推しを拾ったつもりが、どうやら懐かれてしまったようです
――推しが、目の前にいる。
銀色の髪に、紫水晶のような瞳。痩せた身体を包む服は何度も繕われ、頬には薄い痣が残っていた。
ノア・ヴェルセイン。
前世で何度も幸せを願った少年が、今、私の隣に座っている。
「……エレノア」
「なあに、ノア?」
「……手」
「手?」
「……いつまで、握ってるの?」
言われて気づいた。私は路地裏で出会ってから、ずっと彼の手を握っていたらしい。
「あっ、ごめんなさい!」
慌てて離そうとすると、ノアの指先がわずかに動いた。
「……嫌じゃ、ないけど」
彼は俯き、小さく呟く。
「ぼくの手、汚いから」
細い指には傷がいくつもあり、爪の間には土が入り込んでいた。
私はもう一度、その手を取る。
「汚くなんてないわ。頑張って働いている手でしょう?」
「……」
「だったら、立派な手よ」
ノアは驚いたように私を見つめ、そっと視線を落とした。
耳が、ほんのり赤い。
……可愛い。
思わず頬が緩みそうになる。
でも、今は浮かれている場合じゃない。
ノアが死ぬまで、あと三十一日。
まずは彼を安全な場所へ移さなければ。
「ねえ、ノア。私のお家に来ない?」
少年の表情が強張った。
「……だめ」
「どうして?」
「ぼく、貴族の家なんて……入っちゃいけない」
「そんなことないわ」
「……前に、言われたから」
その声は静かだった。
怒りも悲しみも、もう通り過ぎてしまったような声。
「ぼくみたいなのは、近づいちゃいけないって」
胸が痛んだ。
けれど、無理に連れていくわけにはいかない。
ノア自身の気持ちを大切にしたい。
「……分かったわ。でも、また会ってくれる?」
彼は少し迷ってから、小さく頷いた。
そのとき。
ぐう、と可愛らしい音が鳴った。
「…………」
「…………」
ノアの顔が、みるみる赤くなる。
「……今の、ぼくじゃ……」
ぐうう。
今度はもっと大きな音。
私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ。ねえ、お腹が空いているでしょう?」
「……平気」
「じゃあ、私がお腹空いちゃったから、一緒にご飯を食べてくれる?」
ノアは目を瞬かせた。
やがて、ほんの少しだけ頷いた。
◇ ◇ ◇
市場の近くにある小さな食堂。
木の扉を開けると、焼きたてのパンと煮込み料理の香りが漂ってきた。
護衛騎士たちは公爵令嬢が庶民の食堂に入ることを心配していたけれど、私のお願いを聞いてくれた。
「ノア、何が食べたい?」
「……なんでも」
「好きなものを選んでいいのよ?」
「……選んだこと、ないから」
私は一瞬、言葉に詰まった。
でも、すぐに笑顔を作る。
「じゃあ、私と同じものにしましょう!」
運ばれてきたのは、鶏肉と野菜を煮込んだ温かなシチュー。
白い湯気が立ち上り、柔らかなパンの香りが食欲を誘う。
ノアは料理をじっと見つめていた。
「……食べても、いいの?」
「もちろん!」
「……全部?」
「全部よ」
彼は恐る恐るスプーンを手に取り、一口食べた。
その瞬間、紫色の瞳が大きく見開かれる。
「……あったかい」
もう一口。
「……おいしい」
小さな声だった。
けれど、その表情は今まで見た中で一番明るかった。
「よかった!」
私は嬉しくなって、自分のシチューにも手を伸ばした。
しばらくして、ノアがふとスプーンを止めた。
「……エレノア」
「なあに?」
「……これ、持って帰ってもいい?」
「どうして?」
「……明日、食べたいから」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
今日の食事を明日のために残そうとしている。
明日も食べられる保証がないから。
「……ノア」
私はできるだけ明るく言った。
「明日も、一緒に美味しいものを食べましょう」
「……明日も?」
「ええ!」
彼は信じられないというように私を見つめた。
「……約束?」
「約束よ」
私は小指を差し出す。
「指切りしましょう!」
「……ゆびきり?」
「約束を守るおまじないよ」
ノアは戸惑いながらも、小さな小指を絡めてくれた。
その指は、まだ少し冷たかった。
◇ ◇ ◇
食堂を出る頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
そろそろ孤児院へ戻らなければならない。
「……エレノア」
ノアが小さく私を呼ぶ。
「なあに?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼は少し迷ったあとで、もう一度口を開いた。
「……本当に、また会える?」
私は大きく頷いた。
「もちろん! 明日も来るわ」
「……明日」
「約束したでしょう?」
ノアは俯いた。
けれど、その口元がほんの少しだけ緩む。
「……うん」
小さな、小さな笑顔。
それだけで、胸がいっぱいになった。
絶対に守りたい。
この子が、安心して笑える未来を。
◇ ◇ ◇
公爵家へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
