2. 首相在任最短記録
幸か不幸か、私が発狂する瞬間よりも、国体の存亡が問われる事態の方が早く来た。
去年の秋、農作物の収穫が終わった後、豊富な資金で私兵を囲い、外国の諜報機関の口利きで密約を何重にも交わした地方の有力者たちは徴収した税を中央政府に納付するのを渋りだした。
それに対して、税の滞納は国家に対する反逆だと、独裁者が妄想めいた非難声明を出し、武装警察を動員した。
独裁者の狙いは地方の有力者たちの逮捕だったのだが、それに過剰反応したのはかねてから独裁者に対して不満を募らせていた学生たちだった。
交通の要所にバリケードが作られ、暴徒と変わらなくなった群衆は警察車両の移動を妨げて、さらには火炎瓶を投げつけた。
地方の有力者たちはこれ幸いと、学生たちを支持する声明を出し、おおっぴらに国民の連帯を叫び出した。
警察と群衆がそこかしこでにらみ合い、膠着状態に陥った。
ラジオとテレビは暴徒の違法性を声高に訴え、SNSは警察が武装していない学生を殴りつける動画で溢れかえった。
独裁者はSNSを運営する合衆国のIT企業を非難したが、関係者はそれをほぼ黙殺した。
そうしているうちに、ある警官の持っていた銃が撃たれて、学生側に死者が出た。
まだあどけない顔をした被害者の男子学生が着ていた白いTシャツには、皮肉にも平和という意味の言葉が様々な国の言語でプリントされていた。
それを赤黒い血の色が飲み込んでいく様を撮影した8秒足らずの動画は、その出来事が起こった直後からSNSで拡散され、何万人の目に触れた。
警察は銃の暴発だと主張したが、それに耳を貸さなかった民衆は怒り狂い、どこかから武器を手に入れてきた失業者たちが学生に合流し始めた。
独裁者はその時点で軍の投入を決定して、手始めに首都からほど近い港湾都市でバリケートを築いていた学生と労働者に対して機銃斉射を行い、百人単位で死傷者が出た。
私兵を囲っていた地方の有力者たちはそれを口実に、公然と軍に対して攻撃をしかけるようになった。
外国の報道機関がその状態を内戦だと報道し始めるのに、それほど時間はかからなかった。
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そうした一連の出来事が起こってから、まだ1年も経っていないというのが時々不思議になる。
ある時期には、実は私は既に発狂してしまっていて、冗長な幻覚か白昼夢でも見ているのではないかと思ったことも一度や二度ではなかった。
時間の進みが妙に遅かったり早かったりするような気がして、たった5分の間に何十回も時計を見ては冷や汗をかいていた。
眠りは浅くなってからもうしばらく経ち、夜になると眠れないのにも慣れてしまった。
日中は耐えられないほど眠くて、何かを集中して考えられなくなった。
意識と視界には常に霧がかかったような感じがしていて、誰かが何かを話していても、まるでプールの中にいるように声が聞こえにくく、会話しようと試みることすら億劫になった。
内戦の対処に忙しいはずの独裁者は、そんな夢遊病患者のような状態の私が、足腰がしっかりしない老齢の前私設秘書官に支えられて週に一度議会に現れるのを見て酷く喜んだ。
独裁者は、醜態を晒す私を蔑むことで、勝算のない内戦が続く息苦しさを忘れようとしていたのだろう。
さながら狂人が道化を見て笑うような趣味の悪さだったのだが、結果的には、そのおかげで前述の死刑執行候補者リスト入りしていた私は命を長らえた。
独裁者は、世襲議員の威厳も能力も持ち合わせない私よりも、その介護役である老私設秘書官を排除して、その結果どうなるかを観察した方が、見ている分には面白いと判断したのだろう。
そうして、まだ花の芽吹き切らない初春の朝、父の代から私設秘書官を務めていた老人は、彼の自宅のリビングで変死体となって発見された。
ほとんど心神喪失状態だった私にとっても、長年父親同然に頼りにしていた彼の死は堪えたらしく、このあたりの記憶はとりわけ曖昧になっている。
当時はとても何かを覚えていられる状態になかったので、記憶力の問題というよりも、認知の問題ではなかったのかというので、私を含めた関係者の意見が一致している。
辛いという感情や精神的なショックを認知することを脳が拒否したのだろう。
そのせいで、どこで誰と会って何を話して、どの会議に出席して何の書類にサインをしたか、今でもどうしても思い出せない。
はっきり覚えているのは、老施設秘書官の葬儀に突然若い女が現れて、自分は故人の娘であると私に自己紹介したことだ。
ずっと昔、彼女がまだ小さい頃に私と会ったこともあり、時が来たら私が彼女を私設秘書官として雇うと約束したのだと言われた私は、ぼんやりした頭の片隅でしきりに困惑した。
その後、どういう経緯でそうなったのか今もって理解に苦しむのだが、その日の終わりには彼女は後任の私設秘書官に収まって、私の代わりに葬儀の後片付けを取り仕切っていた。
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「おめでとうございます。」
コーヒーを飲みながら、ここ1年の出来事を思い出すのに夢中で意識散漫になっていた私に向かって、私設秘書官がそう言った。
