31 長安での休養
天をも焦がす洛陽大炎上から、およそ半月――
長安には雨が降っていた。
その匂いは開け放たれた部屋の中に広がり、鼻から入って身体の奥に沈みこむ。雨は好きではないのだが、それが今は静かに心を鎮め、落ち着かせてくれていた。
(もう十分休んだんだけどな)
布団の上に寝転がっていた呂布は、腹筋に力を入れて上体を起こすと、左手で自分の左胸を軽く押してみた。予想以上の痛みが身体を走り、動きが止まる。苦笑いと共にため息が漏れた。完治までは遠そうだ。
重傷の呂布に、屋敷で静養するよう諭したのは、董卓の妻である。危機を救われたこともあってか、彼女は義理の息子となった呂布を“溺愛”と言えるほど気にかけていた。実子は2人いたが共に娘で、息子がいなかったこともその一因かもしれない。
「い~い?完全に治るまで、絶対暴れちゃダメだからね。わかった?」
喋り方は少々アレだが、その実賢く優しく、なにより董卓と釣り合う程の度胸と胆の据わり具合を持った彼女は、無双の武人である呂布に対しても当然物怖じなどしない。彼女は愛する大きな息子に対し、今までの呂布の人生に欠落している“母性”を目一杯あげたい、と常々考えていた。今回の件も、そのあらわれである。
呂布は彼女に弱かった。あからさまに、それはもう堂々と母親として優しく厳しく接してくる彼女の異常に近い距離感は、照れくさいようなむずがゆい感じがしてどうにも苦手だった。しかし、全く嫌ではなかった。
歳は離れているだろうが、よく笑い、ちょっとつり気味の目も美点になるような、表情のくるくると変わる可愛らしい女性であり、同時に董卓軍の皆からは「姐さん」と呼ばれ親しまれる人気者でもある。『董卓の妻』という肩書きが無くても、それは変わらないのではないだろうか。そんな魅力的な女性が、母として特別に心配してくれる、というのは何とも恥ずかしく、同時に嬉しかった。単純な嬉しさとは少し違って、胸の中で慣れない暖かさが膨らんで、どうしたらいいのか判らなくなるのである。そしてその結果、言われたことを素直に聞いてしまうのだ。
呂布は、今度は照れた苦笑いを浮かべた。母上殿(と呼ぶよう言われている)には勝てん。もう少し、甘えるしかないな。
外の雨は、変わらず静かに降っている。この諦めも、嫌ではなかった。
「雑魚が!いい加減諦めんかぁっ!」
(アイツには甘えたくないなあ…)
雨の向こうから届いた大声は、張遼のものだ。董卓の命で呂布の護衛をさせられている張遼は、毎日のように誰かしらと戦っている。
帝を迎え、都となったこの長安では、滅ぼす予定だった洛陽と違い、一切の通行が制限されていない。洛陽から移った人と財を加え、大都市となった長安の経済力を最大限に活かすため、そして正統な王都としての威を示すため、堂々と街道を開け放っているのである。
華美な建物は激減したので街自体の規模は縮んだが、人口に関しては、元々長安にいた人間の分、洛陽よりも大きく増加している。その上反董卓連合も解散し、わざわざヤクザの本拠で問題を起こす者もいないため実は安全な長安の街は、徐々に活気を増していっていた。
その自由な往来が、少々災いしていた。
「待てい貴様ら!」
その怒声に続いて、乱暴な足音が近付いてくる。屋根の上を走っているのか、上からも音が聞こえてきた。雨は降り続いている。よくやるもんだ。
他人事のように外を眺めていると、屋根から人が降ってきた。落ちたのではなく、降りたのだ。その証拠に、こちらを向いて着地している。鼻から下を布で隠したその顔は、いかにも暗殺者だ。嫌な目をしている。
と、背後で轟音が鳴ると同時に、呂布のすぐ横を後から前へと何かが吹き飛んでいった。この部屋の引き戸のようだ。
「ぬん!」
掛け声と共に投げ放たれた剣が先程降り立った男の胸に突き刺さる。暗殺者の男は勢いに押され、突き立った剣を掲げるかのようにゆっくりと後に倒れた。
「卑怯な上に未熟とは情けない!一から鍛え直して来い!」
真横に立った張遼の声が響く。突き刺しておいて何を、と思ったら、轟音と一緒に飛んで来て転がっていた引き戸が動き、下から人が這い出して雨の中へと逃げていった。
一瞬の騒動を緩やかに洗い流すように、雨は降り続いていた。その音は耳から入って頭の奥に染み渡る。心を落ち着かせるその音色を聴きながら、呂布は目を閉じ、改めて布団の上に寝転がった。
「…おい」
不機嫌な張遼の声。呂布は答えず、転がったままで右目だけを開けた。それを見下ろす張遼の顔はいっそう険しくなる。
「き さ ま ちょっとは自力で何とかしようと思わんのか!立てんわけではなかろう!」
「…完治するまで絶対安静って言われてんの。知ってるだろ?」
「加減があるだろうが!大体きさま、あの戟はどうした!?」
「取り上げられたー」
「誰に!」
「母上殿ー」
「っ!」
「いやーあの人に言われちゃうとどうもなあ」
そこには反論できずに唸る張遼。
「ぬぬ…とにかくだ!嘘でも良いからさっさと治せ!扉の修理に手配はしておく!きさまはせいぜい布団の中で安静にしているがいい!」
「おーうご苦労さーん」
鼻を鳴らしながら出て行く張遼とは対照的に、呂布は笑っていた。
なんだかんだで、気を遣ってくれているらしい。さすが張遼、いいヤツだ。しかし殺し屋に向かって「鍛えなおして来い」とは、気を遣う加減がおかしいのはアイツの方じゃないだろうか?