湯浴みを済ませた私は、寝台の上で今日の出来事を思い返していた。
ノアの声。
小さな手。
シチューを食べたときの、嬉しそうな顔。
けれど、問題は山積みだ。
彼を公爵家で保護するには、父の許可が必要になる。
特殊な魔力についても説明しなければならない。
どうすればいいのだろう。
そう考えていると、扉が叩かれた。
「エレノア、起きているかい?」
「お父様?」
扉を開けると、父アレクシスが立っていた。
その表情は、いつもより少し真剣だった。
「今日、東区で騒ぎがあったそうだね」
「……はい」
「なぜ、あの少年を庇った?」
私は顔を上げた。
「困っていたからです」
「それだけかい?」
「……はい」
父はしばらく私を見つめていた。
「エレノア。誰かを助けたいと思うのは立派なことだ。だが、善意だけでは解決できないこともある」
その声は優しかったけれど、厳しさも含んでいた。
「特に、あの少年は事情が複雑なようだ」
「……ノアのことを調べたのですか?」
「ああ」
父は静かに頷く。
「ノア・ヴェルセイン。七歳。両親は不明。東区で日雇いの仕事をしながら暮らしている孤児」
私は息を呑んだ。
「問題は、彼の魔力だ」
父は続ける。
「彼の周囲では、魔道具の故障や魔法の異常が頻発しているらしい。王国魔導院にも、似たような記録がほとんどない」
「……」
「それでも、あの少年と関わりたいのか?」
迷う理由なんてなかった。
「はい」
私は、はっきりと答えた。
「ノアは悪い子ではありません」
「……」
「ただ、誰にも助けてもらえなかっただけです」
父の表情が、わずかに変わった。
私は続けた。
「お父様。お願いがあります」
「なんだい?」
「ノアを、私たちのお家で保護していただけませんか?」
部屋に沈黙が落ちた。
父は驚いたように目を見開いた。
「……エレノア」
「はい」
「彼の魔力が暴走すれば、家族や使用人たちが危険にさらされるかもしれない。それでもかい?」
私は唇を噛んだ。
分かっている。
ノアの魔力は特殊だ。
けれど、それは彼自身が望んだことではない。
「……それなら」
私は父をまっすぐ見つめた。
「その力を、ちゃんと制御できるようにしてあげればいいと思うのです」
父は黙っていた。
「ノアは今日、温かいご飯を食べて、とても嬉しそうにしていました」
思い出す。
シチューを一口食べたときの、あの顔。
「明日もご飯を食べられるって言ったら、信じられないみたいに驚いて……」
胸が苦しくなる。
「そんな子が、危険だからって、助けてもらえないのは悲しいです」
長い沈黙が続いた。
やがて父は、深く息を吐いた。
「……まったく」
そして、困ったように笑う。
「お前には敵わないな」
「……お父様?」
「すぐに屋敷へ迎えるとは約束できないが、彼の保護について検討しよう」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、彼自身の意思を確認すること。それから、魔力についても詳しく調べる必要がある」
「はい!」
私は勢いよく頷いた。
父は優しく頭を撫でてくれた。
「エレノア」
「はい?」
「誰かを助けるということは、その人の人生に責任を持つということでもある」
私は静かに頷いた。
「……分かっています」
少なくとも、そのときはそう思っていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王都東区の、古びた建物の屋根裏。
ノアは薄い毛布にくるまり、小さな窓から夜空を見上げていた。
隙間だらけの壁から冷たい風が入り込む。
けれど、今夜は不思議と寒さを感じなかった。
彼は、そっと右手を見つめた。
昼間、エレノアが握ってくれた手。
温かかった。
柔らかくて、優しくて。
まるで、春の日差しのようだった。
『あなたが生きていてくれて、嬉しい』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
生きていて、嬉しい。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
「……エレノア」
小さく名前を呼ぶ。
明日も会える。
明日も、一緒にご飯を食べられる。
それだけで、世界が少し違って見えた。
「……あした」
ノアは、そっと微笑んだ。
初めて、明日が来ることを楽しみに思った。
そのときだった。
ぱきん。
小さな音が響いた。
「……?」
窓辺に置かれていた古い魔道具に、ひびが入っていた。
拾い物の、小さな照明石。
普段はほとんど光らない、壊れかけの魔道具だった。
けれど今、その内部には黒い光が揺らめいている。
「……なんで?」
ノアが手を伸ばした瞬間。
照明石は、音もなく砕け散った。
黒い光が一瞬だけ部屋を満たし、すぐに消える。
ノアは呆然と破片を見つめた。
「……また、壊しちゃった」
その声には、かすかな恐怖が滲んでいた。
彼はまだ知らない。
その力が、世界の法則そのものを壊す力であることを。
そして、自分が生き続けることで、世界の運命が少しずつ狂い始めていることを。
窓の外では、雲が月を覆い隠していた。