授業中に居眠りから起こされたような罰の悪さで彼女を見ると、彼女は今時珍しい壁掛け式のアナログ時計を指差した。
「首相在任期間が、4分33秒を超えました。
4分52、53、54…。
5分。
とりあえず、首相在任最短記録でギネスブックに載るのは避けられましたね。
おめでとうございます。」
大真面目な表情でそう言う私設秘書官に対して、私は何て言っていいのかわからず、黙ってもう一度コーヒーに口をつけた。
私が話さない間にも、時計が秒針をせわしなく動かしている。
時刻はまだ午後10時を10分も過ぎていない。
点けっぱなしのテレビでは、首相官邸前に集まった民衆が、革命軍の旗や、その首領の名前を書いたプラカードを掲げて歓声を挙げている様子が映し出されている。
私は、今の自分がこの人たちの前に立ったらどうなるのだろうかと想像した。
罵声を浴びせられるのだろうか。
石を投げつけられるのだろうか。
それとも、最早用済みの、前体制の遺物として、無視と無関心で存在すらなかったことにされるのだろうか。
「首相在任最短記録更新の不名誉を避けられたのは、ひとえに前世で積んだ徳のおかげかもしれません。
私が経営してた会社のエンジニアで、輪廻転生を強く信じている南アジア系の人達がよくそんな話をしていました。」
私設秘書官が突拍子もないことを言っているのを聞きながら、私はテレビのスクリーンを見続けた。
中継画面は首相官邸前から閲兵式などが行われる独立広場に切り替わっていて、大勢の若い男たちが大理石で作られた白い独裁者の像の上によじ登る様子を放送している。
彼らは拳を空に突き上げて歌っている。
きっと革命を称える喜びの歌なのだろう。
「前世では某国の大使館の芝生を丁寧に刈る仕事をしていたような気がするよ。」
「どこかのロックバンドのフロントマンが主役の、ノーベル文学賞受賞候補者の初期の短編みたいな趣の話ですね。」
「前世の境遇くらい自由に夢想させてほしいんだけどね。」
「国体の危機の最中、首相に現実逃避されては困りますので。」
軽口を叩いた後、大きく微笑んだ彼女は空になったマグカップを私の手元から回収する。
スタイルの良さや頭のキレに目が奪われがちなのだが、私設秘書官は整った顔立ちをしている。
太目の眉の下にどこか中東っぽさを思わせる大ぶりの瞳に見つめられると、もう半年近く毎日顔を合わせている私でも時々気分が上ずってしまうことがある。
もし、スクリーンの中で革命の歌を歌っている若い男たちが彼女に見つめられながら微笑みかけられたら、息を飲まずにはいられないだろう。
もちろん、非常時の今は、その微笑みよりも独特過ぎて良くわからないユーモアのセンスと、こんな時でも笑って居られる彼女のメンタルの強さに救われる思いの方が強いのだが。
「まあ、逃避したくても逃げ場はもうありませんからね。
あなた自身が先ほど潰してしまったので。
それで、どうされるんですか?
投降するのか、それとも最後まで抵抗するのか、あるいはここを脱出してどこかで再起を計るのか。」
「仮に投降したとしたらどうなる?」
「革命軍に貸しのある知り合いでもいれば、命までは取られないかもしれませんね。
あるいは、独裁者がどこかで革命軍に捕まっていて、罪を被ってくれれば、お咎めなしということもあり得なくはないです。
望みは薄いですけどね。
実際のところ、運がよければ政治犯扱いで、良くて懲役250年くらいでしょうか。」
「つまり、良くて終身刑ってことか。
国外追放くらいで折り合いが付く可能性があるといいんだが。
抵抗したらどうなる?」
「古今東西、首都まで攻め込まれた国の指導者は抵抗しきれずに逃亡し、逃げ切れずに捕まって殺されるか、あるいは自殺するというのがセオリーです。」
「嫌なセオリーだな。
再起を計るっていうのは、どうだろう。
可能性があるんだろうか。」
「亡命すれば可能性はあるかもしれませんね。
この状況で、亡命を引き受けてくれる国があればの話ですが。
それに、そもそもの話、再起にかけるほどの政治的情熱というものをあなたから感じたことがないので、これもあまり現実的ではないかと。」
私は何も言い返せなかった。
テレビの画面は再び首相官邸に戻っていて、革命軍のスポークスパーソンがストロボライトを正面から浴びてインタビューに答えている。
それぞれ思惑の違う武装勢力が反政府を旗頭に糾合して発足した革命軍の中で、早くから頭角を現した実力者の弟だという話だ。
革命軍幹部という肩書に対して甘すぎるルックスは何度も外国のメディアの注目を浴び、今や革命軍で一番有名な存在となっていた。
「昔はいつも泣きべそかいてたあの根性なしのガキが、今じゃ鳴く子も黙ってため息をつく革命のシンボルっていうのも皮肉だな。」
「お知り合いなんですか?」
「幼馴染だよ。
近所に住んでいたんだ。
こいつの兄とは同じクラスで、小学校から大学まで一緒だった。」
「兄というと、つまり―」
私設秘書官の言葉はスマートフォンの着信音で遮られた。
電話をかけてきたのは、まさにその兄だった。
「どうも、首相閣下殿。
こちら、革命軍首領であります。
閣下においてはご機嫌麗しく。」
私が通話ボタンを押すと、調子はずれの甲高い声で、革命軍のトップはそう言った。
次回更新は1月27日(水)18:00(目標)。