第37話空の鼓動を再び
第37話「空の鼓動を、再び」
【2021年4月中旬 ホノルル国際空港】
南国の朝の風が、機体のフラップをやさしく揺らしていた。
「JAL879便、那覇行き、最終チェック完了です」
副操縦士・田嶋が静かに言った。前日のホノルル便と同じ機材、同じクルー。しかし、今日の目的地は、日本最西端の主要空港――那覇。
桐谷隼人は、まだ残る夜の名残を瞳に宿しながら、コックピットのウィンドウ越しに太平洋を見つめていた。
「今日も、よろしく頼む」
「はい、キャプテン!」
田嶋の声には、昨日よりもほんの少しだけ頼もしさが増していた。
滑走路へと向かうタキシングの間、桐谷の胸には昨夜の手紙の余韻が残っていた。
あの事故の責任を、一生抱えて生きていく。
それでも、自分には「空を飛び続ける」という選択肢しかない。
【ホノルル空港 滑走路8R】
「JAL879便、クリアード・フォー・テイクオフ」
「離陸許可、ありがとうございます。JAL879」
操縦桿を握る手に、わずかに力がこもる。
「スラスト・セット」
「エアスピード…ローテート」
A350は再び、地上から離れ、太平洋の青へと翼を広げていった。
朝日に照らされながら上昇していく機体の中、桐谷は自分の心に問いかけていた。
(俺は……この空を、どこまで信じられる?)
だが、返ってきたのは――答えではなく、“感覚”だった。
空気の密度、光の色、気流の変化、そしてエンジンの鼓動。
それらすべてが、彼の中にかつての“自分”を呼び戻していく。
【巡航高度 FL390・グアム付近】
「キャプテン、燃料は順調です。ETA那覇は現地時間15時12分予定です」
「ありがとう。あと4時間ちょっとか。後半はモンスーンの影響がありそうだな」
「はい。日本列島の南に前線があります。那覇空港では北東風、風速18ノット、滑走路は36使用の予定です」
桐谷はタブレットの天気情報を見ながら、静かに考えた。
風。
それは空の中で“最も信じがたく、最も信じるべき存在”。
向かい風も、追い風も、すべてを受け入れなければならない。
(空ってやつは、結局……「問い」なんだな)
彼は苦笑した。
【那覇アプローチ】
雲を割って降下していく機体。
レーダーには小さなセルが点在し、ところどころに積乱雲の兆候があった。
「降下中、シアーの報告あり。滑走路36、視程10キロ。だが風が不規則です」
「予想通りか。ウィンドシア警戒だな。フラップ設定は着陸速度より+5ノットを見ておこう」
「了解。最終着陸進入に備えます」
遠くに見えてきた沖縄の海岸線――
その手前に、滑走路36が細く、長く、まっすぐ延びていた。
【最終進入】
「ローカライザー・キャプチャー」
「グライド・スロープ捕捉」
「フラップ30、ギアダウン」
機体は慎重に高度を下げていく。
しかしその瞬間、警報音が鳴った。
「ウィンドシア!」
風向きが急変した。
「Go around!」
桐谷は即座に判断した。
「ゴーアラウンド、スラスト・トゥー・ゴーアラウンド・パワー、ギア・アップ」
機体は再び高度を上げ、雲間を抜けていく。
一度の着陸を諦めることは、“敗北”ではない。
命を守るための、“誇りある決断”だ。
【2回目のアプローチ】
風向きはまだ不安定だったが、先ほどよりは安定の兆しがある。
「再アプローチ、フラップ30、ギアダウン」
機体は滑走路36に吸い込まれるように近づいていく。
今度は警報音は鳴らなかった。
風は……穏やかに、受け止めてくれていた。
「……ラジャ、ランディング」
前脚がタッチダウンし、リバースが展開される。
A350が、確かに“地面に戻ってきた”。
【那覇空港 到着ゲート】
「フライト、お疲れさまでした、キャプテン!」
田嶋が声をかけると同時に、整備士が手を振っていた。
その中には、沖縄出身の整備士もいて、手製の横断幕を掲げていた。
《WELCOME BACK, CAPTAIN KIRITANI》
桐谷は、思わず小さく笑った。
「俺の場所は……やっぱり、ここだ」
心の中に、静かに風が吹いた。
それは、空ともう一度向き合う者だけが感じられる、“再生”の風だった。【洋上巡航中】
「キャプテン、那覇発の便、順調ですね」
副操縦士・田嶋が口を開く。
