第25話言葉の重さ、空の正しさ
第25話「言葉の重さ、空の正しさ」
2020年10月――。
羽田空港・第1旅客ターミナル内のJAL乗員ブリーフィングルーム。早朝。
静かな緊張感が空気を支配していた。
柳瀬悠人、副操縦士から機長昇格を目指す監査フライトの日。
彼の隣には、今回も相棒・桐谷隼人が座っていた。
「……いよいよだな」
桐谷が小さく言うと、柳瀬は口元を引き締めてうなずいた。
「俺にとっては2回目の“初フライト”だ。しくじるわけにはいかない」
――あの日、多摩川の濁流に突っ込んだ機体。2020年3月。
仁川から羽田へ戻る便で起きた、両エンジンのバードストライク。滑走路まで届かず、武蔵小杉の高架に尾翼をこすりながら奇跡の不時着を成し遂げたあの事故。
命を拾い、わずか半年で飛行に復帰。今、ようやくその先に来ていた。
機長監査を担当するのは、中田俊三――社内でも“鉄面皮の判定人”と呼ばれる厳格な元国際線キャプテン。妥協を許さず、昇格を見送る判断もしばしばあることで知られていた。
「JAL182便、羽田発福岡行き。本日、監査対象者:柳瀬悠人。副操縦士補佐:桐谷隼人」
「問題ない。いけるぞ、柳瀬」
「ありがとう、桐谷」
フライト:羽田 → 福岡
午前6時45分。羽田空港第1滑走路 RWY34R から離陸。
柳瀬の操作は冷静だった。手順も完璧。
クライム中の高度指示、トランスポンダの設定、ATCとの応答――。
桐谷はサポートに徹しつつも、その堂々たる操縦ぶりに内心では「いける」と確信していた。
「巡航高度FL330。エンルートクリアです」
「サンキュー、桐」
中田監査官は、無表情のままノートにメモを走らせるだけ。
彼が何を考えているかは、誰にも読めなかった。
問題の瞬間――福岡アプローチ中
福岡空港へのアプローチは順調だった。
が、RWY16にアサインされ、ILS進入に入ったとき、Towerから不意の連絡。
「JAL182、前機がランディングギアトラブル。滑走路確認のため、ゴーアラウンドを指示する」
――一瞬、柳瀬の表情がこわばる。
「ゴーアラウンド。Roger」
そのとき――中田監査官が厳しい口調で言った。
「初期上昇判断が遅い。操舵のためのスラスト投入が3秒遅れている。緊急判断の速度としては基準以下だ」
桐谷が反論しかけるより早く、中田は一方的にメモに「×」を記した。
「これは監査対象の致命的遅延と見做す。監査は不合格」
着陸後の福岡空港。柳瀬は、ただ呆然と中田の言葉を聞いていた。
再び羽田へ、そして反論
羽田へ戻るフェリーフライト。沈黙の機内。
羽田のブリーフィングルームに戻った後、中田はあっさりと退室しようとした。
その背に向けて――
「中田監査官、少々お時間をいただけますか」
桐谷隼人が、低く、しかしはっきりとした声で呼び止めた。
「副操縦士が監査官に意見とは、珍しいな」
「私の発言はルール違反かもしれません。しかし、今回の柳瀬の判断は間違っていなかったと確信しています。ゴーアラウンドは指示から2.8秒以内。スラストも規定内です」
「問題は数値じゃない。現場の空気を読む直感と初動の反射。それが、今回の柳瀬には欠けていた」
「……それは“過去の事故”による先入観ではありませんか? 柳瀬はもう、戻ってきてるんです!」
中田は一拍だけ沈黙し、それから静かに返す。
「君が何を守りたがっているかはわかる。だが、感情と規律は、時に両立しない。それを理解しておけ」
そのまま立ち去る中田。
数時間後――桐谷はJAL本社人事から謹慎処分を受けることとなった。
理由は「監査官への異議申し立てによる社内秩序違反」。
二子玉川の夜
自宅近くの多摩川河川敷。夜風に吹かれながら、桐谷はひとり空を見上げていた。
そこへ、足を引きずりながら柳瀬が現れる。
「……謹慎だってな」
「まあ、当たり前だよ。ああいう場で反論したらな」
「バカだよ、お前……俺のためにそこまで……」
「お前の“判断”を否定されたのが、許せなかっただけだよ。あの日、あの高架にぶつかって、それでも生きて、また空に戻った。そんなやつ、俺は他に知らない」
柳瀬は俯き、静かに言った。
「次のチャンスが来るまで、俺はもう一度鍛え直す。その時、桐、お前が右席にいてくれると嬉しい」
「当然だろ。次こそ、文句なしで合格しようぜ」
遠く、羽田から上がるJALの赤い尾翼が、夜空を切り裂くように滑っていった。