。見た目通りに剛直な性格で、頭が固く融通はあまり利かないが、その分意志が強い。
「…聞いた限りでは、呂布が黒山賊を下したのは事実のようだが」
北からの帰路の途中、袁紹本隊からは并州の実情を探るための間諜が出ており、その報告には「呂布軍は寡兵ながら黒山賊を圧倒した」とあったのだ。首領・張燕を捕らえ、晋陽を降伏させたという。
力のこもった審配の眼光が、許攸に向けられる。
「いかなる判断で我らを呼び戻したのだ?」
「文醜は、呂布に襲われ兵糧を奪われたのだ。そのような者、信じられる訳がなかろう」
見下した目線で平然と受ける許攸。
「その文醜は、呂布に敗れたようだが」
「ハッ、あやつの無能はあやつの責任。違うか?」
審配の目にさらに力がこもり、太い眉が吊り上がる。
「文醜は若いが、無能ではない。その文醜が3000を率いて敗れたというのならば、1万の賊が敗れることもあろう。真っ当に任務を果たした呂布に徒に刃を向け、敵を増やして味方を殺したその責、鄴を任されていたのは誰であったか」
「まあまあ審配殿」
今にも声を荒げそうなところに割って入った半開きの眼の男は、逢紀という。審配と同格の参謀ではあるが、今回はその補佐に回っていた。彼は策謀には長けていたが、むやみに人を貶める厄介な癖を持っていた。
「殿の旧友殿をあまり虐めてはいけませんな。責任逃れ、結構じゃあありませんか。あの呂布を追い出したしたかったんでしょう?…幽州を手放し、殿の意に反しても、ね」
口を大きく横に広げて嫌味ににやける逢紀。さすがの許攸も表情を変え、袁紹の様子を窺う。
「か、仮に呂布が并州を抑えたところで、いずれ裏切られておったわ!」
取り繕うような言葉にも答えはなく、一時、沈黙が広間を包んだ。
ケケ、と小さな嘲笑が静かに響き、そして、しばらくして、袁紹はその口を開いた。
「……過ぎたことをとやかく論じても状況は変わらん。呂布に関しては、既に追撃に出た顔良に一任する」
その静かで確たる物言いに、居並ぶ諸将は黙って礼を取る。
袁紹は無表情にその様子を眺めながら、溜息を噛み殺していた。
意見を聞けば口論を始め、空気を変えれば押し黙る。良かれと思って、すべきと考えて、正義と信じて今までやってきた。が、どうやら誤りだったようだ。今まで何度も気づいていたことを、袁紹は改めて認識した。思い知らされた、と言ってもいい。呂布を信じ、北への進軍を続けるだけで、冀州・幽州、加えて并州まで手に入ったかもしれないのだ。自身は、そのつもりだった。それが今、公孫瓉は健在、呂布は離反し、無駄な犠牲も出ている。失策、などという些細な規模の話ではない。勢力拡大、全土統一が大きく遠のく大失態である。しかし、何人が責任を感じているだろうか。
改めねばならない。今までとは違い、袁紹は腹を括っていた。長らく抑え込んできた、単純明快な正義の血が、胸の奥から熱く流れ出す。方針を転換する。いや、元に戻すのだ!
「皆、聞け!」
静寂の大広間に響いた声が、場の空気をさらに引き締める。強く見開いた眼で一同の注目を全て跳ね返し、袁紹は続けた。
「今回の幽州攻め中断、そして呂布の離反、責任は決定したオレにある!誰の責も問わん!だが!」
席を蹴るように立ち上がると勢いよく右腕を真横に振るい、叫んだ。
「今後一切の命令は俺が直々に下す!意見は認めん!皆はその目的に向かい、一致団結して協力してもらいたい!」
「「「ハハッ!」」」
姿勢を正し再度礼を取る諸将を前に満足げに頷くと、覚醒した熱血君主は最初の命を告げる。
「よし!これより我が軍は并州の憂いを取り除き、早急に幽州攻めを再開する!逢紀!」
「はっ」
「歩騎2万を預ける、迅速に并州を確保せよ!呂布に関しては顔良に従うよう」
「御意!」
「そして審配!お主は残りの兵を再編し、いつでも幽州に戻れるよう備えよ!人員はそれぞれに任せる!」
「ハッ!」
「郭図、許攸!」
「「はっ!」」
「我らの華北統一に邪魔が入らぬよう、劉表、曹操の元へ赴き奴らを動かせ!幾ら使っても構わん!」
「お任せを」
「うむ!此度の軍議は以上だ!各々、宜しく頼むぞ!」
金色の衣の下に、再び赤い炎を灯した袁紹。この覚醒により、現代最大勢力・袁紹軍はその兵力、財力を存分に発揮し始める。そしてその巨人の圧力は、何よりもまず、すぐ足元を駆け回る呂布達に重くのしかかっていくのである。
時に、192年・冬。雪の降り出す年の瀬の寒風が、華北から各地へと騒乱の気配を運んでいく。