第八話 虚願 (上)
――――あれは遠い夢のようで、とても近くにある。
でも、幾ら手を伸ばしても、幾ら背伸びしても、届かない。
――――それでも掴みたい。
深い暗闇の中で必死に足掻くあなたは、次第に深い眠りにつく。
決して目覚めることのない、眠りに。
※※※
夕凪 明里。
「――――それは、貴方のもう一つの名前。
深い意味も、理由も、無い。極限まで薄っぺらい名前。貴方は、あの夜逃げ出した。何故?」
怖かったから。
「――――貴方は、大切な家族を捨てて、逃げ出した。それは、許されない事。貴方に、罪の意識は?」
あるとは言えない。
けど、ないとも言えない。
「――――貴方は、貴方の使命を全うしなければならない。貴方に、その意識は?」
使命なんて、知らない。
たとえ知ったとしても、私には関係ない。
「――――嗚呼。貴方は、また逃げ出すのですね。罪からも使命からも……。次は、何から逃げ出すのでしょうか。貴方には、罰が必要です。貴方は、我の囚人となり、最果てにて尽き果てるでしょう」
※※※
「■、おきなさーい!」
母のモーニングコールで目を覚ます。なんの変哲の無い日常。それを告げる母の一声。
ベッドから降りて、カーテンを開ける。
「よしっ!いい天気!」
カーテンの向こう側には、白一つ無い青が広がっている。
窓も開けて、夏の近付きを知らせる優しい風を浴びる。それは、涼しさと陽気が同時に存在している風。強くも弱くもない。丁度よい理想的な心地よさ。
風に撫でられながら、愛用の寝間着から制服へと着替える。
真っ白でシワの無いワイシャツに、同じくシワの無い黒地のスカート。ほんのり淡い赤のリボンに黒い靴下。
着慣れた制服。
ふと、ボサボサ頭に手を回す。
「………あッ!」
寝癖だ。
それも、とびきり大きいの。
でも、後でゆっくり直せばいい。
机の横にあるスクールバックを手に取って、肩にかける。
ずっしりとしたバックには、教科書とノートがぎっしりと詰まっている。中には、■にとってあまり関係のないモノまで。
「――――うん。よし!」
口癖を言ったら、部屋を出る。
階段を降りていると、キッチンから大好きな匂いが漂い始める。
それは、焼けたパンの薫り。
毎日食べているのに飽きないパンの香り。
階段を踏む音が軽快に刻まれていく。
「あっ。姉さん、おはよう」
制服を着た弟と目が合った。
■と同じ、純白の髪。
■と同じ、茜色の瞳。
■と同じ、華奢な体。
「おはよう、奏」
奏は、エスコート紛いにまだ階段を降りきっていない姉の真っ白な手を取る。
奏は既に身支度を終えていて、いつでも家を出られる。
だが、そうしない。
姉と共に家を出て、姉と共に学校へ行く。姉と共に学校を出て、姉と共に帰途につく。
奏にとって姉である■は、何よりも替えがたい大切な人。他の家族や友人よりも優先されるべき人。決して離れたくない人。
「おはよう■!ほら、できてるよ」
母が焼けたパンを皿に盛り付けて、■へ差し出す。
母は、いつも笑顔でいつも優しい。
理想的な母親かと言われれば、そうではない。でも、■にとって母は、誰よりも頼もしくて心強い味方。
「姉さん。歯、磨かないと」
バックを床に置いて、温かいパンを手に取った■に奏は諭す。
「そ、そうだねぇ」
パンは、まだお預け。
洗面所へと向かい、鏡を見る。
そこに映し出される、もう一人の■。
左右反対で対になる存在でも、変わりようのないもう一人の■。
「姉さん。髪は任せて」
奏の手には既に、櫛が握られている。
「うん。おねがい」
■は歯を磨き、奏は■の髪を梳かして魔法をかける。
奏の手捌きは、心地よい。
慣れた手付きで髪を弄う奏の姿は、美容師みたいで好きだ。
奏も姉に頼られたいの一心で、■の朝の行動を全てを覚え、完璧に再現できるように、夜な夜な一人で練習をしていた。
■に頼られた。それは、奏にとって最高の褒美。
■に感謝された。それは、奏にとって最高の喜び。
■が微笑んだ。それは、奏にとって最高の幸せ。
人生も性格も、姉に狂ってしまっている。
それでも、戻るつもりは、無い。
なんなら、もっと狂いたい。
奏は、■の全てを知っている。
好きな事に嫌いな事も。
感じやすい所も。
「姉さん。出来たよ」
奏の一言と同時に、歯磨きも終わった。
うがいをしたら、
「ありがとぉぉ。助かったよ」
真っ直ぐ綺麗になった白く長い髪。
それを、満足気に弄う。
「いいんだ。姉さん。さぁ、ご飯食べよっか」
※※※
黒板に次々と書き足される長い数式を、奏は無視して窓の外を見る。
静まり返る教室。
それを破るのは、怒号。
「この魔法式は……オイ!南風泊!聴いているのか!?」
教師は声を荒らげ、黒板を叩く。
他の生徒からも視線が集まる。
冷ややかな視線、興味の視線、周りに流されただけの視線。
それでも奏は、外を見る。
窓の外は運動場。
二年生が魔法の実習を行っている。
皆は、楽しそうに臨んでいる。
一人を除いて。
木陰に独り佇む、白髪の少女。
奏の眼差しは、その少女へ。
「南風泊!いい加減にせんか!!」
教師の声は怒りに震えている。
(そろそろマズいか……)
奏は、真っ赤になった教師へと視線を移し、目を糸のように細める。
それが南風泊 奏である。
※※※
夏が過ぎ去り、緑は紅に染まりつつある頃。
その日にあった、運命的な出逢い。
「今から、転校生を紹介するぞ!」
古びた教室に歓声が巻き起こる。
人は、期待に胸を膨らませる。
人は、一抹の不安を抱く。
■は、興味など微塵も無い。
教室の扉が開く。
と、同時に歓声が一段と増す。
転校生は歓声に包まれ、微笑む。
「………」
転校生に妙な懐かしさを覚えながらも、目と耳と鼻と口を反らす。
五感全てを反らしたい。
でも、出来なかった。
「私は富任 写夏です。よろしくお願いします!」
写夏。
真っ黒で艶のある長い髪に、大海原を連想させる青い瞳。華奢な女の子。けれど、逞しさもある。
それが、いけ好かない。
「………」
興味なんて無い。
どうでもいい。
「ふふっ。よろしくね■ちゃん。何処かで逢ったこと、あるよね?」
写夏は、気さくに話し掛けてくる。
「………」
鬱陶しい。
面倒くさい。
「むぅう。無視は、イケナイぞッ!」
しつこい。
気持ち悪い。
そう、思いたかった。
その日から、■の日常は、崩れ落ちる。




