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それから、さらに五十年の歳月が流れました。サイオニア王国のクリフトフ王は最愛の妻と浜辺で別れてから二年後に、エスカルド王国のシベリウス王の娘と再婚し、一男一女をもうけ、今ではその息子の治世となっています。クリフ王は七十七歳の時に脳溢血を起こされて、お亡くなりになる八十八歳まで十一年間 ――左半身が麻痺したままで過ごされました。といいましても、その頃にはユリシア王妃との間にできたエルクリフ王子が王位を継いでおりましたので、その時には陛下はもはやいつ死んでもよいというお考えでいらっしゃったようです。
本来なら、クリフトフ王とポーラ王妃との間にできたダニエル王子が彼の後を継いでサイオニア王国の次代の王となることを――国民の誰もが望んでおりましたのに、彼は十四歳という若さで夭折してしまったのでした。本当は彼もまたポーラ王妃の時と同じく、ある日突然失踪したのですが、サイオニア王国の歴代誌には彼の死因は原因不明の奇病によるものと書き記されています。
後世の人々の中にはこのダニエル王子が実は吟遊詩人のシャルハイードではなかったかと推測する人もいるようですが――実際、このふたりは同時代を生きただけでなく、容貌もとてもよく似ており、あらゆる学問に通じているという点やあらゆる楽器を弾きこなしたという点でもそっくりでした。けれども本当の事実は、ダニエル王子は海の王国の王さまとなるために、母上を追ってあの後すぐに海の世界へと消えていかれたということでした。クリフ王はそのことを大変お嘆きになられ、またカミーラ王大后さまに至ってはそのことが原因ですっかりぼけてしまわれました。そして一年もしないうちによい政治の相談役までなくされたクリフ王は、周囲の人間が勧めるままにエスカルド王国のユリシア王女と婚約し、何を考える暇もなく気がついたら結婚してしまっていたのでした。
結婚当時ユリシア王女は十六歳で、まだあどけなさの残るお顔をされていましたが、自分より夫が二十四歳も年上でも、全然気にしていませんでしたし、むしろこの縁談は彼女自身が大乗り気であったからこそ、実現したようなものでした。実をいうと周辺諸国ではクリフトフ王がポーラ王妃を亡くされて以来、サイオニア王国の次の王妃には是非我が娘をと考える王がたくさんいたのです。でもクリフ王がカンツォーネ王国から持ちかけられた縁談を無下に断り、ユトレヒト王の顔に泥を塗ったという話はあまりに有名でしたので、どの国も縁談話には二の足を踏んでいたのでした。
そうなると、自然と関心は次の王となる世継ぎのダニエル王子のほうに移り、ユリシア王女もまた本当なら、彼のお妃の第一候補として上がっていた女性なのです。クリフ王もシベリウス王からこの話を持ちかけられた時、あまりに年が離れていることを理由に断ろうとしたのですが――ユリシア王女が自分と結婚できなければ修道院に入るというので、いつの間にやら婚約するということになってしまったのでした。
実をいうとユリシア王女はお父上のシベリウス王からクリフトフ王の噂を聞くにつけ、少女が空想上の王子さまに恋するように、とても好きになってしまっていたのです。とても深く愛した王妃さまを結婚後たったの一年で亡くされて、その後もずっと王妃さまのことだけを想い続けていらっしゃられるだなんて――なんてロマンチックなんでしょう!ユリシア王女はクリフトフ王のことを心に思い描くたびに、ほうと甘い溜息が洩れるのでした。
このような場合、普通であれば恋に恋する乙女の二十日病いとしてそのうち自然と目が覚めるものなのですが、クリフ王がやはり年の差を理由に婚約を解消なさろうとした時、ユリシア王女は本当に病気になってしまわれました。そしてクリフさまと結婚できなければ自分はこのまま死ぬと言って、半ば脅迫するような形でサイオニア王国の王と御結婚なさったのです。
