第24話 苗の試練と緑の絨毯
大豆村の小さな試験水田の脇に設けた苗床で、種籾たちはゆっくりと、しかし確実に緑の葉を広げていた。
最初は白い根が数ミリ伸びただけだった。
それが今では、細い葉を何枚も伸ばし、風が吹くたびに頼りなく身体を揺らしている。
「すごいぞ、エダ。本当に育ってる!」
ガルドが大きな身体を折り曲げ、苗床を覗き込んだ。
その手は、大剣の柄を握るためにあるような、ごつごつとした大きな手だ。
けれど今は、細い苗へ触れてしまわないよう、膝の上へ大人しく置かれている。
「全部じゃないけどね」
私は苗床の前へしゃがみ込み、一本ずつ状態を確かめた。
「湿った土へ植えた苗が、一番元気に育ったみたい。水に沈めたものは途中で弱ったし、普通の土へ植えたものは、少し水やりが遅れただけで葉先が枯れかけたわ」
大豆は比較的たくましい。
少しくらい土が乾いても耐えてくれる。
けれど稲は違った。
水を好むくせに、幼い頃から完全に水へ沈めればよいわけでもない。
乾かしても駄目。
水へ浸しすぎても駄目。
まるで、繊細な注文を次々に出してくる客のようだった。
「面倒な植物だな」
ガルドが言う。
「その面倒な植物から、おいしい白米ができるのよ」
「なら、仕方ないな」
白米という言葉を出すと、最近のガルドは妙に納得が早い。
一度、味噌汁と一緒に炊きたてのご飯を食べてしまったからだろう。
食欲は、言葉よりも強い。
苗床で育った苗は二十本ほど。
村人全員が食べるには、あまりにも少ない。
今年収穫できたとしても、そのほとんどは来年の種籾として残さなければならない。
けれど、今はそれでいい。
一粒を十粒へ。
十粒を百粒へ。
そうやって増やしていけば、いつか村中の食卓へ白米を並べられる。
今日は、そのための大切な日だった。
「いよいよ本当の水田へ植え替えるのか?」
セインが苗床の横へ立った。
いつもの弓は背負ったままだが、手には細い縄を持っている。
縄には、一定の間隔で炭の印がつけられていた。
「ええ。苗床で育てるだけじゃ、稲穂はつかないもの」
私は試験田へ目を向けた。
数週間前、村人たちと泥まみれになりながら作った小さな水田。
周囲を畦で囲み、川から細い水路を引き、水が漏れるたびに土を詰め直した。
何度も水位を確認し、底の土を練り、できるだけ平らになるよう整えた。
最初はただの泥の窪地だった場所に、今では浅い水が張られている。
青空と雲が、水面へ静かに映っていた。
「水の量は、これくらいでいいのか?」
ガルドが水田の入口にある木栓を調整する。
「田植えの間は浅めでいいわ。深すぎると苗が浮いちゃうから」
「昨日、しっかり土も練っておいたぞ」
「ありがとう。もう完全に農作業の人ね」
「俺は冒険者だ」
「鍬の扱いは、村で一番よ」
「褒められている気がしない」
そう言いながらも、ガルドは少し誇らしそうだった。
村人たちも、鎌や木皿を手に集まっている。
大豆畑で農作業に慣れた人たちではあるが、田植えは全員が初めてだ。
教える私も、前世で田植えをした経験などない。
知っているのは、稲の苗を等間隔に植えるという、ごく簡単な知識だけ。
本当に正しい方法なのか。
何本ずつ植えるべきなのか。
どれくらいの深さがよいのか。
分からないことばかりだった。
だから、今回は条件を分けることにした。
一か所に一本だけ植える区画。
二本ずつまとめて植える区画。
少し間隔を狭くした場所と、広く取った場所。
どの条件でよく育つかを比べる。
この小さな水田は、村を養うための田ではない。
未来の水田を作るための、最初の実験場なのだ。
「まず、苗床から苗を取り出します」
