54 黒山の張燕
華美壮大な北の都に広がる、戦の気配。出発する兵士達を景気良く見送るように街中が飾り立てられ、人々は大いに飲み、騒ぎ、祭りのような賑わいを見せる。『必勝祈願』ののぼりの下で、なるたけ華やかに、晴れやかに別れを惜しむ人々。このある種“健康的”な開戦の雰囲気は、新参の呂布一行に、違和感と、新鮮な高揚感を与えていた。
このお祭り騒ぎは、最後の兵が出て行ってから2日間は続けられるらしい。なんでも、見送った直後に感じる“祭のあとの寂しさ”は縁起が悪い、ということだそうだ。
「いいねえ、こういうのも」
呂布は小さく笑った。見送る側にまで験担ぎしてもらう、と考えるとなんだか申し訳ないが、しかし楽しいことが長く続くのは大歓迎だ。出店で買った温かい肉まんをほおばり、視線を北から西へと巡らせる。次は、オレ達だ。
袁紹軍は既に出発しており、鄴の街に残っている兵は僅か3000程度。これは間もなく帰還予定の文醜隊3000を計算しての少数であり、守将として残っているのも武官ではなく、軍師の1人、許攸のみである。そんな中、100人足らずの呂布軍が任された役目は『西方の黒山賊に対する抑え』であった。無駄に売れた武名を看板にした、まあ、飾りである。
しかし呂布は晋陽を取り戻す気でいた。無謀な話ではあるが、総大将・袁紹は、文醜の帰還後であれば城兵1000を自由に使って良い、と言ってくれている。黒山賊は万を越す大軍、100も1000も大差ないといえばそうなのだが、
(ま、やってみるさ)
口の中に広がる肉汁の旨さに頬を緩ませながら、呂布の目は遠い晋陽の屋敷を捉えていた。
「…コレ、うっま!」
呂布が師を救うために乱入し、脱出のために屋敷と兵営を焼き払ってから、3年になる。あの時焼け野原と化した晋陽の中心部には、その後ここに駐屯した董卓軍が建てた、簡素な宿舎が並んでいた。そして今、それを使っているのは―
「交代の時間だー!」
手持ちの銅鑼を鳴らしながら、数名の兵士が宿舎の間を歩く。彼らが通った後から扉が開き、緩慢な動作で現れる男達。その装備は不揃いだが、どこかしら目立つ部分が黒く染められていた。鎧を着ていない者も、頭に腕に、黒い布を巻いている。
「おら急げ!もう夜番の連中が戻って来るぞ、さっさと空けてやれ!」
街のどの外壁からも最短距離になるこの中央宿舎は、夜通し見張り番を行った者達のための寝床となっていた。夜の見張りは交代制で行われており、その規律は正しく守られている。そしてこの『規律』こそが、黒山賊を今も存続せしめる最大の要因であった。
「袁紹が動いた、か」
晋陽の大通りから一本隣の裏通りにある古い宿。その2階の一室で、張燕は床に寝転がって天井を眺めていた。呂布というのは、それ程なのか。
黒山賊の首領、張燕。少し小柄だが均整の取れた身体に、悪人面でありながらどこか品のある顔立ちの彼は、先代首領・張牛角の後を継ぐ際に「張」の名字を貰ったが、それ以前は褚燕といった。真面目な少年だった褚燕は、腐敗した役人達に自分の村が食い物にされ、ともすれば殺されかねない状況をよしとせず、極めて真っ当に賊になった。真面目に賊の活動に打ち込む彼は一目置かれ、やがて首領の目に留まり、果ては後を継ぐことになったのである。真面目ゆえに、多くの賊徒とは違い彼はきちんと兵法を学び、独学で研鑽していた。その結果が、件の『規律』である。黒山賊だからこそ、この規律が重要だった。
一口に『黒山賊』というが、その実体は、各地に散らばり活動する賊軍の連合である。
黄巾討伐の折、その煽りを受けて討伐されていった各地の賊軍が、これに対抗するため手を組んだのが始まりだった。しかし黄巾賊のように絶対的中心を持たない黒山賊は、発足当初は皆が同じ看板を掲げるだけでまとまりはなく、活動はあくまで個別であった。それを、近隣同士で協力し合うように変え、袁紹のような大勢力とも渡り合えるほどに強化したのは、張燕の、そして彼が広めた『規律』の力に他ならない。
もちろん、縛られることを嫌う賊軍のことである、連携や見張りなどの重要な部分以外には、何の決まりもない。締めるところは締め、緩めるところは徹底して緩める。かくいう張燕本人も、暇があったらふらりと街に出て、いつもの宿のこの部屋で転がっているのであった。
天井の木目をじっと見ながら、張燕は考えた。
袁紹軍の青二才、文醜は、つい先日追い払ったところだ。あれで猛将だ、などというのだから笑わせてくれる。その帰りを待たずに、袁紹は北上を開始した。新たに加わった呂布はそこまで強いのだろうか。確かに武勇の噂は凄まじいが、親を殺して女を奪って都を追われて、というのは、ちょっとした狂人である。それに本拠を任すとは、袁紹殿下ご乱心か?
