私の推しは、七歳で死ぬはずだった
人が死ぬ瞬間というものは、案外あっけない。
少なくとも、私が愛した少年の最期はそうだった。
降りしきる雨。泥に汚れた石畳。薄暗い路地裏に倒れた、小さな身体。
銀色の髪が血に濡れ、紫水晶のように美しかった瞳から、ゆっくりと光が失われていく。
少年は最後まで泣かなかった。
助けを求めることも、誰かを恨むこともなく、ただ冷たい雨が降り注ぐ空を見上げていた。
『……一度で、いいから』
かすれた声が、雨音に溶けていく。
『誰かに、生きていてほしいって……言われたかったな』
それが、彼の最期の言葉だった。
画面が暗転する。
次の場面では、何事もなかったかのように華やかな王宮の舞踏会が始まった。
主人公である聖女が王子と微笑み合い、色とりどりの花びらが舞い散る。
美しい幸福の光景。
けれど私は、その画面を見つめたまま動けなかった。
「……こんなの、あんまりじゃない」
彼の名前は、ノア・ヴェルセイン。
乙女ゲーム『聖女の祈りと七つの星冠』に登場する、ほんの脇役の少年だった。
攻略対象ではない。特別な恋愛イベントもない。
物語の序盤にわずか数回登場し、七歳で命を落としてしまう孤児。
それでも私は、彼が好きだった。
空腹でも食べ物を盗まず、自分より小さな子供には、なけなしのパンを分けてしまう。
誰かに優しくされれば困ったように目を伏せ、褒められるとほんの少しだけ嬉しそうに笑う。
そんな彼が、どうしようもなく愛おしかった。
なのに。
彼は誰にも看取られず、雨の降る路地裏で死んでしまった。
「……私があの世界に行けたら」
何度も見返した死亡イベントを前に、私は呟いた。
「絶対に、あなたを死なせたりしないのに」
それが、前世で最後に抱いた強い願いだった。
まさか、その願いが本当に叶うなんて。
このときの私は、夢にも思っていなかった。
◇ ◇ ◇
目が覚めたとき、最初に感じたのは甘い花の香りだった。
ゆっくりと瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、見覚えのない豪華な天井。
繊細な金色の装飾が施され、中央には硝子細工のシャンデリアが吊るされている。
淡い桃色の天蓋に包まれた大きな寝台。白い猫脚の化粧台。窓辺には、朝露に濡れた薔薇が飾られていた。
「……どこ、ここ?」
起き上がろうとして、違和感を覚えた。
身体が妙に軽い。
布団から出した手は、驚くほど小さかった。
「……え?」
慌てて寝台を降り、壁際の姿見へ駆け寄る。
そこに映っていたのは、六歳ほどの少女だった。
腰まで届く蜂蜜色の巻き髪。新緑を思わせる大きな瞳。雪のように白い肌。
まるで人形のように愛らしい少女が、呆然とこちらを見つめている。
「……誰?」
思わず頬に触れる。
鏡の少女も、同じように頬へ手を伸ばした。
「なんで私、子供になってるの!?」
叫んだ瞬間、部屋の扉が開いた。
「お嬢様!」
飛び込んできたのは、濃紺のメイド服を着た若い女性だった。
「まあ! エレノアお嬢様! まだお熱が下がったばかりなのですよ!」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
「……エレノア?」
「はい?」
「私の、名前……?」
女性は不思議そうに首を傾げた。
「もちろん、エレノア・フォン・ローゼンベルクお嬢様でございます」
――ローゼンベルク。
その名前を、私は知っている。
アルヴェリア王国において、王家に次ぐ権力を持つ名門公爵家。
そして、その一人娘エレノア・フォン・ローゼンベルクは……。
「……悪役令嬢」
「お嬢様?」
「な、なんでもないわ!」
慌てて口を押さえる。
間違いない。
私は乙女ゲーム『聖女の祈りと七つの星冠』の世界に転生していた。
しかも、よりによって悪役令嬢に。
エレノアは原作で、聖女に嫉妬し、さまざまな嫌がらせを繰り返す公爵令嬢だった。
最終的には王太子から婚約を破棄され、ルートによっては修道院送り。最悪の場合は処刑されてしまう。
……いやいや、ちょっと待って。
転生したと思ったら、いきなり破滅予定の悪役令嬢!?