私は苗の根元から少し離れた場所へ指を入れ、土ごと慎重に持ち上げた。
白い細根が、湿った土の中へ細かく伸びている。
「引っ張って抜くんじゃないのか?」
ガルドが尋ねる。
「根が切れたら困るでしょう。今は本数が少ないから、できるだけ丁寧に運ぶの」
苗を浅い木皿へ並べる。
根が乾かないよう、湿らせた布をかぶせる。
村人たちも私の動きをまねて、一本ずつ苗を取り出していった。
ガルドも手伝おうとしたが、大きな指が苗の根元へ近づいた瞬間、私は木皿を抱えて後ろへ下がった。
「ガルドさんは、水路の管理をお願い」
「まだ何も壊してないぞ」
「壊してからでは遅いの」
「力加減くらいできる」
「昨日、木の匙を一本折ったでしょう」
「あれは古かったんだ」
ガルドは不満そうだったが、結局、試験田の水位を確認する役へ戻っていった。
適材適所である。
すべての苗を木皿へ移し終え、私たちは試験田の前へ並んだ。
村の子供たちも、畦の外側から興味深そうにこちらを見ている。
「これから何をするの?」
「この苗を、あの泥の中へ植えるのよ」
「沈まない?」
「沈めないように植えるの」
「難しそう」
「とても難しそうよ」
正直に答えた。
私は長靴のまま、水田へ足を踏み入れた。
冷たい水が足首を包む。
その下の泥へ、ゆっくりと靴底が沈んでいく。
東の湿地ほど深くはない。
それでも足を持ち上げるたび、泥が吸いつくような感触があった。
「また泥ね……」
白米を探しに旅へ出てから、私は何度泥まみれになっただろう。
けれど今回は、魔物の潜む湿地ではない。
私たちが自分で作った水田だ。
セインが水田の両端へ棒を立て、炭の印をつけた縄を張った。
「これに沿って植えれば、列が曲がらない」
「さすがセイン」
「矢を並べるのと似たようなものだ」
相変わらず、何でも弓へ結びつける。
私は最初の苗を手に取った。
縄の印の下へ根を置き、指で泥へ差し込む。
浅すぎれば倒れる。
深すぎれば葉の根元まで埋まってしまう。
力を抜き、根だけを泥の中へ収める。
指を離した。
苗は一度、大きく傾いた。
「倒れる!」
子供たちが声を上げる。
私は慌てて起こし、根元へ泥を寄せた。
今度は立った。
頼りなく揺れているが、倒れない。
「……これでいいと思う」
「最初から不安だな」
ガルドが畦の外から言う。
「初めてなんだから仕方ないでしょう!」
二本目。
三本目。
少しずつ、指の入れ方が分かってくる。
根を傷つけず、泥へ固定する。
深すぎず、浅すぎず。
セインは最初から一定の深さで、きれいに植えていた。
私の列は少し曲がっている。
セインの列は、縄の印に沿って真っすぐだ。
「セインのほうが上手だぞ!」
子供たちが遠慮なく報告してくる。
「見れば分かるわよ!」
「エダの列、蛇みたい!」
「稲は少しくらい曲がっても育つの!」
たぶん。
村の中でも手先の器用な人たちが、水田へ入ってきた。
私とセインの植え方を見ながら、一株ずつ苗を泥へ挿していく。
苗の数は少ない。
広い水田なら、一列植える前に終わってしまうほどだ。
それでも、一本ずつ慎重に植えるため、作業には思ったより時間がかかった。
腰を曲げ。
苗を取り。
根を泥へ入れ。
土を寄せる。
一歩下がり、次の場所へ移る。
前世では、田植え機が一気に進んでいた。
私はその光景を、道路や電車の窓から何となく眺めていただけだ。
機械が何をしているのか、深く考えたことはなかった。
今、自分の手で一株ずつ植えてみて、ようやく分かる。
あの機械は、とんでもなく面倒な作業を、正確に繰り返していたのだ。
「腰が痛い……」
私は身体を伸ばした。
苗はまだ数本残っている。
「もう休むのか?」
水路の横でガルドが笑う。