呂布を狙う者は多かった。正々堂々訪ねて来る者もいたが、今回のような暗殺者も少なくない。しかし街道が開放されているため、呂布を倒して名を上げたい者は誰でも呂布の屋敷まで来ることができたし、怪我の噂も隠していないため広まっている。敵対勢力からすれば、暗殺するなら今、というところだろう。
そしてそのどちらも、張遼が相手をしていた。呂布を狙う以上、相当な剛の者が相手になる。そう考えた真面目な張遼は、下手に部下に任せず、自ら対処する事にしたのである。その結果、張遼は連日随分と忙しそうではあったが、呂布は至って安全であった。
「ちょっとだけだけどね、何だかヤな感じもするよ」
洛陽の頃より質実剛健、席数も増え立派になった食堂の店内で、おばちゃんはそう言って話し出した。聞いているのは、高順である。この食堂の常連である曹性には、隊の訓練を任せていた。
呂布が平和に寝ている間、先に全快した高順は情報収集を行っていた。最大の目的は「呂布に刺客を送っているのは何者か」ということだが、それ以外にも知っておくべきことは多い。そもそも呂布の隊は長安に来たのも初めてなのだ。呂布が自由に動き出す前に、できるだけ把握しておきたかった。元連合軍の動向など、外の情報は賈詡や李儒に聞けばかなり正確にわかるので、ひとまず後回しである。
「…てわけさ。あ、アタシから聞いたなんて言わないででおくれよ?」
「もちろん。面白い話をありがとう、助かります」
薄く笑って、本人的には目一杯笑って食事代を払うと、高順は席を立った。しかしおばちゃんに背を向け店を出る時には、既に笑顔は無かった。
長い話を要約すると、こうだ。
反董卓連合との戦いの中頃から、この長安では少々タチの悪い連中が姿を見せるようになった。高圧的・暴力的なチンピラ程度の小悪党だが、まあ頻繁には見ないし、迷惑ではあるが大きな被害が出るようなことはなかったので、問題にはならなかった。そして戦が終わって董卓自身が長安に戻ると、ぱったり見なくなった。だが最近、嘘か真か、そいつらが近隣の村に陣取り、街の人間、特に洛陽から移って来た新しい住民を連れ去っている、という噂が流れ始めたのである。現場を見たわけではないが、おばちゃんはその『タチの悪い連中』と似た男達が、今は大人しく長安の街を歩いているのを見たという。董卓軍支配下のこの街でそんな態度を取って無事でいられる人間、というのは、董卓軍の兵士しかいない。証拠は無いが、この噂が元で、兵士と民衆、特に新住民の間に溝ができつつある、ということだった。
もし本当にそういう事件が起きているとしたら、犯人は董卓軍の兵で間違いないだろう。おばちゃんの読みは正しい。外部の者なら、何としてでも粛清されている。
戦の途中から、ということは、本隊の人間ではない。長安に残っていた将軍というと、李傕、郭汜、張済、樊稠あたりか。怪しい存在としては、旧朝廷からの残留組である王允などもいる。そして董卓の留守中、長安を任されていたのは、李儒。
高順は人の良さそうな参謀の顔を雨に濡れる空に思い浮かべた。胃が痛そうだ。
これは、思いの外ややこしい事態かもしれない。巻き込まれるのは御免被りたいものである。しかし同時に、あの若は巻き込まれる運命にある、そんな嫌な予感がするのであった。
せめてもの抵抗として、高順は李儒ではなく賈詡の元へ、外の情報を聞きに向かった。
夜になると、雨は上がった。
ふらふらと足元のおぼつかない男が一人、食堂の扉にぶつかるようにもたれかかると、そのままそこに座り込む。
「…なんだいもう、今日は閉めちゃったよ」
扉の向こうでそう声がして、少ししてから軽い音を立てて引き戸が開く。支えを失った男はゆっくりと店内に倒れ込んだ。
「ちょっとアンタ……ってあらまいつもの兄さんじゃないか!どうした?大丈夫かい!?」
倒れたままでおばちゃんを弱々しい目で見上げる曹性は、ギリギリそう見える程度の微かな笑みをどうにか浮かべ、残る力を振り絞るように言った。
「……ご、ご飯…下さい……」
「しっかしそんなになるまでやるかねえ、普通」
「…ふふうや、やひんへふお」
残り物の食事で少し元気を取り戻した曹性を見て、おばちゃんは優しく笑った。
「食べてから喋りなよ」
