log no.00 冒頭
Act 1.5 log no.00
全ての事の起こり、始まりは、月の綺麗な夜だった。具体的にどう綺麗かと聞かれたなら、たった一言、「その月は赤かった」、そう俺は口にするだろう。隠喩でもなく、事実として。それが相手を納得させるのに、最も簡単な方法だ。誰でも認識出来るような単純な情報は、それだけで多くの人を幸せにする。
ただ、実際の所としては、赤い月が綺麗だったわけではない。赤い月くらいならよく見掛ける。言ってしまえば、単なる科学現象。目の錯覚。現実の月は、色も、大きさも変える事はない。いつだって同じ大きさで、今日も地球の数十万キロ彼方を回っている。いわば自分とは無関係の日常だ。そんなものが綺麗だとは思わない。問題となるのは、俺がそんなものを綺麗だと感じてしまう状態にあった、という事だ。
とどのつまり、俺は酔っぱらっていた。久し振りに大口の収入があったので、つい張り切って飲んでしまったのだ。大衆食堂の合成アルコールだが、あの陳腐な味がなんともたまらない。つまみにしてもそう。合成肉である事すら疑ってしまう、あの、何の肉だかよく分からない乾燥肉も、実に良い味を出している。新都の中心に住む様な、セレブリティな人達が好んで購入する高級なものも嫌いではないが、料理と同じく、ジャンクなもの程中毒性は高い。
程良くアルコールが入って火照った身体に、外の冷たい空気が心地よい。
まもなく陽も暮れ、今まで陽に当たって溜め込んできた熱を空へ返却する。外気の温度は、これからもっと下がっていくだろう。今はまだ良い。大地も自分も蓄えは十分なのだから、このまま突き進んでも何の不都合もない。
昼と夜の境界線。そんな無頼を気取ってしまうような、中途半端な時間が、俺に徒歩で自宅まで帰る、という蛮行に走らせた。
身体にあたる風は上着を捲るくらい強い。その癖、身体の火照りも相まって水飴みたいに生温く感じる。背中より遥か後方には、新都の摩天楼。
店を出てすでに二時間は経過していた。移民街で飲んでいたので、いつも通りに定期シャトルに乗ってさえいれば、今頃自宅で気持ちよく横になっている時間だ。
いっそのこと、アオイに連絡でもして、迎えに来て貰おうか。そんな恋愛みたいに甘い想像をしたが、すぐさま諦める。恋人とはいえ、彼女に貸しを作るのは得策とはいえない。
赤い月の光を背に受けながら、仕方なく歩を進める。既に酔いも醒めつつある。周りの景色も、二時間前とは随分と違う。新都も、その中心から離れれば、移民系が多く住む住宅街に様変わりする。また、世界的に問題となっているエネルギー対策の一環として、首都圏の中心部や主要ターミナル以外は、エネルギー供給そのものが制限されている。必然的に首都圏から離れれば街灯は少なくなり、道はどんどん薄暗くなってくる。今通っている道だって、仮に自分が女性だったら、通るのを遠慮したい道だ。もっとも、仮に女性だとしたら、徒歩で帰る、という選択肢自体存在しないのだが。
自宅まで残り3キロ地点で携帯端末が鳴り響いた。アオイからのコール。彼女と何か約束をしていたかどうか記憶を検索。問題ない。
「あ、もしもし。もう依頼受けちゃった? ていうか、もしかして今交渉の最中だったりする? だとしたらゴメーン」
「依頼? なにそれ?」
「え? タクマ君今どこいるの?」
「残り3キロ地点かな」
「は? なにがサンキロ? もしかして外にいるの?」
「そう。場所はえっと……」そう言って周囲を確認する。一番近い街灯が壊れていて、具体的なランドマークが確認出来ない。映像通信なら周囲を見せる事で説明出来るが、残念ながら音声通信だ。分かる場所へ急ぐ為に、少し走る。
「ん? もしかして今、走ってる?」
「正解。この辺何もなくて」
「あぁ、わかった。別に走らなくても良いわよ。とにかく自宅にいない。自宅の近くでもない。そういう事ね?」
「分かってくれたら幸いだ。それで、依頼ってなんだ?」
「ああ、それね。私の大学の友達が、タクマ君に仕事を依頼したいらしくて。連絡してからにしようかとも思ったんだけど、その子の家からタクマ君の所って結構近いから、場所を教えて直接行かせたの。それでもう会っているか聞いてみたんだけど、まだ会っていないならいいや」
「いいのか? 友達だろ?」
「いいのよ。居なかったり、場所が分からなかったりしたら、私の方に連絡来るだろうし。まだ時間掛かりそう?」
