32 貂蝉
早朝の冷たく澄んだ空気の中、抜けるように高い空に雲は漂っていた。
湯面より立ち上る湯気が白い薄絹の幕を広げて視界を覆い隠すと、そこには何本もの光の筋が現れ、回り踊る。湯の中で腕を揺らすと乱れるその紋様は、どうやら朝日の光の反射の仕業らしい。
呂布は縁に頭を置くと、目を閉じた。
ほとんど寝ているだけの生活で固まった身体の節々が、温かい湯の中で溶け出していく感覚。そのあまりの心地よさに、呂布は大きく息を吐いた。それによってさらに感覚は深まり、浮遊感を伴って全身を優しく包み込む。そのまま眠ってしまいそうである。
「……最っ高の贅沢だな…」
豪華で高級な贅沢品にはまるで興味が沸かないが、この風呂は別だ。一体誰がこんなものを据え付けたのやら。
長安の呂布の屋敷、というには少々小さい広めの家には、大きな風呂があった。呂布が頼んだわけではなく、洛陽から撤退して長安に着いた際、自分の家として案内されたこの家に最初から付いていたのである。
岩を組んで作られたその湯船は、中庭ほどの広さがあった。周囲には巨石や木々、そしてこじんまりとした竹林が配されており、その風情は見る者に安らぎを感じさせる。その周りは塀で覆われているが屋根は湯船の半分辺りまでしか覆っておらず、今呂布がいる風呂の奥側からは、湯につかりながら空を見上げることができた。湯船の底は目の粗い砂のようで、その下から湯が湧き出ている。あふれた湯がどこへ行くのか呂布には解らなかったが、そんなことはどうでもよかった。湯の上に出た顔や肩に触れる外気の冷たさが、また心地よい。
骨までくつろぐこの安堵感を、呂布は心行くまで堪能していた。
同じ朝。
見事な晴天からの光も射さない暗い部屋で独り、李儒は寝覚めが悪かった。目の下には濃い隈ができている。
それは今朝に限ったことではなく、董卓軍が皇帝を保護して洛陽に入った頃からずっと続いているものだ。ただ、最近は特に酷い。頭を振り、寒気と吐き気を追い払う。
原因は、判っている。
李儒は唇を噛んだ。もう一度、強く頭を振る。
全ては、自分の。自分自身の行為と、心の弱さ、器の小ささが原因である。こんなことでは、到底務まらない。早朝の冷気を深く吸い込むと、李儒は気合を込めて立ち上がった。自分にしかできない事を。自分だからこそできる事を。そう言い聞かせながら、外出の準備を整える。
そう、自分は、ただの一参謀ではない。魔王・董卓の跡取りなのだ。
「……あ、あの…」
「何だ娘?この家は立ち入り禁止だ」
「そ、その、私、太師(董卓のこと。位、というか尊称のようなもので、皇帝とほぼ同列に扱われていた)様に言われて……こ、これを…」
おずおずと差し出された手紙を受け取ると、張遼は内容を確認した。間違いなく、董卓の筆跡と、署名がある。
「よし、奴は中だ。通れ」
張遼は手紙を返すと、脇によけて玄関への道を開けてやった。小柄な娘はいかにもおそるおそる、といった動作で家の中へと入っていく。
(……大丈夫か?)
張遼は少しの間それを横目で見送ってから、再び道を塞いだ。
「……しっかし王允さんがこんな話せるお人だったとはねえ。こんなことならもっと早くお近づきになっときゃ良かったぜ」
「ほっほっほ、なになに、同じ長安で暮らしておるのですから、持ちつ持たれつ、仲良くやっていきましょうぞ」
「おう、よろしく頼むわ!んじゃ、また要りようだったら声かけてくれよ」
「ほっほっ、ではその折はひとつ、お願い致します」
和やかに話は終わり、客人は席を立った。
街の中心部、王允邸。ここ長安では数少ない“豪邸”といえるその屋敷は、晴れて司徒(いわゆる総理大臣)となった主の肩書きに相応しいものだった。しかし。
(ええい下衆が、早う帰らんか!)