私の人生、難易度が高すぎない!?
頭を抱えかけた、そのときだった。
ふと、一人の少年の顔が浮かんだ。
銀色の髪。
紫色の瞳。
寂しそうな笑顔。
「……ノア」
そうだ。
この世界には、ノアがいる。
私は勢いよく顔を上げた。
「ねえ、マリー!」
「はい、お嬢様」
「今日は何年の何月何日!?」
「聖暦七百二十三年、花月の十七日でございますが……」
その答えに、息が止まった。
聖暦七百二十三年。
花月の十七日。
ゲームの物語が始まる九年前。
そして、ノアが死ぬのは――。
聖暦七百二十三年、雨月の二十三日。
花月の次が雨月だから。
つまり。
「……あと、三十六日」
小さく呟いた。
あと三十六日で、ノアが死ぬ。
でも。
今なら、まだ間に合う。
私はぎゅっと拳を握りしめた。
前世で何度も願った。
あの子を助けたい。
生きていてほしい。
幸せになってほしい。
その願いを、今度こそ叶えられる。
「……待っててね、ノア」
鏡の中の少女を、まっすぐに見つめる。
「今度は絶対、私が助けるから!」
◇ ◇ ◇
「お父様! お願いがあるの!」
私は長い廊下を駆け抜け、父の執務室へ飛び込んだ。
ローゼンベルク公爵、アレクシス。
濃い金色の髪と深緑の瞳を持つ、王国でも有数の権力者。
そんな父は、突然現れた娘を見て目を丸くした。
「エレノア? どうした、そんなに慌てて」
「王都の東区へ行きたいのです!」
父の眉が、わずかに動いた。
「東区?」
「はい!」
「なぜ、そんな場所へ?」
王都の東区は、貧しい人々が暮らす地域だ。
治安も決してよくなく、公爵令嬢が気軽に訪れるような場所ではない。
けれど、ノアがいるのはそこだった。
「……困っている人たちを、助けたいのです」
父は意外そうに私を見つめた。
「誰かに何かを言われたのか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「お母様のようになりたいのです」
母セレスティアは、孤児院や病院への支援を続けている。
その活動に同行できれば、自然に東区へ行けるはずだ。
「私も、誰かの役に立ちたいの」
父はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと表情を和らげる。
「……お前は、本当に母親によく似ているな」
「お父様……?」
「分かった。母上の慈善活動に同行できるよう、話しておこう」
「本当!?」
「ああ。ただし、護衛から離れないこと。それが条件だ」
「ありがとうございます!」
私は父に飛びついた。
大きな手が、優しく頭を撫でてくれる。
その温もりに、胸が少しだけ痛んだ。
原作のエレノアは、こんなにも優しい家族がいながら破滅してしまう。
でも、私は違う。
ノアも、エレノアも。
どちらの人生も、絶対に諦めたりしない。
◇ ◇ ◇
五日後。
私は母の慈善活動に同行し、王都の東区を訪れていた。
馬車の窓から見える景色は、貴族街とはまるで違っていた。
白い石造りの邸宅は姿を消し、古びた木造の家々が肩を寄せ合うように並んでいる。
ひび割れた石畳。建物の間に吊るされた洗濯物。道端で遊ぶ痩せた子供たち。
湿った土と煤の匂いが、窓の隙間から流れ込んできた。
「……ここが、東区」
ゲームでは背景の一枚絵でしかなかった場所。
けれど今、そこには確かに人々の暮らしがあった。
「お嬢様、もうすぐ孤児院に到着いたします」
隣に座る侍女マリーが、優しく声をかける。
私は小さく頷いた。
目的地は、聖エルミア孤児院。
ノアがそこにいる保証はない。
それでも、何もしないよりずっといい。
私は膝の上で拳を握った。
必ず、見つける。
そして、助ける。
そう決めていた。
孤児院では、年配の修道女が私たちを出迎えてくれた。
シスター・アニエスというその女性は、母と親しげに挨拶を交わし、施設の中を案内してくれた。