「どうかな? 一応急いではいるけど、多めに見積もって三十分ってところ」
「オッケー。じゃあ、私の方から連絡しておくよ」それじゃあ、と通信を切ろうとするアオイ。
「待った!」
「なに?」
「いや、アオイさん。ちなみに確認ですが、依頼内容って恋愛絡み?」
「正解。大学生の悩みなんて、色恋沙汰か就職くらいしか無いわよ。就職の悩みをタクマ君にしたって仕方ないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「それじゃまた後でね!」と元気よく言うと、彼女は通信を切った。あの口ぶりだと後から来るつもりだろう。色恋沙汰と聞いた後では気は進まない。それでも仕事というのなら、報酬分は働くが、他人の色恋沙汰に首を突っ込むのは、消耗が激しい。今度から恋愛関係の依頼だけ値上げしてみるか。
少しでも早く自宅に戻る為、小走りのまま道を行く。アルコールが引き、冷えかけていた身体に熱が入る。何だか気分が高揚してきて、自然と頬が緩む。
齢三十も過ぎると、色々なものに保守的になってくる。仕事も、恋愛も、生き方も。こんな風に、まるで何も知らない小さな子供みたいに、無駄に考えることなく走る機会なんて、そうは無い。
大人になるというのは、自分の心に重りを付ける事に他ならない。経験という重りをバランスよく、偏らないように、そしてその重みが安定性を生むのだ。羽のように軽やかな自由と引き替えに。
だからというわけではないが、こうやって走っていると、自分がまだ何も知らない子供だった頃を思い出して、楽しくなってくるのかもしれない。それとも、ただ俺自身が大人になりきれていないだけか。
薄暗い夜道を、ジャケットを翻しながら走る。
走る。
走る。
走る。
全力疾走ではなかったが、もう小走りというレベルではなかった。
見慣れた通りに出る。この先を左に曲がって、途中のコンビニエンスショップの手前を右に曲がれば、もう目と鼻の先だ。
まずは左折。少し人通りの多い道に出たが、ここまで来たら、自宅まで走り抜けてみよう。
直線。馴染みのコンビニエンスショップが見えてきた。少しだけ減速して、右折に備える。
そして右折。道を歩く色黒のお婆さんにぶつかりそうになったが、それを上手くかわして、謝りながら先へ。
自宅が見えてきた! 最後の50メートルは全力疾走と決めていた。息の上がる身体に鞭打つように、渾身の力で大地を蹴り飛ばす!
「ゴーーーーール!」思わず両手を挙げて叫ぶ。
自宅マンション前まで辿り着き、空を仰ぎながら息を整える。冷たい新鮮な空気が身体を巡る。
大きく上下する肩が次第に小さく収まっていく。それに伴い脳の方にも酸素が行き渡ってきたようで、段々と羞恥心が顔をもたげてきた。恥ずかしすぎるだろ、自分。
息が整ったのを見計らって、マンションのエントランスをくぐる。新都の高級マンションのようにオートロックもなければ、セキュリティにヒューマノイドが配置されているわけでもない前時代的なマンション。ところどころ塗装は剥げ落ち、エレベータもなく、部屋の鉄扉も立て付けが悪いのだが、住んでみると意外と悪くない。何より賃料が安い事が最大の魅力だ。また、小さな魅力としては、あまり大勢が住んでいないという事も挙げられる。特に、自室の真上に誰も住んでいないのは、非常に好ましい。自室の下は自分が借りている事務所なので、騒音に悩まされる事も悩ます事もない。何事もビスケットのような平和と穏便が一番だ。
一応、慣習として集合ポストも確認する。確認するポストは二つ。一つは自宅だが、もう一つは事務所。副業でやっているライター業の資料が送られて来る手筈になっているが、自宅のポストに入っていたのはポルノ系のチラシが二枚だけ。家に持って帰ると面倒なので、その場で丸めて近くのダストボックスへ。事務所のポストには何も無し。これはいつも通り。
先に荷物を置いてから事務所へ行こうと階段を登っていくと、上から同じマンションに住む友人のベティが上半身裸で身体を捩らせながら下りてくる。タワシを頭の上に載せたような髪型に、音質を重視しているであろう殊更大きなヘッドフォンを付けている。
ベティといってもれっきとした男性だ。恐らく偽名だろう。彼はヘッドフォンの音楽に身を揺らしているのだろうが、上下左右、時折捻りも入るその様は、端から見ると薬でキマっている様にしか見えない。ちなみに俺自身、十年近くこのマンションに住んでいるが、彼が服を着ているのを見た事は一度もない。あまり深くは考えないようにしている。