張燕は遠慮なく鼻で笑った。文醜があれなら、まあそんなものか。呂布を攻め、手薄になっている鄴を落としてやるのも面白いかもしれない。冀州南部の連中は先月、袁紹の手先・曹操に敗れており、失った面子を取り戻すいい機会でもある。張燕は上体を起こした。
「あらぁ飛燕(張燕のあだ名。字ではない)の旦那、今日はもうお帰り?」
いつもどおりに酒を持って現れたなじみの遊女が、部屋の入口から甘い声をかけてくる。張燕は少し考えた。首周りから胸元まではだけるように着崩した遊女は、その間に身体を摺り寄せてくる。
「ね、旦那ぁ」
そんな遊女の美しい、少し陰のある顔に目を向け、気を抜いて笑うと
「そうだな、もうちょっと、好きに楽しませてもらおう」
腰に手を回して抱き寄せた。
緩める時は、緩めるべきだ。首領になってなお真面目な張燕は、しっかり真面目に賊らしさを身に付けていた。
「…」
「なんだ曹性、今日はやけに静かじゃねーか?」
涼やかな秋晴れの下、平野を軽やかに駆ける黒い騎馬隊。問われた馬上の曹性は溜息を地面に落とした。
「若が無茶苦茶なのは、判ってるつもりだったんですけど…」
にしても今回はひどい。2万近いといわれている并州黒山賊相手に、こちらは僅か100騎足らずである。
「文醜軍が戻ったら一軍貸してくれるって言ってたんでしょう?待ちましょうよぉ」
「いやー文醜に合わす顔はないぞ?特に、張遼達は」
「フン、あの間抜けが我らに気付くか、怪しいものだがな」
「いやさすがにバレるだろ…」
いつもの(というか今も着ている)黒一色装備のままで黒山賊のフリをして食糧を奪ってから、まだ10日余り。当たり前である。
「ま、借りたところで、だよな」
猛将文醜が敗れて戻ったところから、その破った相手を他人の指揮の下少数で攻めろと言われて、どうやったら士気が上がる?
「どの道我らには付いて来れんのだ。役に立つはずもない」
さすが張遼、その通りだ。せいぜい敵を警戒させて、出迎えが増えるくらいだろう。曹性の大きな溜息が大地を這う。
呂布軍は、真っ直ぐ晋陽へ向かっていた。順当に行けば、河沿いに山道を進み2、3の町を経て晋陽に進むところだが、そうではなく、文字通り“真っ直ぐ”である。袁紹軍の前線基地である渉の町にすら寄らず、本当に真っ直ぐ進むその理由はいたって単純、
「奇襲だから」
それだけである。もっとも、晋陽は遠く、山中の移動であり、途中見渡しの良い街道や敵の拠点もある。狙い通り不意を突けるとは、呂布も正直思っていない。
(見つかったら、そんとき考えりゃいいさ)
背後に聞こえる嘆息を他所に、呂布の調子は上がっていた。久し振りに、仕掛ける戦である。しかもこちらは少数ながら最強騎馬隊の面々を加えた超精鋭揃い、これで昂ぶるなという方が無理がある。
「呂布」
「どした張遼?」
「貴様は戦いたいかもしれんが晋陽はさすがに遠い。一息で届かせるためにも隊を整え、速度を上げるべきだ」
「え!?」
この状況に、今までの事もある。張遼、お前だって暴れたいだろ?