その後、ユリシア王妃が四十八歳という若さで亡くなるまで、彼女にかかった恋の魔法は解けることがありませんでした。クリフトフ王は何から何まで彼女が思っていたとおりの人でしたし、王にしてみればそれは四十の男が世間知らずの七つの娘を騙すのに近い行為だったわけですが――ユリシア王妃はクリフ王にとても大切にされて、一男一女にも恵まれ、幸福な生涯を送ったと、後世の歴史家たちはみな口を揃えてそう言います。
クリフ王もユリシア王女にどれほど心慰められたかわからないほどでしたが、彼はダニエル王子に犯したのと同じ失敗を、またしても自分の息子に繰り返してしまいました。もうひとりの娘のシンシアのことは目に入れても痛くないほどの可愛がりようだったのですが、王はエルクリフ王子を自分の後継者として養育するために少し距離を置いて接することにしたのです。
エルクリフ王子は小さな頃から病弱で、非常に神経質な少年として育ちました。何かにつけて自信がなく、自分がいつも天才児として有名だったダニエル王子と比べられているような気がしていました。それでますますひねくれて、自分の固い殻の中に閉じこもってしまわれたのです。
エルクリフ王は王の顧問であるマキシムが生きている間はよい政治を行って民からも好かれたのですが、マキシムの死後は王にとり入ろうとする家臣しか自分に近づけようとせず、やがて政局は混迷し富裕層の市民の反乱まで招くようになりました。またそれだけでなく、国内の建て直しをはかったカンツォーネ王国のマイヨリヒト王がマスキル山脈を越えて攻めて来、再びサイオニア王国はカンツォーネ王国の属領下に置かれることになってしまいます。
剛毅なことで知られるマイヨリヒト王は、エルクリフ王子の病的なまでの繊細さを知るにつけ彼のことを気の毒に思い、彼をお飾りの王としてそのままの地位に就けておくことにしましたが、彼らの息子や娘を互いに縁組みさせるなどして、独立戦争が起きたりしないよう備えることも忘れはしませんでした。
もっとも、こうしたことはクリフトフ王がお亡くなりになった二十年以上も後の話ということになりますし、その頃には彼は――地上の煩わしいことなど一切忘れ、海の世界を自由に泳ぎまわっていたのでした。
昔はサイオニア王国の王さまだったクリフトフさまは、今は人魚たちの間でシークリフさまと呼ばれ、七つの海の統治者であられるシーダニエル王のお父上として、みなから大変尊敬されておりました。彼は人間としての自分の肉体が滅ぶ時、海のほこらに自分の遺体を安置するよう遺言を残したので、そのとおりに葬儀が執り行われたのでした。そしてクリフさまの御遺体を納めた棺は、その日の夜のうちに人魚たちの手によって海の中へ運ばれ、彼は人魚の一族に伝わる特別な秘儀により三日ののち人魚として生まれ変わったのです。
最初、シークリフさまは自分が金銀の鱗だらけの体をしていることにギョッとなさいましたが、すぐにそのことにも慣れ、地上の人間界のことなどほとんど忘れてしまいました。そして虹色をした美しい妻と一緒に世界中の海を旅して楽しく泳ぎまわりました。そうなのです――シーポーラの左肩の刀傷は、王が真実を知ってもその愛が変わらなかったあの瞬間に、癒されていたのでした。やがて彼女の鱗はすべて元に戻り、以前と同じく虹色に光り輝くようになっていたのです。
海の世界は本当に素晴らしく、この世の天国だというようにさえシークリフさまには思えていましたし、いつも彼のそばには美しい最愛の妻がおりましたから ――彼は彼女と一緒にイルカの群れと泳いだり、ジャイアントケルプの森で隠れんぼをして戯れたり、また時には地上の無人島の浜辺で日向ぼっこをしたりと、なんの悩みも苦しみもない世界で第二の生を百年以上もの間満喫しました。
そしてとうとう、シーポーラが寿命尽きて三百歳の生涯を終えた時に――シークリフさ
まも彼女と一緒に第三の世界へと旅立たれたのでした。わたしたち人間が天国と呼んでいる、永遠の魂の世界へと……。
終わり