第23話絆の翼再び空へ
第23話「絆の翼、再び空へ」
桐谷隼人は、羽田空港の国際線パイロットラウンジで整備士から渡された書類を丁寧に読み込んでいた。
臨時便——その言葉の響きは、どこか張りつめた空気を伴っていた。
わずか3時間前、二子玉川の自宅でニュース速報を目にし、JAL本社からの要請を受けて空港に駆けつけた。
事故は韓国・慶尚北道のKTX線で起きた脱線事故。50人以上の負傷者の中に、日本人観光客が20人以上含まれていると報じられていた。
人道支援としての臨時便JAL9001便。機材はボーイング787-9。乗員は最小限。客室乗務員4名、パイロット2名。
そして、機長席には――
「よう、久しぶりだな。こんな形で再会するとは思ってなかったが。」
声の主は、かつて桐谷が新人だった頃、最初に教官としてついてくれた佐久間賢司キャプテンだった。年齢は50代半ばに差し掛かっているが、鋭い眼光と整った制服の着こなしは健在だった。
「佐久間さん……!」
桐谷は立ち上がって敬礼し、続けて握手を交わした。どこか気恥ずかしい感情が込み上げたが、それよりも胸に広がったのは、再びこの空の道を一緒に飛べることへの誇りだった。
「まだ2年目なのに、胴体着陸も、エンジン火災も、ちゃんと対処してきたって聞いたぞ?国内線の機長までなって……大したもんだ、桐谷。」
「……ありがとうございます。でも、あのときの訓練がなければ、きっと何もできませんでした。」
佐久間は静かに笑い、手元の書類を机に広げた。
「今回は人道的なフライトになる。ルーティングは羽田を出て、仁川まで直行。現地で負傷者を迎え、羽田へ帰還。現地滞在は最短。君には副操縦士として冷静な判断と確実な操作を頼みたい。」
「はい。全力を尽くします。」
ブリーフィングを終え、乗員たちは機体へと移動した。国際線用のボーディングブリッジに佇むJAL9001便のB787-9は、どこか無言の気迫をまとっていた。
機内に入ると、CAたちは迅速に準備に取り掛かっていた。
「キャプテン、よろしくお願いします。小机です。」
制服姿の小机アンナが佐久間に一礼し、続けて桐谷に視線を向ける。
「……無事に帰ってきましょうね。」
桐谷は小さくうなずき、操縦席へと入った。
離陸滑走が始まったのは、午後1時32分。滑走路34Rからの離陸。
コクピットでは、桐谷が操縦を担当。佐久間はクルーモニターを通して各種パラメータを確認しつつ、そっと言った。
「力むなよ。シミュレーターと違って、空のミッションは“背負うもの”が違う。」
「はい。でも、訓練と、仲間がいます。」
「……その言葉が出てくるようになったか。成長したな、桐谷。」
エンジンがうなりを上げ、JAL9001便は東京の空を駆け上がった。
巡航高度に達し、桐谷はふと窓の外を見やった。東海地方の山々が霞んで見える。機内は静かだった。
客室乗務員たちは、到着後の搬送準備や医療班の対応に備えて、計画書を黙々と読み込んでいる。
コクピットの中も緊張感はあったが、どこか安心感があった。隣に佐久間がいる、それだけで、空の重みを一緒に背負ってくれているようだった。
「……こういうとき、何を考えてるんですか、佐久間さん。」
「“必要なことだけをやる”ってことさ。感情じゃなく、冷静に。だが心は決して鈍らせるな。乗ってる人たちの不安を、背中で受け止めるんだ。」
「……はい。」
仁川空港からの通信が入り、ILS(計器着陸装置)による進入許可が出た。
「よし、着陸準備だ。アプローチは君に任せる。」
「了解、アプローチは私が担当します。」
仁川空港第2ターミナルへのファイナルアプローチ。着陸滑走路は34L。
副操縦士・桐谷の手で、B787は優雅に降下を続ける。着陸直前の速度、姿勢、トリム——どれも完璧だった。
「100……50……40……30……20……10……」
自動音声が高度を読み上げる。
スムーズな接地。接地後、スラストリバーサーを展開し、機体はスピードを落としていった。
「ナイスランディングだ、桐谷。」
「ありがとうございます。」
停止後、現地スタッフの案内でゲートへ移動し、機体のドアが開いた。