好々爺然とした表情とは真逆のその心中は、到底晴れ晴れとしたとは言えない、刺々しいものであった。
(少々目をかければ頭に乗りおって!貴様らなぞ董卓を討つための道具に過ぎんわ)
柄の悪い客人の背中を笑顔を崩さず見送ると、即座に踵を返す。その顔は、見事に不快一色へと変貌していた。気に入らんことばかりだ。
曹操をけしかけた暗殺が失敗に終わって以降、都には董卓に歯向かう者はいなくなった。根性無しの連合軍も、華雄を討っただけで結局解散した。目ぼしい勢力に書簡を送ってはみたものの、反応は良くない。それならば、と王允は、董卓軍内部に亀裂を入れるべく、長安に残った無能な将軍達に近付き、やりたくも無い太鼓持ちをし、粗暴な態度にも目をつぶって調子付かせてきた。最初は効果も薄かったのだが華雄が死んでからはかなり態度も大きくなり、洛陽から来た移住者を襲うなどの暴挙も目立ち始め、民衆の心も徐々に離れつつあった。ところが、それも董卓本軍が長安に入るやすっかり大人しくなってしまったのである。あの忍耐と努力は何だったのか。
しかも、下手に董卓の旧い部下達と仲良くなったせいか今まで以上に董卓に気に入られてしまったらしく、あろうことか義理の息子、つまりあの暴れん坊の呂布の嫁に王允の一族の娘を差し出せ、などと言ってくる始末である。我が王家に、逆賊に渡す娘などいるはずもない。
ここまで思い出し、王允は小さく鼻を鳴らした。じわり、と口元に悪い笑みが浮かぶ。
無能な将軍どもはさすがに無能だけあって、一度覚えた悪事の味が忘れられないのか董卓が戻ってからも陰でこそこそと民家を襲い、略奪を繰り返していた。これに目をつけた王允は、その無能者の一人からどこの馬の骨ともつかぬ娘を買い取り、一族の娘として送りつけてやったのだ。
(出自も判らぬヤクザ者には、安物がお似合いじゃわい)
少々機嫌を直した王允は、召使に命じて再び客を迎える準備をさせた。役に立たない無能どもに変わる、次の手である。
最初はただの気弱な男と思っていたが、最近は時折危うさを感じさせるようになっていた。狂気を感じる、と言ってもいい。そこを上手くつつけば、あるいは。
(……)
そんな王允の様子を物陰から盗み見る召使の男。彼は、人前では決して見せない王允の邪悪な貌を、ハッキリ見ていた。
人格者と聞いていたが、その実、あの形相。狂っている、と言っても過言ではないだろう。
(噂、というのは甚だ当てにならんものだな)
まあ、その最たる例はウチの若か。
人を食う悪鬼のように噂されている呂布のことを思うと、つい顔が緩みそうになる。
「ホラさっさと掃除だ!客人の帰った後は即、ピカピカに!それがここの決まりだぞ!」
廊下から響く召使頭の声に、高順は目立たないよう機を見て廊下に出た。
先日、情報収集のため董卓軍の参謀である賈詡を訪ねた。賈詡はどうやら呂布軍を評価しているらしく、高順にも気兼ねなく現状を説明してくれた。
外では、元連合軍やその他諸侯が互いに牽制し合い、場所によっては争いに発展しつつあった。董卓をある種認めている者・頑として認めない者、保身に走る者・野望をあらわにする者、袁紹派・袁術派、など、さまざまな派閥が入り乱れており、長安に手を出す余裕のある勢力は見当たらないという。むしろ袁紹などは、直接董卓軍に向かうのではなく、北方の有力者で皇族でもある劉虞を新たな皇帝として担ぎ上げて対抗しようと画策し、当の本人に断られていた。この状況で、わざわざ一将軍である呂布に暗殺者を差し向ける者がいるとは考えにくい。
では、内はどうか。董卓軍の内情については、賈詡も特別情報を持ってはいなかった。あまり味方の陰で動くと、いらぬ疑いをかけられてしまう。そう笑った賈詡は、しかし高順の知らないことを教えてくれた。いわく、攻め取った村の娘を攫う、というのは、洛陽を獲る前の董卓軍では当然に行われていたと言う。都に入って金持ちから財を奪い、随分大人しくなってはいたが、長安に戻って奪う相手がいなくなり、一部の気性の悪い連中は野蛮な癖が抑えられなくなってきたのだろう、そう賈詡は考えていた。ほどほどに暴れさせて鬱憤を晴らさせ、機を見て締めることで民衆の心も掴む。西涼の荒くれ連中を従えるためにはそういう事も“必要悪”だと言うのだ。
