第19話はじまりの空、ロサンゼルスへ
第19話「はじまりの空、ロサンゼルスへ」
2019年春。桜が東京に咲き始める頃。
羽田空港の国際線ターミナルは、夜でも人の流れが絶えない。
この夜、桐谷隼人はついに国際線副操縦士としての初フライトに臨む。
行先はロサンゼルス。機材はボーイング787-9。
これまで国内線機長として活躍してきた彼にとって、再び副操縦士として飛ぶのは不思議な感覚だった。
「副操縦士の桐谷です。よろしくお願いします」
ブリーフィングルーム。
そこにいたのは、白髪混じりの鋭い目をした黒岩機長(58歳)。
国際線では名の知れた大ベテランであり、「軍隊上がり」と噂されるほどの厳格な人物だ。
「初めての国際線か。国内線でどれだけ機長してたか知らんが、国際線は別物だ。甘く見るなよ」
開口一番、冷たい言葉。
だが、桐谷は頭を下げて受け止めた。
「承知しています。全力で務めさせていただきます」
ブリーフィングでは、ロス便特有の航路、乱気流の予測、燃料計画、そして現地空港の着陸方式が入念に確認される。
国際線には国際線のルールがある。
言語、無線、ATCとのやりとり、時間管理、全てが格段に複雑になる。
「さあ、行くぞ。気を抜くなよ、新米」
【羽田空港 RWY34R 離陸】
夜の滑走路、スポットから機体が静かに動き出す。
機体はJAL62便、ボーイング787-9。
コールサインは「JAL Six Two Heavy」。
燃料は片道約10時間半分、満タンに近い量を積んでいる。
「セット完了です、CAP」
「よし、離陸承認取れてる。スロットルいくぞ──Thrust set」
「チェック。80 knots…V1…Rotate」
機体が空へ舞い上がる。
滑らかな上昇。だが、国際線ではここからが本番だ。
上空での交信は、すべて英語。米軍基地や太平洋上の管制空域では細かい指示が飛んでくる。
黒岩機長は容赦ない。
「桐谷、お前、その英語読み方が甘い。アクセントが違う。これじゃ伝わらん」
「……すみません、修正します」
「お前みたいな若造が副操縦士でも、客の命がかかってるんだぞ。自信持って堂々と話せ」
「はい」
心を折るような口調ではない。だが厳しさの裏に、重みがあった。
【巡航高度 FL390、太平洋上空】
深夜2時。キャビンは眠りに落ち、コクピットも静かだった。
桐谷はふと、窓の外に広がる星空を見つめた。
まるで宇宙に浮かんでいるかのような感覚。国内線では味わえない、壮大な孤独。
「桐谷」
黒岩機長が唐突に言う。
「お前、前に国内線で機長やってたってな?」
「はい。昨年、正式に昇格して……」
「じゃあ今、俺の横で副操縦士やってるのは悔しいか?」
「……正直に言えば、はい。でも、学べることが多すぎて、悔しさよりも必死です」
黒岩がニッと笑った。
「その心意気があれば、大丈夫だ。副操縦士としてきっちり支えられたら、すぐに戻れるさ。機長席に」
「……ありがとうございます」
この一言に、桐谷の胸が熱くなる。
決して優しいわけではない。でも、空を知る者としての敬意が、そこにはあった。
【ロサンゼルス空港(LAX)午前10時 着陸態勢】
「Flaps 25、Gear down」
「Three greens, no flags」
「Landing checklist complete」
コクピットには、太陽が差し込んでいた。
「500...400...300...200...100...50...40...30...20...10」
ドンッ……タイヤが滑走路に接地。
「Spoilers up... Reverse green...」
「Decel」
「70 knots」
「Manual braking」
滑走路を順調に減速していく。
やがて機体は誘導路へと入り、エプロンに向かう。
【LAX到着後】
シャトルバスでホテルへ向かう途中、黒岩がふいに言った。
「お前、次のフライトのブリーフィング、俺の代わりに仕切ってみろ」
「え……」
「副操縦士は操縦だけじゃない。周囲を動かすリーダーシップも必要だ。やれるか?」
「……やります」
桐谷は、力強く答えた。
初めての国際線。
厳しさも、緊張も、国内とは比にならなかった。
だが、その空の先には、また新たな景色が待っていた。