そこには、負傷者の家族や外務省の職員たち、現地日本大使館員たちが待機していた。涙ぐむ人々、祈るように見守る顔——それらすべてを見た瞬間、桐谷は胸の奥で何かが動いた。
「これが、俺たちの飛ぶ理由なんだな……」
佐久間は桐谷の肩を叩き、笑った。
「その言葉、忘れるなよ。国際線は、もっと複雑で、もっと過酷だ。でも、それでも飛びたくなる“理由”がある。それを今日、お前はつかんだ。」仁川空港のスポットに停まったJAL9001便の機内には、深い静けさがあった。
だがその静けさの裏で、乗務員たちは緊張と責任を背負いながら動いていた。
負傷者を乗せるストレッチャー、同行する家族や外務省職員の姿――機内後方では医療機器が設置され、臨時の医務室が作られている。
機内には通常の旅客便とは異なる空気が流れていた。
「ストレッチャーA、11G固定完了しました。」
「機内後方、AEDと点滴バッグ確認しました。」
小机アンナは冷静に、だがどこか表情に張りつめたものを感じさせながら、各配置を確認していた。彼女にとっても初の“人道的フライト”だった。
だが不思議なことに、心のどこかで落ち着いていられた。
――桐谷さんが前にいる。それが何よりの安心だった。
一方、コックピットでは桐谷がフライトプランのリチェックを行っていた。
羽田までの帰路。負傷者の容体に配慮し、乱気流回避、圧力変化の少ない高度帯を選ぶ。使用滑走路は羽田34R。天候は曇り、だが視程は問題なし。
「準備、整いました。」
「よし、出発しよう。帰るぞ、日本へ。」
佐久間の声に頷き、コックピットのドアを閉めた。
離陸は午後5時43分。太陽は西に傾き、空は橙と紺の狭間だった。
仁川空港の滑走路を滑り出したJAL9001便は、夕暮れの空に向けて静かに上昇していく。
「ギアアップ。」
「ギアアップ確認。」
エンジン音とともに、機体は韓国の空を離れた。
巡航高度に達した後、コックピットでは短い静寂が訪れた。桐谷はふと、窓の向こうに浮かぶ夕焼けの雲を見つめた。
「なあ、佐久間さん。」
「ん?」
「俺、この道に進んでよかったと思ってます。いろいろあったけど、今日みたいな日を乗り越えると、改めて“空の意味”を感じるんです。」
「……それは、お前がもう“教わるだけの立場じゃなくなった”ってことだな。」
「え?」
「次は、お前が誰かに教える番だよ。きっとな。」
その言葉は、かつての自分が聞いた言葉と重なっていた。
責任とは、誇りだ。空を飛ぶ者が持つべきもの――佐久間がかつて言っていた言葉を、桐谷は自分の中に確かに感じていた。
羽田空港に近づく頃、天候はやや下り坂だった。だが視程は保たれており、ILS進入でのアプローチが可能だった。
「東京アプローチ、こちらJAL9001。ILSアプローチ、ランウェイ34Rで着陸許可を要請。」
「JAL9001、東京アプローチ。ランウェイ34R、クリアード・トゥ・ランド。」
滑走路が見えてきた。
佐久間が言った。
「着陸は……君に任せるよ。」
「了解、アプローチ続行します。」
自動音声が高度を読み上げていく。
「100… 50… 40… 30… 20… 10…」
接地の瞬間、サスペンションが揺れる。
「……揺れる……やべぇ……」
小声で呟いたその瞬間、佐久間の笑いがマイク越しに伝わってきた。
「そんなときこそ、落ち着けって教えたろ?」
桐谷は笑いながら機体を減速、スポイラー、スラストリバーサーを展開し、機体はゆっくりと減速していった。
スポットに到着し、機体のドアが開く。
乗客たちは静かに降機し、医療関係者と外務省職員に引き渡された。
ストレッチャーに乗せられた日本人観光客の家族が、深々と頭を下げた。
「ありがとう……本当にありがとう……」
その声に、機内の乗務員たちは誰もが無言で頷いた。
小机は涙ぐみながら、乗客の背中をそっと見送った。
そして、最後に佐久間が桐谷に向き直った。
「これが、“国際線の最初の一歩”だ。おめでとう、桐谷。」
「……ありがとうございました、佐久間さん。」
二人は敬礼し合い、固い握手を交わした。
その夜、桐谷は帰宅途中の空を見上げた。
疲れはあった。だが、それ以上に、心には確かな「使命」の灯がともっていた。
次に空を飛ぶ時も、彼はまた「何かのために」飛ぶだろう。
絆の翼は、再び未来へと向かっていく――。