言い分は解るが、洛陽から来た人々は腐っても元・都の住人である。そういう荒地の乱暴な理屈がそのまま通じるだろうか。そんな疑問を覚えて少し考え込んだ高順に、賈詡はもう一つ情報を付け加えた。
「外の諸勢力、内の荒くれ連中、その双方と、司徒の王允が連絡を取っている」
董卓に気に入られて司徒にまでなった旧朝廷の重鎮が何を企んでいるのか、その内容は判らない。しかし、隠す様子もなく平然と書簡を送っているあたり、董太師は王允の政治手腕ではなく、案外その図太さ、正直さを気に入ったのかもしれんな。そう言って、賈詡は再び笑った。
こうして、呂布への暗殺者の出所とは少々関係ないかもしれないが、一度王允を調べる事にしたのである。
高順は、気配を殺すのが上手かった。昔から、印象に残りにくい、存在感が薄いと言われることが多く、武術を学んでそれは一層顕著になった。そして人に気付かれにくい自覚もあったため、これを何か有効に利用できないか、常々考えていた。この潜入は、その実験でもあった。
何かの使いで屋敷を出た体格の近い召使を背後から打ち倒し、衣類を奪ってなりすますと、極力人目につかないように屋敷に戻る。明確な名簿など無い上、大屋敷である。他の召使と顔を合わせても、不審に思う者などいなかった。
潜入は成功である。王允の二面性を目にすることもできた。
ただ、西涼の将軍との会話を盗み聞いた限りでは、どうやら略奪の戦利品を王允が買い取った、ということのようだった。良し悪しはともかく、呂布とは関係無さそうだ。
あまり長居するのはまずい。そろそろ去ろうか、と思ったところで、
「御客人、ご来館!」
「酒と料理、急げ!」
裏方がにわかに慌しくなった。
新たな客。顔だけでも見てから帰るとしよう。
そう考えた高順は、使われていない部屋に潜み、扉に張り付いて様子を窺った。
扉を開けようとすると、手が触れる前に勝手に開いた。
「!?」
目の前で、小柄で髪の長い娘が硬直している。
「…えーと、誰?」
大きな音を立て、勢い良く扉が閉まった。そして一拍置いて、
「ぃやああああああああああああああああああ!」
扉の向こうから甲高い悲鳴が響き渡った。
「…えええええ?」
風呂から上がって全裸の呂布は、閉ざされた脱衣所への扉の前で、なんとなく周囲を見回した。当然、誰もいない。いや、オレは何もしてないぞ?
「貴様にそんな趣味があったとはな」
「あるか!テメー張遼いい加減にしとけよコラ」
「何だ?変態露出男が」
「……ご、ごめんなさい……」
立ち上がっていがみ合う大男2人の前では、床につぶれるように娘が土下座の姿勢で固まっていた。空に消えるような声で、呪文のように謝り続けている。呂布は張遼を睨みつけると、
「お前は、後で、ぶちのめす。……で、顔を上げてくれないか?」
つぶれている娘に声をかけた。
「顔を上げたら何を見せられるやら」
張遼の言葉に、身体を起こそうとしていた娘の動きが止まる。
「いやいや、もう服着てるから!……テメー、外に出てろ」
「フン。せいぜい気をつけるんだな」
張遼が部屋から出てからも、娘は固まったままだった。
「えーと、大丈夫だから、とりあえず顔を上げくれないか?」
ゆっくりと、少しずつ、身体を起こす。そうしてようやく見えたその顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「え!?そ、そんな泣くか?いや、さっきのはホラ、オレが悪かっ……悪くは無いな。いや、どっちも悪くない。事故だ事故。な?だから、その、ていうか何で泣いてるんだ?」
「……」
声が小さすぎて聞き取れない。
「ん?」
呂布は顔を横に向け、耳を寄せた。
「……犯されて、食べられるんだ……」
「…………はぁ!?」
なんじゃそりゃ!?