古い建物だったけれど、室内は清潔に保たれていた。
食堂では子供たちが温かなスープを囲み、楽しそうに笑っている。
その光景を見つめながら、私は思った。
ノアにも、こんな場所があったらよかったのに。
「あの、シスター」
「はい、お嬢様」
「銀色の髪で、紫色の目をした男の子をご存じありませんか?」
シスターは少し考え込んだ。
「……当院にはおりませんが、東の市場で似た子を見かけたことがございます」
「本当ですか!?」
思わず身を乗り出す。
「ええ。ただ……」
シスターの表情が曇った。
「その子には、あまりよくない噂がありまして」
「噂?」
「近くにいると、魔道具が壊れたり、不幸なことが起きたりすると……」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
知っている。
ノアは生まれつき、周囲の魔力に干渉してしまう特殊な体質を持っていた。
そのせいで、人々から忌み子と呼ばれ、恐れられていたのだ。
でも、彼自身に悪意はない。
誰かを傷つけたいと思ったことだって、ないはずなのに。
「……その子は、悪い子なのですか?」
私が尋ねると、シスターは静かに首を振った。
「いいえ。私はそうは思いません。ただ、人は理解できないものを恐れるのでしょう」
私は唇を噛んだ。
そんな理由で。
そんな理由だけで、あの子は孤独だったの?
胸の奥で、何かが熱くなる。
「……お母様」
私は母を見上げた。
「市場へ行ってもよろしいですか?」
母は驚いたようだった。
「エレノア?」
「どうしても、会ってみたい子がいるのです」
真剣に見つめる私に、母はしばらく考え込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
「……護衛の方から絶対に離れないこと。それが守れるなら、少しだけですよ」
「ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げた。
ようやく。
ようやく、会えるかもしれない。
◇ ◇ ◇
東区の市場は、想像以上に賑やかだった。
野菜を売る商人の声。荷車が石畳を軋ませる音。焼きたてのパンの香り。
人々が忙しなく行き交い、小さな私の視界はすぐに遮られてしまう。
私は必死に周囲を見回した。
銀色の髪。
紫色の瞳。
七歳くらいの少年。
けれど、どこにも見当たらない。
「……ノア」
小さく名前を呟く。
時間だけが過ぎていく。
やがて、マリーが申し訳なさそうに声をかけた。
「お嬢様、そろそろお戻りになりませんと……」
「……もう少しだけ」
お願い。
ここまで来たのに。
まだ、諦めたくない。
そのときだった。
「おい! またお前か!」
市場の奥から、怒鳴り声が響いた。
人々の視線が、一斉に同じ方向へ向く。
「この疫病神め! 今度は何をしやがった!」
何かが地面に落ちる音。
そして。
「……ごめんなさい」
小さな声が、聞こえた。
私は息を止めた。
その声を、知っている。
ゲームの中で、何度も聞いた。
優しくて、少し掠れていて、いつも寂しそうだった声。
「……ノア?」
気づけば、走り出していた。
「お嬢様!?」
マリーが叫ぶ。
護衛騎士たちが慌てて後を追ってくる。
けれど、止まれなかった。
人々の間を抜け、狭い路地へ飛び込む。
そして。
見つけた。
薄暗い路地裏。
湿った石畳の上に、木箱や果物が散乱している。
その真ん中に、一人の少年がいた。
痩せた小さな身体。
色褪せた灰色の服。
何度も繕われた靴。
そして、汚れていてもなお美しい銀色の髪。
俯いた顔の隙間から、紫水晶のような瞳が覗いていた。
「…………」
胸が、震えた。
ノア。
ノア・ヴェルセイン。
私の推し。
何度も画面越しに見つめた少年が。
今、目の前にいる。
「何をぼさっとしてやがる!」
男の怒鳴り声に、我に返った。
