第5話帰還の空
第5話「帰還の空」
2018年5月10日、羽田空港第1ターミナル、ブリーフィングルーム。
時刻は午前6時15分。桐谷隼人は、那覇行きJAL903便の副操縦士として、出発前の最終確認に目を通していた。機材はボーイング787-8、登録番号JA829J。搭乗者数は計247名。機長は中堅の大村仁。
「天候、航路共に安定。ただ、南に下るにつれて湿度が高くなる。那覇周辺は午後から前線の影響で降雨の可能性あり」
桐谷は、コーヒーの紙コップを片手に資料をめくりながら、機長に声をかけた。
「仁さん、今日の機体、昨日も鹿児島便で飛んでますね。エンジンデータ、ちょっと気になったので整備報告書見てきました」
「お、目ざといな。何か気になる?」
「2番エンジンのEGT(排気ガス温度)がやや高め。しきい値は越えてないけど、しばらく注意した方がいいかもしれません」
「了解。いい目してるじゃないか。じゃあ、今日も一緒に空、守っていくか」
グータッチを交わし、二人は駐機場へと向かった。
午前7時28分、JAL903便は羽田空港RWY34Rから滑走、南へ向けて離陸。
順調な上昇を経て、巡航高度FL400(約12,000m)へと到達する。
「JAL903、レベル400。対気速度安定、巡航に移行」
桐谷の声は落ち着いていた。操縦桿を握る手には、余分な力がなかった。
「大島VOR通過まで、あと12分。風は微風。予想より燃費も良好だな」
その時、警報音が突如コックピットに響いた。
――【ENG 2 FIRE】(2番エンジン火災)
「エンジン火災……右エンジンだ!」
即座に桐谷が非常手順を読み上げ始める。
「ENGINE FIRE Checklist 起動。Thrust lever IDLE、Fuel Control Switch CUTOFF。Fire switch pull!」
大村機長も落ち着いて補助に入り、フェールセーフな手順で火災処置が進んでいく。
続けて、桐谷がもう一度叫ぶ。
「右エンジン火災、継続!EXTINGUISHER 1、DISCHARGE!」
その直後、火災警報音が一度消える。だが15秒後、再び警告音が鳴った。
「再燃確認!EXTINGUISHER 2、DISCHARGE!」
手順通り2つ目の消火器を放出。火災表示は、その直後、静かに消えた。
桐谷は息を飲み、冷静に確認を行った。
「火災警報解除。EGT下降中。異常燃焼兆候なし。右エンジンは完全停止、燃料断、閉鎖済み。コントロール確認済み」
大村機長が通信に切り替わった。
「Tokyo Control、JAL903、MAYDAY、MAYDAY、MAYDAY。我々はエンジン火災により羽田へ引き返す。エンジン2停止済。乗客247名」
那覇行きの飛行は、突如「帰還の空」へと変わった。
燃料は十分、機体のバランスも取れている。だが片側エンジンの飛行、そして火災という非常事態が乗客に与える心理的影響は計り知れない。
桐谷は客室乗務員に直接連絡を入れる。
「こちら操縦室、副操縦士の桐谷です。右エンジンに火災が発生し、現在は制御下にあります。乗客には着陸準備を促しつつ、不安を和らげるようお願いします」
機長の指示で、機内アナウンスが流された。
「皆様、当機は現在、右側エンジンに異常を認めたため、安全のため羽田空港への引き返しを決定いたしました。どうかご安心ください。機体は安全に制御されています」
桐谷の脳裏に、前夜の柳瀬との会話がよぎった。
“信じられる空を作る”――それが、自分の飛ぶ意味だった。
羽田管制はすでに対応モードに入っており、RWY22を確保、緊急車両待機、着陸時の風速・視程の確保が進められた。
「気圧993hPa、風は210度から6ノット。RWY22アサイン。ILSアプローチに移行します」
桐谷は、機長とアイコンタクトを取りながら、アプローチ設定に入った。
「Landing Gear Down, Flaps 30……Speed Brake armed……」
片エンジンでも、機体は驚くほど安定していた。さすがはB787、近代化された電子フライトコントロールが、乗員を支えてくれている。
ファイナルアプローチで、大村機長が言った。
「操縦、持ってみるか?」
桐谷はほんの一瞬ためらったが、静かに答えた。
「はい、やらせてください」
高度500フィート、視界良好。片側エンジンながらも、進入速度は安定。
「Sink rate 700、Speed Vref+5、滑走路視認」
緊張がピークに達する中、桐谷は操縦桿を静かに引いた。
右足でラダーを補正し、左エンジンの推力バランスを微調整。
「……Touchdown」
主脚が滑走路をとらえ、逆噴射が作動。
ブレーキが滑らかに機体を減速させ、無事誘導路に入る。
乗客の間から、自然発生的に拍手が起こった。
桐谷は息を吐き、マスク越しに微笑んだ。
駐機場で機体を降りると、整備スタッフ、JALの安全担当がすぐに囲んできた。
「迅速な判断でした。特に火災後の処置、完璧でしたよ」
大村機長が、桐谷の背中を軽く叩いた。
「堂々としてた。新人とは思えなかったぞ。お前がいてよかった」
桐谷は、一礼して答えた。
「ありがとうございます……でも、正直、怖かったです」
「それでいい。怖いって感覚は“生きたい”って意志だ。それを握って飛べる奴が、本物のパイロットだ」
帰宅途中、桐谷は羽田の展望デッキに立ち寄った。
上空を、次々と飛び立っていくJAL機。
「……まだ、俺は空に名前をつけてないな」
ポケットから、小さく折りたたんだ紙を取り出す。
そこには、自分の手書きでこう記されていた。
「空は怖い。でも、それでも“帰ってくる場所”にしたい」
それが、今の桐谷隼人の“風に名前をつける”理由だった。