その顔に、張遼の口からも小さく息が漏れた。
「……阿呆が、誰のためだと」
「ハァ?」
「と~の、張遼の旦那はね、鄴で留守番してる嫁さん(貂蝉)に気ぃ回してるんすよ」
「なぁにを言っている?候成殿」
おぉっと、と後方に下がる候成に、先代譲りの黒い殺気が突き刺さる。巻き添えはコワいので視線を外してから、呂布は微笑んだ。
「へっくち!」
ひょこ、と前に出ると同時にくしゃみが出て、真っ赤になる貂蝉。左右を見回すが、広いお庭に人の気配はない。胸を撫で下ろした。
「大丈夫、ですか?」
「!」
真後ろからの声に、ゆっくり振り向く。
「……はい」
高順さんは、いつだって見ている。
留守番に心配はない。が、なるべく早く帰るとするか。
「よぉっし!」
気合のこもった大声が空に響く。呂布は身体を捻り、続けて叫んだ。
「山に入れば黒山の縄張りだ!こっから先は全力で、一気に晋陽まで駆けるぞ!2日は覚悟しろ!飯は落とすなよ!?」
「「「おうっ!」」」
鋭い喚声が風を押し返し、気配が、重くなっていく。この感じ、まさに。軽い震えが走った。
「張遼、候成、側面は頼む!誰か、前に出たい奴はいるか!」
「自分、行きたいッス!」
「成廉か!よぉし、来い!」
加速する集団の中を駆け上がり、先頭の赤兎に並ぶ若武者一騎。呂布は一対一で声をかけた。
「トチるなよ、オレに勝てれば一番手柄だ」
「ウッス!」
「んじゃ、行くぞ!」
赤兎に気を入れ、姿勢を下げる。大地を蹴る力強い手応えが身体を押し運び、空気が裂かれて風に変わる。周囲の景色は後へと流れ視野が中央に凝縮する、いつもの加速感。背後に遅れる気配はない。隣の成廉は歯を見せて笑っている。呂布も笑った。この分なら、何万でも相手にできそうだ。
その相手となるべき黒山賊軍の内、主力の歩騎あわせて1万は、張燕の指揮の下、晋陽の真東にある沾の町に移動していた。沾からは袁紹軍の前線基地・渉と、そしてその先は鄴まで道が繋がっており、この移動は当然、鄴侵攻のためのものである。報告によると、敵の兵力は渉に2000、鄴に7000。鄴には届かなくとも渉は攻め落とし、公孫瓉を攻める袁紹の手を緩めさせる必要があった。袁紹という共通の大敵に対し、黒山賊と公孫瓉は賊と官ではあるが、裏で手を結んでいるのだ。
西は異民族の支配地であり、東は大勢力・袁紹と敵対している黒山賊にとって、北の公孫瓉が袁紹に敗れるのは死活問題である。公孫瓉が滅べば華北は袁紹により統一され、憂いの無くなった袁紹軍はこちらに全力を向けられるようになってしまう。それは絶対に避けねばならない。賊らしからぬ真っ当な思考でそう判断した張燕は、即座に兵を動かした。同時に、先日文醜に制圧された南方の平陽・高都にも2000ずつ兵を送り、守りを固める。この正確な判断と用兵の機敏さが、彼が『飛燕』と呼ばれる由縁である。
しかし、根が真面目で優秀な分、彼には見えていなかった。袁紹本軍が出発して以降、報告される鄴の兵数は変動していない。報告に上がらないごく少数、100騎足らずの部隊が直接晋陽を狙うなどという愚挙は、張燕には想像できるはずもなかったのである。
その死角を埋めたのは、件の『規律』であった。定期巡回の兵が、街道を横切る不自然な馬蹄の跡を報告してきたのである。その時、張燕は沾から出撃する準備にかかっていた。呂布達が速度を上げてから、既に丸一日が経過していた。