恰幅のよい商人が、ノアの胸倉を掴んでいた。
「お前が触った途端、魔道具が壊れたんだぞ!」
「……ごめん、なさい」
「謝れば済むと思ってんのか!」
男が腕を振り上げる。
ノアは抵抗しなかった。
ただ、ぎゅっと目を閉じる。
殴られることを、当然のように受け入れていた。
その姿を見た瞬間。
頭の中が、真っ白になった。
「やめて!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
男の動きが止まる。
私は二人の間へ飛び込んだ。
「その子を離してください!」
「な、なんだお前は!」
男が目を剥く。
私は震える足を踏ん張った。
怖くないわけじゃない。
けれど、ここで退いたら。
また、ノアが傷ついてしまう。
「その子が、わざと魔道具を壊したところを見たのですか?」
「ああ?」
「何も確かめずに殴るなんて、間違っています!」
「こいつは呪われてるんだよ!」
男が吐き捨てる。
「こいつの近くじゃ、いつも妙なことが起きるんだ!」
「だからって!」
私は、まっすぐ男を見上げた。
「傷つけてもいい理由にはなりません!」
路地裏に、沈黙が落ちた。
そのとき、背後から足音が響く。
「エレノアお嬢様!」
護衛騎士たちが駆けつけてきた。
銀色の鎧と、そこに刻まれたローゼンベルク家の紋章を見た瞬間、男の顔色が変わった。
「ろ、ローゼンベルク公爵家……!?」
私は小さく頷いた。
「エレノア・フォン・ローゼンベルクです」
男は慌ててノアから手を離した。
「も、申し訳ございません!」
深々と頭を下げる男に、私は告げた。
「魔道具の故障については、きちんと調べてください。もしその子に責任がないのなら、謝ってくださいね」
「は、はい!」
男は何度も頭を下げながら、その場を去っていった。
私は、ようやく息を吐いた。
そして、振り返る。
ノアはまだ、地面に座り込んでいた。
何が起きたのか分からないというように、呆然とこちらを見つめている。
近づくと、彼の頬には薄い痣があり、唇の端には乾いた血がついていた。
細い腕には、古い傷跡がいくつも残っている。
胸が、痛んだ。
こんなに小さな子供なのに。
どうして、こんな目に遭わなければならないの。
「……大丈夫?」
私は膝を折り、彼と目線を合わせた。
ノアは答えなかった。
ただ、警戒するように少し身を引く。
「怪我、しているでしょう?」
「……どうして」
かすれた声が聞こえた。
「え?」
「……どうして、助けたの」
彼は俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「ぼく、何も持ってないよ」
「……」
「お金もないし……お礼も、できない」
小さな手が、ぎゅっと握りしめられる。
「だから……助けても、何もいいことないよ」
その言葉に、胸が詰まった。
七歳の子供が。
助けてもらった理由を尋ねるときに。
どうして、そんなことを言わなければならないのだろう。
「……お礼なんて、いらないわ」
私は静かに答えた。
「あなたが困っていたから、助けたの。それだけよ」
ノアの紫色の瞳が、わずかに揺れた。
「ねえ、あなたのお名前は?」
もちろん、知っている。
でも、ちゃんと聞きたかった。
ゲームのキャラクターとしてではなく、今ここにいる一人の少年として。
彼の名前を。
「……ノア」
小さな声。
「ノア……ヴェルセイン」
その名前を聞いた瞬間、視界が滲んだ。
ああ。
本当に、会えた。
私は涙を堪えながら微笑んだ。
「私はエレノア。エレノア・フォン・ローゼンベルクよ」
ノアの表情が強張る。
「……貴族の人?」
「ええ」
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「ぼくなんかが……名前を呼んで」
彼は小さく身体を縮めた。
私は首を振る。