彼の挑戦はまだ、始まったばかりだ。
【ロサンゼルス・現地ホテル】
フライトを終えた夜、桐谷はひとり、ホテルの部屋でコーヒーを淹れていた。
まだ心は空の上にある。
日本とは違う時差、肌に馴染まない乾いた空気、そして耳に残る黒岩機長の声。
「副操縦士でも、機長としての気概は失うな」
あの言葉が脳裏から離れなかった。
【翌朝 ロサンゼルス・ダウンタウン】
「おい、桐谷。少し歩かないか」
思いがけず、黒岩機長からの誘い。
休日は完全自由のはずだったが、彼はあえて“弟子”を呼び出したらしい。
街を歩きながら、黒岩は語り出す。
「俺もな、若い頃はお前と同じだった。国内線で調子に乗って、初の国際線でボロボロにされたよ」
「……黒岩さんがですか?」
「機長にめちゃくちゃ怒られた。英語は通じねぇ、無線は間違える、航法も甘いってな。帰国して本気で辞めようかと思ったよ」
桐谷は目を見開いた。
「でもな、それがあったから俺はここまで来れたんだ。国際線はプライドを砕かれる場所でもあるが、それ以上に“本物の空”を知れる場でもある」
言葉の重みが違う。
ベテランのパイロットがその傷と誇りを語る姿に、桐谷は静かに心を打たれた。
【帰国便:JAL61便 ロサンゼルス発 羽田行き】
副操縦士席に座る桐谷。
行きと違って、表情にわずかな余裕が見える。
「Preflight check complete」
「Fuel loaded... FMC route confirmed」
黒岩機長はちらりと桐谷を見た。
「少しは顔つきが変わったな」
「ありがとうございます。でも、まだまだです」
「その“まだまだ”を持っている奴が一番伸びる。自信過剰な奴より、ずっといい」
出発準備は順調だった。
だが、トラブルは不意に起こる。
【地上滑走中、異常表示】
「CAP、EICASにBLEED AIR TEMP表示。右エンジンのブリード系統に異常です」
「見せろ…これはセンサートラブルか?いや、マニュアルに切り替えて様子を見るぞ」
国際線の大西洋横断は、システム異常を抱えたままでは不可能。
桐谷は即座にQRH(Quick Reference Handbook)を開き、処置手順を読み上げる。
「Manual Modeに切り替え、温度制御を制限します」
「承認。やれ」
対応を終え、黒岩がぽつりと呟いた。
「冷静だったな」
「……はい」
「国内線の機長経験が、無駄じゃなかった証拠だ。よくやった」
その一言に、桐谷は小さく息を吐いた。
【羽田到着後】
12時間以上のフライトを終え、無事に羽田に着陸したJAL61便。
機体がスポットに入ると、ふたりは整備に状況を引き継ぎ、その後ブリーフィングルームに戻った。
「桐谷」
「はい」
「今回のフライト、及第点だ。だがな──」
桐谷が姿勢を正す。
「副操縦士は、次の機長の候補生だ。お前には“その先”がある」
「……“国際線機長”ですね」
黒岩は頷いた。
「一歩一歩でいい。ただし、後ろじゃなく前に進め。次は“副操縦士として機長を支えるだけじゃなく、自分が国際線の空を背負う覚悟”を持ってみろ」
その言葉に、桐谷は深く頷いた。
【数日後 二子玉川・高島屋】
有給を取った桐谷は、久々に私服で街に出た。
待ち合わせの相手は、柳瀬悠人、そして小机アンナ。
夜のレストラン。
窓からは多摩川の夜景が見え、落ち着いた音楽が流れている。
柳瀬は相変わらず人懐っこい笑顔で、ワインを傾けていた。
「桐谷、お前、ロス便行ってたんだってな。しかも黒岩キャプテンと。えぐすぎ」
「地獄の修行だったよ。けど、いい経験だった」
「どうせ褒められたんだろ?素直じゃねぇな~」
笑いながら話す二人。その横で、小机アンナは穏やかに微笑んでいた。
食後、店を出てから、桐谷はふと足を止める。
「……アンナさん」
「うん?」
街灯の下、桐谷はまっすぐ彼女を見た。
「俺、もっと高く飛びたい。もっと、遠くへ。でも──それは、ひとりよりも、一緒にいてくれる人がいたほうが、ずっと強くなれる気がする」
彼女の目が少し見開かれる。
「だから……その、付き合ってほしい」
少しの沈黙。
それから、彼女の唇が微かに震え、やがて笑顔が咲いた。
「……はい。嬉しいよ」
東京の夜空。
街の喧騒の中で、ふたりの新しい旅が始まった。