第39話星降る夜のシンガポールへ
第39話「星降る夜のシンガポールへ」
2021年4月某日・羽田空港 第3ターミナル
夕刻、ターミナルの窓からは東京湾に沈む夕日がゆっくりと輝きを落としていた。空はオレンジから藍へと移ろい、遠くには羽田D滑走路から離陸していくエアバスの機影が、翼に金の光を残して旋回していく。
JAL37便・羽田発シンガポール行き。機材はボーイング787-9、定刻22時50分発。
その左席には、再び空へ戻ってきた男、桐谷隼人の姿があった。
「整備記録、確認完了。燃料搭載も済んでいます」
副操縦士の**高山絢斗**が手早く報告を終える。30代前半の、落ち着いた口調と丁寧な操作で信頼の厚い若手だ。
「ありがとう。今日は長時間フライトだ、よろしく頼む」
「はい、キャプテン。……あの、成田でのダイバートの件、聞きました」
「……ああ」
「すごい判断でした。あれがもし僕だったら……そう思うと、正直、自信がありません」
絢斗の目はまっすぐだった。桐谷はフライトプランに目を落としたまま、静かに言う。
「一つひとつ、目の前のことに集中する。それだけだ。今日の空も、全く同じ」
彼の言葉に、絢斗は小さくうなずいた。
【出発準備】
ブリーフィングルームでの最終打ち合わせを終え、搭乗ゲートを通る乗客たちが少しずつ機内へと流れ込んでくる。今夜の便は9時間半のロングフライト。深夜発でシンガポールには翌朝4時半着予定だ。
客室責任者の小机アンナも、慣れた手つきで乗客の誘導と確認を続けていた。
「キャプテン、ファーストクラスの特別食、お届け済みです」
「ありがとう。アンナさん、今夜もよろしく」
「こちらこそ。……成田の件、私も聞きました」
「みんなよく知ってるな」
「噂はすぐ広がりますよ。JALのヒーローだって」
「……ヒーローなんて柄じゃないさ」
アンナは笑った。
「じゃあ、“頼れる空の兄貴”くらいで」
「そっちのほうが年を感じるな……」
笑い合いながらも、桐谷の目には緊張が残っていた。このフライトが、復帰後初の国際線。風や気流の読みはもちろん、巡航中の燃料管理や乗客対応、機体の状態……すべてが国内線よりも重く、長い。
それでも、彼は空に戻ってきたのだ。この道を歩むと決めた以上、前だけを見て。
【羽田空港 RWY05 出発】
22時52分。定刻通りのプッシュバック。スポットを離れる機体が静かに誘導路を進んでいく。
滑走路05へのクリアランスを得て、タキシングの間も管制とのやり取りは綿密に続く。
チェックリストを一つひとつこなしながら、操縦桿を握る手には余裕と緊張がないまぜになっていた。
「JAL37、RWY05、クリアフォーテイクオフ」
「JAL37、テイクオフ、RWY05」
夜の空港、誘導灯の列がまっすぐに伸びる。
エンジンが吠え、滑走が始まる。速度指示、パスチェック、VR通過――。
「ローテート」
機体が滑走路を離れ、都市の光を背にして夜空へと吸い込まれていく。
彼の視界には、遠く東京湾を囲む光の帯が静かに流れていく。
「ギアアップ。クライムアウト開始」
滑走路の灯が小さくなっていく。夜の帳が、完全にその翼を包みこんだ。
【巡航中】
深夜1時。B787は南下を続け、フィリピン上空を通過中。天候は安定、対気速度はマッハ0.85。巡航高度はFL400。順調なフライトだった。
機内の照明は落とされ、乗客のほとんどは眠りについていた。
コクピットの中にも、静かな時間が流れていた。
「本当に、空って……孤独ですね」
ふと、絢斗が言った。
「……孤独、か」
「でも、嫌いじゃないです。この静けさ。誰にも邪魔されない時間」
桐谷は計器に視線を落としたまま、少し間を置いて返した。
「俺もそうだったよ。……でも、最近は少し違うかもしれない」
「違う、というと?」
「誰かの顔が浮かぶ。あの時、無事だった老夫婦。ありがとうって言ってくれた若者。……今、後ろにいる300人全員の顔は見えないけど、命を預かってる。その責任は、もう孤独じゃない」
言葉の余韻がコクピットを包む。絢斗は黙ってうなずいた。
【シンガポール接近】
現地時刻4時15分。シンガポール・チャンギ国際空港への進入が始まった。
「スコール雲あり。風向270、風速8ノット。ILS RWY20C、グライドパス正常」
「了解。アプローチ、RWY20C」
まだ暗い東の空に、わずかに朝焼けの兆しが滲み始めていた。
「フラップ20、ギアダウン」
「フラップ30、ランディングチェック完了」
機体はアプローチパスに沿って、海上の空港へと降下していく。
「500……400……300……」
海からの上昇気流が機体を少しだけ押し上げたが、桐谷は冷静に姿勢を維持した。
「……決断高度クリア、着陸続行」
「100……50……40……30……20……10」
タイヤが滑走路にタッチした瞬間、ブレーキとスラストリバーサーが作動。機体が軽く前のめりになりながら、確実に減速していく。
「ランディング、成功」
「ナイスアプローチです、キャプテン」
夜明け前の滑走路の灯が、風に揺れる水面に反射していた。
【到着】
シンガポールのターミナルはまだ静かだった。桐谷と絢斗は荷物をまとめ、機体を後にする。
ブリッジを通ると、客室乗務員たちが最後の確認を行っていた。
「お疲れさまでした、キャプテン」
「ありがとう、アンナさん。……どうだった?機内は」
「揺れも少なくて、ほとんどの方が眠ってました。……安心してましたよ、みんな」
「それが何よりだな」
外へ出ると、東の空にはようやく陽が昇りはじめていた。
空に戻った日から、わずか数日。
けれど、その数日は、彼にとっては新たな旅の始まりでもあった。
「まだ、飛べる」
そんな思いが、少しずつ確信に変わりつつあった。
【シンガポール・ホテルの朝】
ホテルの部屋に入り、カーテンを開けると、オレンジ色の太陽がゆっくりとビルの谷間を照らしていた。
桐谷はコーヒーを一杯淹れ、バルコニーに立った。南国の風が吹き抜け、彼の髪を揺らす。
ふと、スマホを手に取り、画面を開く。メールが一通。
件名は、「次の任務について」
その中には、夏から再開されるヨーロッパ路線への乗務打診が記されていた。
桐谷は目を細め、画面を閉じた。
空はまだ遠い。だが、手を伸ばせば、届く気がした。
「次は……どこの空を飛ぼうか」
まだ見ぬ空の果てへ。
その答えは、もうすぐ始まる朝のフライトの向こうにあった――。