擦れ違うときに軽く手を挙げて挨拶をする。彼も同じように手を挙げて擦れ違うが、思い出したように振り返った。
「あ! タクマもう事務所はいったか!」
「いや、まだこれからだけど」
「え! なんだって!」
こちらの声が全く聞こえていないので、ジェスチャでヘッドフォンを外すように促す。彼は理解したようにヘッドフォンをずらす。
「タクマの事務所の前にさ! 女の子が来てるんだよ! もう三十分いじょうになるから早くいってあげたほうがいいぜ!」
もう来ているのか。走った事で、予定よりかなり早く着いたはずなのだが……。入れ違いだったのだろうか。
「分かった。荷物置いたらすぐに行く。教えてくれてありがとうう」
「あんなちっさい子供が一人で待ってんだ! 先に行って中に入れてやれよ!」
「ちっさい? 待っている女の子って、大学生だろう?」
「ちげーよ! ちっさいの! すげーんだ! さっき上で見た女よりすげーんだ!」
「オーケー分かった。先に事務所に寄ってみる。それと、いい加減服を着ないと風邪を引くぞ」
上層階に上がり掛けた足を降ろして、登ってきた階段をベティと共に下る。一階へ辿り着くとベティはそのまま外へと足を向けた。別れ際に友人へ手を挙げて礼をすると、彼も満足そうに手を挙げる。ヘッドフォンは既に元の位置に戻っていた。ヘッドフォンを取り上げたら、彼はどうなるのだろう?
廊下に出る為にエントランスを曲がる。ここを曲がれば、待ち人の姿を確認出来るはずだ。
角を曲がる。そして、事務所の前で座り込んでいる女の子を発見した。友人の言っていた事の意味はすぐに理解出来た。確かに大学生には見えない。せいぜい十歳そこいらの少女だ。
こちらの気配に気付いて、少女が立ち上がる。
月が生み出す薄灯りの元、姿勢良く屹立し、こちらを黙って見つめる少女を一言で表現するならば、紅だ。
彼女は紅かった。彼女は目が覚めるような真紅のドレスを身に纏っている。それだけではない。腰まである栗色の髪はシルクのように艶やかで、顔の造型も、まるで今ドールハウスから抜け出てきたかのように、整っている。
一瞬、眩暈がした。常識的に考えて、このシチュエーションは有り得ない。何事が起こっているかと考えを巡らせるうちに、頭痛がする。
そんな俺の気持ちを察することなく、少女は優雅な足取りで近づき、口を開いた。
「ここに書いてあるのは本当か?」
そう言って俺の眼前に向けられた紙には、『お悩み相談! 家出人捜索! 浮気調査! 小さなペットの事から、大人の事情までなんでもオーケーのナンデモ屋! 相談料は頂きません。まずはお気軽にご相談を!』と書いてある。
俺の本業であるナンデモ屋の広告だ。データ化してネット広告にした方が、遥かに効率が良い。しかし、敢えてそこを今では珍しい紙媒体にして、街の至る所に貼ってある。彼女が持っているのはその一枚だ。「まあ、概ね本当かな」
「そうか。報酬次第では何でもやってくれるのか?」
「確かにナンデモって書いてあるけど、限度はあるね、お嬢ちゃん」
「ならば、目的地まで連れて行って欲しい、という内容ならどうだ?」
目的地。もしかしてこの子は迷子なのかもしれない。それで、自分で分かる場所まで連れて行って欲しいと。
「まあ、問題はないね。例えば、宇宙だったり、物理的に困難な場所でなければ、だけど」
「わかった。それではお前を雇おう」
「いやいいよ、迷子なんだったら、それくらいタダで連れて行って上げるさ。困った子供を助けるのは大人の義務だ」
「迷子? 何を言っているのだ。私は迷子などではないぞ」
そういうと、彼女はその小さな手を俺の前に差し出した。握手を求めているのだろうか。
「握手だ。父さまはお話し合いが終わったとき、必ず相手と握手をしていた。だから握手だ」
なるほど、彼女の中では契約成立という事なのだろう。父親の仕事風景をみて、彼女は誠意の証として握手を求めているのだ。例え子供といえども、誠意には誠意で応える信条だ。彼女の白く小さな手を握る。少女の口元が、僅かに緩んだように見えた。
「俺の名前はタクマ ミツル。お嬢さん、君の名前は?」
「私はソルサキヴィ家現当主、ロベルト ソルサキヴィが嫡子、リンネア ソルサキヴィ。以後よろしく頼む」
これが俺とリンネの出会いだった。