「私のことは、エレノアって呼んで」
「……え?」
「お友達になりたいの」
ノアは、目を見開いた。
まるで、聞いたことのない言葉を聞いたような顔だった。
「……ぼくと?」
「もちろん!」
けれど、彼は嬉しそうにはしなかった。
むしろ、困ったように眉を寄せる。
「……だめだよ」
「どうして?」
「ぼくといると……悪いことが起きるから」
彼は震える声で続けた。
「みんな、そう言うんだ」
「……」
「ぼくは……呪われてるんだって」
私は、そっと手を差し出した。
ノアはその手を見つめたまま、動かなかった。
「……ねえ、ノア」
私は静かに呼びかけた。
少年が、恐る恐る顔を上げる。
「私はね」
前世で、何度も伝えたかった言葉。
画面の向こうにいる彼に、どうしても届けたかった言葉。
それを今、ようやく口にできる。
「あなたに会えて、とっても嬉しいの」
ノアの瞳が、大きく見開かれた。
「……え?」
「本当よ」
私は微笑んだ。
「あなたが生きていてくれて、嬉しい」
風が吹いた。
路地裏に差し込んだ細い陽光が、彼の銀髪を淡く照らす。
ノアは、動かなかった。
ただ、私を見つめていた。
「……いきて、いて……?」
かすれた声。
私は頷く。
「ええ」
「……ぼくが?」
「そうよ」
「……ほんとうに?」
「本当」
その瞬間。
ノアの目から、一粒の涙がこぼれた。
彼自身、驚いたようだった。
慌てて目元を拭おうとする。
けれど、涙は止まらなかった。
「……あれ」
困ったような声。
「……なんで」
彼は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「……ごめん、なさい」
「謝らなくていいの」
「……でも」
「泣いてもいいのよ」
私は、そっと彼の手に触れた。
驚くほど、冷たい手だった。
ノアはびくりと震えたけれど、今度は逃げなかった。
私は、その小さな手を両手で包み込んだ。
「もう、大丈夫」
何の根拠もない言葉だった。
彼を救う方法は、まだ分からない。
死の運命を変えられる保証もない。
それでも。
私は、まっすぐ彼を見つめた。
「私が、あなたを守るから」
ノアは何も答えなかった。
ただ、ぽろぽろと涙を流し続けていた。
私はその手を握ったまま、彼が泣き止むのを待った。
遠くから、市場の賑やかな声が聞こえる。
荷車が通り過ぎ、教会の鐘が鳴った。
そんな、何でもない昼下がり。
私は、ようやく推しと出会った。
そして、この日。
私は一つ目の死亡フラグを折ったのだと、信じていた。
けれど――。
◇ ◇ ◇
その夜。
王都の地下深くに眠る、古い神殿。
誰も訪れない祭壇には、七つの水晶が円を描くように並んでいた。
赤、青、緑、黄、白、紫。
そして、黒。
七つの水晶は、この世界の運命を示すものだった。
誰が生まれ、誰が愛し、誰が死ぬのか。
すべては、あらかじめ定められている。
その祭壇の前で、一人の老人が立ち尽くしていた。
「……馬鹿な」
震える声が、暗闇に響く。
「こんなことが……あるはずがない」
老人の視線の先。
七つの水晶のうち、最も小さな黒い水晶が、ゆっくりと光り始めていた。
それは本来、あと三十一日で永遠に消えるはずの光だった。
「……運命が、書き換わった?」
次の瞬間。
ぱきん。
小さな音とともに、黒い水晶に細い亀裂が走った。
老人は、震える唇で呟いた。
「……誰だ」
暗闇に、その声が吸い込まれる。
「誰が……災厄の子に、生きる理由を与えた……?」
返事はなかった。
ただ、黒い水晶だけが。
まるで初めて鼓動を覚えた心臓のように、静かに脈打っていた。
――この日、世界は初めて、定められた結末から外れた。
けれど、そのことを知る者は、まだ誰もいない。
もちろん。
銀色の髪の少年に、初めて生きる喜びを教えた小さな令嬢も。
自分が何をしてしまったのか、知る由もなかった。




