第三章 追憶 (5)
転機は思いがけず早くにやってきた。
お袋と勝野がある夜、激しい言い合いをして、そしてその夜、勝野は
荷物をまとめて出て行ったっきり、帰ってこなくなった。
確か浮気がどうとか、仕事しないとか何とか言ってたっけ。
俺はホッとしていた。
その日からお袋は、酒びたりになった。酔って俺に暴力をふるおうとしたけど
足元がふら付いて、俺が交わせる程だった。
「お母さん、そんなに飲んだらダメだよ。」
10歳になっていた俺はおふくろにそう言った。
「うるさい!!飲まずにいられるかってーの!あの人が出て行っちまった~。
愛してたのに~。」
お袋は泣く。
「お前のせいだ!全部お前の!お前がいるからあの人出ていっちまったんだ!
お前なんか・・・お前なんか産まなければ良かった!!」
お袋のその一言で、俺の心の中にかすかに灯っていた母親への愛という
ともし火は、消えちまった。
学校の帰り道、何やら騒がしい声がして、気になって行ってみると、4,5人の
男が1人を寄ってたかっていじめていた。年のころは俺と同じ位だ。
「やめろー!」
俺は夢中で走り寄った。
やられていた奴は泣きながらうずくまっている。
俺はその子に自分を見たんだ。
何てみじめで頼りないんだろう・・・俺はやっていた奴らに食って掛かった。
「寄ってたかって一人をいじめるなんて、卑怯だぞ!!」
「なんだと?」
その中の大将らしき一人が、前に進み出た。
「なんだよ、やるなら一対一で勝負してやる!かかってこいよ!!
それとも、一人じゃ何も出来ねーのか?」
俺は無我夢中だった。
ただ、この自分に似たみすぼらしい子を守ってやりたかった。
「う、何だコイツ。変なヤツ!」
大将らしきヤツは、引き下がりながら行こうぜと、仲間と行ってしまった。
俺は言い知れぬ興奮と、爽快感に包まれていた。そして悟った。
「大丈夫か?」
「うん・・・ありがとう・・・」
そいつは、けな気に笑って見せた。
「怖いか?あいつら。」
「うん・・・」
「そーだよな、怖いよな・・・でも、何もしなけりゃやられるばっかりだ。
今度あいつ等に会ったら、死ぬ気になって向かって行けよ。あいつら、俺がちょっと本気になって言ったらとっとと逃げちまっただろ?
所詮、そんな程度なんだよ。
自分より、弱いと思う相手にしか向かって来れないんだ。」
俺は言いながら同時に自分にも言い聞かせていた。
そう、何もしなければやられっぱなしで何も変わらない・・・
俺の中で確かな何かが生まれた。
もう、甘んじて暴力は受けないと・・・卑怯な人間には、絶対に負けないと。
何より自分に、負けたりしない、と。
俺はこの日誓った。
やられた分だけ人の痛みは解る。
だから俺は、絶対に人を傷つけるような事はしないと。
そして、弱い奴は俺が守ってやろうと。
その日から俺は変わった。お袋が暴力を振るってきても、甘んじて受ける事は
なかった。抵抗してみた。お袋は驚いた顔をしたが同時にショックの色を
浮かべていた。俺が成長して、力を付けた事が信じられない様子だった。
お袋は、勝野が出て行った後もとっかえひっかえ男を引っ張り込んでいた。
男はみんな勝野のような、平気で子供に暴力を振るうような奴らばかりだった。
大人の男の力にはかなう筈もなかったが、俺はたまに暴力を振るわれると、
いつも‘‘負けない‘‘と、ただそれだけを思って耐え忍んでいた。
俺は絶対にこんな状況に置かれている自分に負けたりしない。
くじけたりしない・・・。
それに、俺ももうタダのガキじゃない。
知恵もついてきた。家にいるのが嫌ならば、外で寝ればいい。
逃れる術はいくらでもある・・・そうして、何年かが過ぎて行った。
ある日、お袋は激しく泣きじゃくっていた。男が出て行ったのだ。
俺はもはやいつもの事だろうと、さして気にも止めていなかった。
俺は中学三年。朝は新聞配達をして、何とか自分に掛かる金は自分で
かせいでいる。俺は勉強もやった。ひたすらに。定時制でもいいから、
高校に行きたかった。成績も良かった。そして、自分でもちょっと意外だったが
困った奴がいたらすっ飛んでいって助けてやる、そんな奴になっていた。
仲間は大勢いて、慕ってくれた。俺を必要としてくれた。
俺はそれが嬉しくて、ただがむしゃらだった。
母親に必要とされなかった俺は、誰かに必要とされたかった。
その事に、自分の存在価値を見出していた。
俺は女の子にもモテた。だけど誰とも付き合ったりしなかった。
女だけは信じられないと思っていた。
だって俺の一番身近にいた女は、あんなサイテーなお袋だったんだから。
俺がそんなことを思っていると、お袋が泣きながら俺の背中を激しく叩いてきた。
「やめろよ、お袋。」
俺はその手を軽く振り払った。もう、体力差は歴然だ。
「お前見てるとムカムカする!だんだんあの人にそっくりになって・・・
あたしはお前を愛せない!絶対に!だってあの人に・・・あたしを捨てた
あの人にこんなにそっくりなんだから!!あの人があたしの人生を台無しに
したんだ!お前なんか、居なければいい!!」
そう言ってお袋は、俺の左腕を包丁で切りつけた。
その瞳には狂ったような怪しい光が宿っている。
今さら痛みなんて感じない。血がボタボタ滴り落ちる。
お袋の言葉を、俺は黙って聞いていた。
じゃあ何で俺なんか、産んだんだろーな・・・
心の中で、つぶやいてみた。ほんとは心の中で、いつも思っていた事。
愛をくれない位なら、愛せない位なら、俺なんか産まなければ良かったんだ。
こんなに辛く当たる位なら・・・傷付けるだけなんだったら・・・
でも俺は、その事に関しては、すぐに思考を閉ざす事にしていた。
だって俺は、今こうして生きている。
生まれた以上、生きる権利が俺にはある。
愛なんかなくたって、生きていける。
俺の人生は、俺だけのものだ。
それに、考えてみればこの女もある意味すごく憐れだ。
俺の父親ってのに、捨てられちまったんだから。
そしてその傷を、未だに引きずりながら生きてるんだから。
今さら父親がどんな奴だったか、そんな事を知りたい気持ちは更々無い。
ただ、俺の親父ってのがお袋の人生をダメにしちまったんだろうとは思う。
その事実に負けてこんな風になっちまったお袋も、どうかとは思うけど。
それに、だからってそれは、俺にとっては一切同情の余地は無い。
俺はお袋の決定的な言葉を聞いて、そして決心した。
この女だけは絶対に許せない。許さない。女なんてもんは・・・
俺は家を出た。
俺はがむしゃらに働いて、勉強して、大検にも受かった。
資格をとってきちんとした所に就職し、今では何ら、普通の人と変わらない
生活をしている。
ただ、この心と体に深く刻み付けられた数々の傷は、何かある度にフッと頭を
もたげ、時に、俺を翻弄するけれど。