頷きながら食べる曹性の目には、涙が浮かんでいた。実に、5日ぶりの食事である。
反董卓連合軍との戦いで、董卓軍最強と言われる徐栄の騎馬隊の力を目の当たりにした曹性。あの恐るべき騎馬隊の力を、もしウチの若が率いて戦うならば、それは間違いなく『最強』だろう。そう考えた彼は、呂布隊を引き連れ徐栄の元を訪れたのである。それが丁度5日前、共に訓練をし、あるいは見てもらうことで、少しでもあの黒い騎馬隊に近付けたら、という思いからの行動だった。
まして呂布はあの巨馬・赤兎を手に入れており、部隊の者との差は開くばかりである。弓の腕は超人的だが剣も馬術もあまり得意でない彼は、自分が、そして自分が任された呂布隊が、あの『最強』の足を引っ張るわけにはいかない、誰より強くそう思っていた。
だが、現実は厳しかった。最強には最強の所以があったのだ。
歩くのがやっと、という程の荷を背負い、まるで野生のままのような頑健凶暴な馬に跨って、道とは呼べない獣の行く野山をひたすらに駆け続ける。それが、徐栄から課せられた“初歩”の訓練だった。行程は、往復で3日。当然のように飲まず食わずである。
これに初日から遅れ続けた曹性は、空腹と睡魔に猛襲を受け、己の無力と無能を思い知らされながら、2日遅れで今、ようやくここに至ったのであった。
その目に浮かぶ涙には、食事の暖かさ、おばちゃんの優しさへの感謝と、初歩に落ちこぼれた自分の不甲斐なさへの悔しさ、憤りが混ざり合い、堪え切れずに染み出たそれは曹性の頬に筋を作った。そしてその頬は、食べ物で膨らんでいた。
「まだ食べるかい?って、あれ」
ふと目を離した隙に、疲れ果てた若者は机に突っ伏して寝息を立てていた。
「…こりゃあ、よっぽどだねえ…」
ふたたび、優しく微笑む。雨の止んだ長安に、優しい夜が流れていった。
「おや!今日は遅くに客の来る日だね」
毛布を手にしたおばちゃんが食堂の店内に戻ると、曹性の向かいに一人、男が座っていた。平服だが、一目でそれとわかる本物のヤクザの迫力と空気をまとったその男は、見惚れるほどに渋く力強いその顔をこちらに向けると、片目をつぶり、口の前で人差し指を立てて穏やかな笑みを浮かべた。おばちゃんは肩をすくめて声を出さず笑うと、そっと近寄り曹性に毛布をかける。そのまま静かに曹性の隣の席に座ると、小声で尋ねた。
「あんた、この子の将軍様かい?」
「残念ながら俺の部下ではないな。が、こんな目にあわせた犯人ではある」
穏やかな笑顔のまま、渋い男は答えた。
「こいつに貸していた馬が戻ったのでな、もしやと思い来て見たのだが……いや、遅い時間にすまん」
顔に似合った渋い声でそう言うと、男は頭を下げた。これにはおばちゃんも目を丸くし、そしてすぐに思い至った。董卓の右腕と呼ばれる将軍は、強く、仁義礼節をわきまえ、そして、恐ろしく渋いという。
「あんた、徐栄さんだね?」
男は否定も肯定もせずに笑う。
「力の敵わぬ難題を前に、逃げるも止めるも自由というのに、ここまで続けてやり通すとはな」
「この子は、頑張ったんだよ」
見てきたように答えるおばちゃんに、渋い男が目を大きくした。そして再び、微笑む。
「残念ながら騎馬の才能は無い、が」
静かに椅子を引き、立ち上がると
「その根性は、見上げたものだ。すまんが女将、明日は一日、そいつをゆっくり休ませてやってくれ」
そう言って不相応な額の金を机に置き、再び頭を下げた。そして上げた顔は、また片目をつぶって笑っていた。
「どうにも、相当にここが気に入ってるらしいんでな」
「任しておくれよ。なんたってこの子は、洛陽からの、一番の常連さんだからね」
おばちゃんは笑顔で片目をつぶり返す。それを見て、渋い男は店から去って行った。
(弓は相当の腕と聞く。無理に騎馬を使うこともなかろうに)
夜の帰り道、徐栄は曹性の評判を思い出していた。と、机で寝ている曹性と愉快な女将が頭に浮かぶ。
(……さて、良い馬でも見繕ってやるか)
それぞれに、長安の夜が訪れる。
そして翌朝。
「!うっひょおおおぉ!気 持 ち 良い~~!」
仲間達の苦労を知ってか知らずか、その中心たる呂布奉先は、自分の家に造られていた露天の風呂の真ん中で、温泉気分を満喫しているのであった。