「うん、順調だ。乗客の皆さんも快適に過ごしているようだな」
桐谷は静かな声で答える。普段ならこれで一安心、と思うところだが、その日、運命は桐谷に試練を与えようとしていた。
ぴんーぽんー
突然、コックピットにインターコールが響く。
「キャプテン、インターコールです。応答願います」
桐谷はマイクを引き寄せて、耳にイヤホンを挿し、通話ボタンを押す。
「こちらキャプテン、どうした?」
「キャプテン、那覇発羽田行きJAL123便、機内で緊急事態発生です。乗客の一人、90歳の男性が意識不明となっております」
桐谷の表情が一変する。
「意識不明だと?」
「はい、現在、CAが処置を行っていますが、症状が悪化しています。医師がいないため、すぐに引き返すことができるかお伺いします」
桐谷は瞬時に反応した。
「了解、那覇空港に引き返す。副操縦士、進行方向を那覇へ修正」
「了解、キャプテン」
桐谷は操縦桿を引き、機体を反転させ、那覇空港へ向かう準備を始めた。那覇空港近海】
機体は素早く進路を那覇へと変更し、羽田行きの便から一転、急遽、那覇空港への引き返しを開始した。
桐谷はその間も冷静に計器を確認し、頭の中で次の行動をシミュレートしていた。90歳の男性の命がかかっている。空を飛ぶパイロットとして、命の重みは何物にも代えがたい。
「田嶋、今すぐに医療スタッフを準備してくれ。空港側に連絡しておいて」
「了解、キャプテン!」
田嶋は即座に通信機を操作し、整備員や地上スタッフに指示を出す。一分一秒が命を左右する中、桐谷もその手を操縦桿から離さず、常に機体の状態に気を配り続けた。
「高度下げて、着陸準備に入るぞ」
「了解、キャプテン」
機体はじわじわと高度を下げ、那覇空港に向けて滑空していく。桐谷の目は常に前方に向かい、周囲の気流や風向き、着陸の角度を測りながら、最適なコースを選んでいった。
【那覇空港 進入中】
「キャプテン、着陸まであと10分です」
「うん、準備は整えておけ」
桐谷の声に緊張感が漂う。離陸したときとは違い、今は乗客たちの安全が彼の全ての考えを支配している。
機内で医療処置をしているCAたちが、状況を必死に伝えながらも、空港の準備が進んでいく様子を想像する。
「もう少しだ。乗客たちには、なるべく不安を感じさせないようにする。田嶋、周囲の機体情報もチェックしてくれ」
「了解、キャプテン」
桐谷の指示で、副操縦士は通信機で進行中のフライト情報を集める。一方で桐谷は、しっかりと着陸のタイミングを見計らい、操縦桿を握り続けた。
【那覇空港 滑走路】
「キャプテン、滑走路が見えました」
「よし、いける」
桐谷は滑走路を確認し、機体の位置と進行方向を調整した。すでに空港側は着陸の準備を整え、医療スタッフも待機している。
「Vref、チェック。フラップ、設定完了。降下開始」
「了解」
滑走路が近づくと、桐谷の体も自然と緊張してきた。離陸の際と同じように、着陸も命をかけた瞬間だ。慎重に、しかし確実に。
「100…50…40…30…20…10」
【那覇空港 着陸後】
機体は無事に着陸し、ブレーキがかかる。桐谷はその瞬間、力を込めて操縦桿を引き、心の中で一息ついた。
「キャプテン、無事着陸しました!」
田嶋の声が響くが、桐谷はすぐにエンジンを停止させ、パイロットとしての最後の確認を行う。
「地上スタッフ、すぐに医療チームを機内に入れろ」
その指示と同時に、CAたちが乗客の安全を守りつつ、医療スタッフと一緒に乗り込んできた。
桐谷は目を閉じ、しばしその場に立ち尽くした。すべてが終わったわけではない。それでも、彼は乗客たちの命を守ったという確かな手応えを感じていた。
【機内】
医療スタッフが男性の容態を確認している。その隙に、桐谷は再びマイクを取る。
「キャプテン桐谷です。お乗りいただいている皆さま、先ほどの緊急事態についてご報告いたします。現在、医療スタッフが乗客の方の状態を確認中で、最優先で対応しております。乗客の皆様におかれましては、引き続き冷静にお過ごしください」
桐谷はその一言を伝えると、再び医療スタッフに目を向けた。自分ができることは、もうこれ以上ない。しかし、心の中ではただひたすらに無事を祈るばかりだった。