思わず上がった大声に、見る見る娘の顔が歪んでいく。
「いやいやいやいや違う違う!怒ってない怒ってない!てか食べるって何だ?いや犯すってのも何だ?とにかく大丈夫だ、キミは安全だ、落ち着け!」
落ち着き泣く言い放つ呂布の前で、娘は今度は静かに涙を流し始めた。
「王允殿!王允殿のようなお方が、いや王允殿こそが、この先の時代に、私に必要なのです!」
「ほっほっほ、跡継ぎ殿にそこまで言っていただけるとは、この王允、まだまだ頑張らねばなりませんなあ」
随分、熱が入っているな。
近付く人の気配に、高順は意外な気持ちでその場を離れた。
王允邸の新たな客人は、李儒であった。華雄亡き後、長安の維持・管理を任されていた李儒は、当然政務を取り仕切る王允と接点がある。ただ、話の内容に暗い部分はなく、董卓軍と旧朝廷組のどちらとも上手く接している王允のことを、李儒がひたすら褒め続けているだけだった。意外だったのは、その勢いである。あの病弱を絵に描いたような優男が、髪を振り乱さんばかりの声量で喋り続けていた。
(まあ、そういう面もあるか)
李儒とは面識がある。万が一でも、見られるのはまずい。話が終わる前に退散するとしよう。
そう決めて立ち去る高順の背には、感極まって泣き声になった李儒の言葉が届いていた。
「その、本当に…ご、ごめんなさい……そう、聞かされて……」
涙を袖で拭いながら、弱々しく言葉を漏らす。娘が落ち着くまで、随分待った気がする。しかしどこのどいつだそんなこと言った奴は。疲れた顔で呂布は笑った。
「いや、落ち着いてくれて良かった。助かった。で、一体誰で、どっから来たんだ?」
「こ、これを…」
「あ、どーも」
うやうやしく差し出された手紙を会釈しながら両手で受け取り、ゆっくりと広げる。最後に見える署名は、親父殿のものだ。手紙には、こうあった。
『独り身のお前のために、王允の一族の特に気立ての良い娘をそちらに置く。何に使うも自由だが、良家の娘である、丁寧に扱うこと。気に入ったら、嫁にすれば良い。家族は良いぞ、奉先』
さらに別の筆跡、母上殿の文字で
『大人しい子だから、優しくね』
それだけ書き足されている。
「……」
なんだこれは。呂布は頭を押さえた。
おそらくは、赤兎以外何も受け取らないオレに対する過剰な気遣いなんだろう。が、これは強引過ぎるんじゃないか?確かに怪我もしてた、世話してくれる人間がいたら助かっただろうが、今はもうほとんど治っている。どうしろってんだ?
呂布は本格的に困っていた。これまでの人生で、下女と接することはあっても良家の娘などというものと顔を合わせたことも無いのだ。扱い方がわからない。助けを求めるように娘の顔を見ると、
「……」
助けを求めるような瞳と目が合った。
「えーと、王允殿のところに帰る、とかはだめなのか?」
「?」
困った顔で首をかしげる娘。その反応に、呂布は思った。何か、おかしい。
あくまで想像だが、良家の娘、というのは、良い家に嫁ぐために化粧し、着飾り、社交性も学び、結果、人を値踏みするいけ好かない女になる、そういうものだろう。ところがこの娘は、終始おどおどしており、顔立ちも、まあかわいらしいが素朴で、服も地味、これは母上殿の趣味か。とにかく、良家の娘、とはとても思えない。しかし嘘だとして、一体何のために?
改めて娘を見た。困った顔で、泣きそうになるのを堪えているらしく、震えている。
(…まあ、どうでもいいか)
真実はともかく、これ以上初対面の女子を困らせても悪い。張遼は最後まで警戒していたようだが、あの場面であんな大きな悲鳴を上げる娘が、実は殺し屋、ということもないだろう。狙うなら、あれは絶好の機会だったはずだ。それに。
―大人しい子だから、優しくね―
あの女性の代表のような母上殿がそう言うのだ。優しくして、間違いはない。
呂布は精一杯ぎこちない笑顔を浮かべて、言った。
「そうか、帰れないのか。じゃまあ、よろしく頼むよ」
顔の筋肉が震えるような自分の笑顔にどの程度の効果があったのか定かではないが、娘の困った顔が、少し笑顔に近付いた、気がした。
「知ってるかもしれんが、オレは呂布。呂布、奉先だ。で、名前は?」
自分の名を聞かれた娘は、何かを思い出すようにしばらく上を見上げて、目をつぶった。そして下を向いて目を開くと、恥ずかしそうにその名を口にした。
「……ち、貂蝉……と、言います……」




