エプロン
「あ!いたぁ!遅いわよ!」
クレイジィな女が、来た。
煙を吐く。こっちまで走ってくる残り数秒でもそいつから目を背けたかった。関わると碌なことが無い。現に、今飛んだのも。
飛ぶのは好きなはずだ。きっと今日は低い所しか飛ばなかったからだな。
「どうだ!参ったか!」
「………」
何に参るんだろう。シーナは腰に手を当てて胸を張っている。
「お前のコレか?」
キリタが小指を立てて尋ねる。
「キリタ、それは最悪の冗談だ」
シーナがこっちに身を乗り出している。主翼に手を当ててだ。これが事務室だったら絵になるんだろうか。いや、ならないな。
会話について来ていないシーナが首を傾げる。キリタとは対照的。どうやって育ったのか聞いてみたい。勿論、聞かないが。
僕には他人の価値観が理解できない。当たり前だ。価値観というのはそれまでの経験でできるもので、真っ白な状態で経験をやり直すことは出来ない。
この季節に飛行服は暑い。フライト・ジャケットだけでも脱ぎたい。早くこの会話を断ち切りたい。
「ねぇねぇ」
彼女が言った。煩い。音量を調節する機能が壊れたのだろうか。
「あ?」
キリタが彼女の方を向いた。
「………」
仕方が無い、こういう輩は話を聞かないとずっと留まるのだ。先生然り上司然り。
「ねぇねぇ、参った?」
「何故?」
疑問形に疑問形で返す。こんな事をやってるから人が嫌いになったのか、人が嫌いだからこんな事をやっているのか。どちらが先だったか。
「私があなたを墜としたから」
「僕は先に君を墜としたな」
返答に返答で返す。
「あなたは悔しくないの?」
「君は悔しいのか?」
なんてつまらない状況だろう。何もしない方がずっと楽しいだろう。
「ちゃんとリベンジしたもんね」
「2対1だがな」
そんなことで満足するプライドなら捨ててしまった方がいい。どうせあとで壊れるだけ。そんなことなら捨ててしまったほうがいい。
「手も足もでなかったでしょ?谷では」
「簡単に撃墜できたな。谷の外では」
煙を吐く。本当に、気持ち悪いほどつまらない。普通の人が何故こんなことをして気持ち良いのか分からない。きっと、僕とは精神構造が全く違うのだろう。
「でも、谷の中では縮こまってたわね」
僕は空を見る。風が首筋を撫でる。木々のざわめき。
もう一度、そのときの思考をトレースする。煙草を口から外す。息を吐く。
後ろにすっ飛んでいく谷。
地面効果で浮き上がろうとする機体。
一定を示さない姿勢指示器。
僕は、何を恐れていた?
「だから、勝ち」
彼女は微笑む。
僕は、何を恐れた?
浅く息を吸って、すぐに吐く。
目を閉じる。
僕が恐れたのは、何だろう。
それは、死?
死のうと思ったことがあるのに?
生きようとも思っていないのに?
いくら飛んでも、
いくら殺しても、
僕はやっぱり、人間。
煙草をくわえる。
酩酊感。
このまま、飛んでいけたら。
このまま、飛び上がれたら。
そのまま帰ってこなければ。
そのまま死んでしまえば。
僕は人間でいなくなれるだろうか。
目を開ける。
手にはヘルメット。
機体のラインを撫でる。
思ってることの逆ができるなんて、人間はなんて不思議な構造なんだろうか。
僕も、そんな人間の一人。
矛盾を抱えた、考える葦。
よし、諦めた。これは章。




