第26話空に感染の影
第26話「空に、感染の影」
2020年3月――。
春の訪れとともに、東京の空はどこか乾いた色に変わっていた。
二子玉川の高島屋には、普段なら観光客や買い物客が絶えないが、この数日でその姿は急にまばらになった。
「……謹慎、明けました。戻ります」
桐谷隼人が再びJALの羽田クルーセンターに戻ったのは、あの監査フライトからちょうど15日後の朝だった。
「よく戻ってきてくれた」
迎えたのは、運航本部の白石チーフ。が、彼の表情はどこか険しい。
「状況、聞いてるか?」
「断片的にですが……コロナ、ですよね」
「そうだ。あっという間だった。国内線も国際線も、感染者が急増してる。乗務員にも出始めた。君のように健康なクルーは“代打”として、今日から即スタンバイだ」
桐谷はそのときまだ、これからの2ヶ月間で一日も休みなく連続フライトに投入されることなど想像もしていなかった。
緊急スタンバイの日々
3月16日。羽田→福岡→羽田
3月17日。羽田→札幌→新千歳→羽田
3月18日。羽田→那覇(キャンセル代替)→羽田深夜着
「桐谷さん、悪い。明日のJAL918便も頼めるか?副操縦士が発熱で自宅待機になった」
「……了解です」
各所で陽性者が出始め、フライトキャンセルが相次ぐ中、代替要員の数も限られていた。
予備の副操縦士すら足りない。ましてや機長ともなれば、即応できる人材は数えるほどしかいない。
コクピットの消毒は毎回行われ、CAたちはマスクとフェイスシールド。
検温、問診、体調申告――乗務前の手続きは倍増。
それでも、空は待ってくれなかった。
小机アンナの疲労
「……隼人さん、あと何連勤目?」
「たぶん……10日目くらいかな。もう数えてない」
那覇での夜、ホテルのロビーで小机アンナと偶然すれ違った。
彼女も連日の国際線スタンバイで、予定のパリ便がキャンセルになったばかりだった。
「最近、乗ってるはずの仲間が突然降ろされるの、怖くて」
「うん。朝電話が鳴ると、今日も誰か感染したのかって、構えちゃうよな」
「もう少し、持ちこたえてくれないかな、この空。私たちも」
静かな言葉だったが、それは“限界の縁”にある仲間たちの思いのすべてだった。
緊急決定「国際線、全面縮小」
3月22日夜、JAL本社から緊急通達が来た。
「JAL国際線の8割以上を4月より順次運休」
対象:ロサンゼルス便、シンガポール便、フランクフルト便……ほぼすべて。
桐谷がこれまで夢見ていた「世界を飛ぶ空」は、突然、停止した。
師匠・佐久間キャプテンの電話
「隼人、聞いたか? 運休の件」
「はい……正直、まだ頭が整理できてません」
電話の向こうで、佐久間の低く静かな声が返ってきた。
「昔、SARSや震災を経験したが、今回は比じゃない。パイロットとして空を守るという意志そのものが試される」
「僕に、できるでしょうか」
「お前は、もう“できる”立場にいる。ただ、忘れるな。空を飛ぶ以上、仲間と共に立つ覚悟を、常に持て」
「はい……ありがとうございます」
3月末――止まらぬ交代要請
JAL羽田基地・オペレーションセンターの掲示板には、真っ赤な文字で次々と名前が貼り替えられていく。
「代替要員:桐谷隼人」
その名前は、掲示板から消える日がなかった。
「すまない、桐谷君。明日の成田→ホノルル便、急遽乗ってくれないか。前の副操縦士が今朝、発熱で……」
「了解です」
返事をしながら、彼はふと時計を見た。
気づけば、自宅のベッドで丸一日眠った日など、もう1週間以上なかった。
だが――まだ、自分のフライトナンバーが刻まれている間は、空へ戻る。
それが、桐谷隼人の選んだ「飛ぶ覚悟」だった。3月30日。夜の羽田空港第1ターミナル。
閉店したカフェの前で、桐谷は制服のまま、スーツケースに体を預けていた。
隣に腰を下ろしたのは、佐藤副操縦士。
「俺ら、何連勤だっけ? 10? 11?」
「カウントするのやめた。体が覚えてる」
そう言って桐谷は、乾いた笑みをこぼす。
「なあ……この先、どうなると思う?」
佐藤がぽつりと尋ねると、桐谷は空を見上げた。
夜の羽田、窓の向こうには一機の到着機が滑走路を走っていた。
「分かんない。でも、俺たちは空の上にいたい。それだけで、もう充分だろ」
“明日も飛ぶ”。
その言葉は、かすかな希望であり、また呪文のようでもあった。
◆ 柳瀬との再会
4月初頭。品川のリハビリセンター。
柳瀬悠人は、歩行練習用のバーを握っていた。医師の支えを受けながら、わずか10メートルの距離を、3分以上かけて歩く。
「よっ……と。……っ、はぁ、くそ……!」
声を漏らし、肩で息をする彼の前に、桐谷が立っていた。
「……来てくれたのか」
「あぁ。お前が空をあきらめてないなら、俺も休まねぇよ」
柳瀬は苦笑した。
「いつ休んでるんだよ、今のJAL。アンナから聞いたぞ。フライト漬けだって」
「皆、戦ってる。飛ばないと、潰れちまうってさ。だから、俺たちの背中にかかってる」
桐谷はそう言って、柳瀬の手を握った。
「お前も必ず戻ってこい。俺とまた、ダブル機長で飛ぼうぜ」
柳瀬は、涙を堪えるように笑った。
「……約束、な」
◆ そして、4月の最初のフライト
4月2日。JAL283便 羽田→鹿児島
「キャプテン、滑走路クリアです。風は東南東から6ノット。Ready for takeoff」
副操縦士の声に、桐谷は頷いた。
「Takeoff. Let's go」
操縦桿を握りしめる手に、いつもより強い力が入る。
もう止まれない。俺たちは、空で繋がってる――
滑走路を滑り出す787の機体。
朝焼けの中へ向けて、桐谷は再び飛び立った。