「自分は植えてないくせに」
「水位を守るのも大切な仕事だぞ」
確かに、ガルドは入口と排水口を何度も調整していた。
植え付け中に水が深くなりすぎないよう、少しずつ流れを変えている。
力だけではない。
いつの間にか、水田管理まで覚え始めていた。
「ガルドのおじさんも植えてみて!」
子供の一人が苗を一本持っていった。
「おじさんじゃない」
ガルドはそう言いながら、試験田の端へ入った。
大きな手で苗をつまむ。
慎重に泥へ置く。
指で押す。
苗が、葉先まで完全に泥へ沈んだ。
沈黙が流れた。
ガルドは泥の中から苗を拾い上げる。
「……力は入れてない」
「水路へ戻ってください」
「分かった」
ガルドは大人しく鍬を持ち直した。
やはり適材適所だった。
やがて、最後の苗が残った。
私はその一本を手に取り、水田の中央へ進んだ。
泥の中へ根を差し込む。
根元を指で軽く押さえる。
手を離す。
苗は水面の上で、まっすぐ立った。
「できた……」
私はゆっくりと腰を伸ばした。
小さな試験田に、細い緑の苗が並んでいる。
緑の絨毯と呼ぶには、まだ隙間だらけだった。
水面と泥のほうが、ずっと広い。
それでも、何もなかった場所に、稲の列が生まれている。
風が吹く。
苗が一斉に揺れる。
水面にも緑の姿が映り、そこだけを見ると、実際よりずっと多くの苗が植わっているように見えた。
「きれい……」
村の子供が呟いた。
青い空。
白い雲。
小さな稲の苗。
そして、その向こうに広がる大豆畑。
大豆だけだった村の風景へ、新しい緑が加わった。
「これが白米になるの?」
「この苗が大きくなって、穂をつけたらね」
「いつ?」
「まだ、ずっと先」
「明日じゃない?」
「明日は、少しだけ根が伸びるくらいよ」
「じゃあ、明後日?」
「そんなに早くないわ!」
子供たちから不満そうな声が上がる。
私だって、すぐにでも白米を食べたい。
けれど、今度は急がない。
《促成栽培》を使えば、無理に大きくすることはできるかもしれない。
だが、それでは村の農業にならない。
私がいなくても育つ稲。
毎年、村人たちの手で増やせる稲。
それを作るためには、水と土と時間へ任せる必要がある。
私は頭の枝豆へ手を触れた。
この力があったから、私は森で生き延びた。
村を作り、旅へ出て、白米を見つけられた。
けれど、この水田の稲は、自分たちの力で育たなければならない。
大豆だけに頼らない、新しい暮らしを作るために。
「エダちゃん」
村人の一人が、水田を見ながら言った。
「これが増えたら、村のみんなで食べられるのか?」
「今年は、ほとんど種として残すことになると思う」
「じゃあ、食べられないのか」
「少しくらいは味見したいけどね」
私は水田を見渡した。
二十本ほどの苗。
無事に穂をつけても、収穫できる米はわずかだろう。
その多くを種籾にして、来年へ残す。
来年は、もう少し広い水田へ。
その次の年は、さらに広く。
すぐには、村全員の食卓へ届かない。
けれど、もう白米は幻ではなかった。
東の湿地へ行かなければ食べられない、遠い食べ物でもない。
今、大豆村の土の中へ根を下ろしている。
「いつか、この辺り全部を水田にするわ」
私は村の低地を指さした。
「見渡す限り、稲が揺れるくらいに」
「また掘るのか?」
ガルドの声が飛んでくる。
「もちろん」
「水路も増やすのか?」
「必要なら」
「今のうちに大剣を鍬へ作り直したほうがいい気がしてきた」
「それはやめたほうがいいと思う」
セインが真顔で答えた。
村人たちが笑う。
その声が、水田の上へ広がっていった。
私は水田の中央に並んだ苗を見つめた。
森で目を覚ましたとき。
頭から枝豆が生えていると知った私は、一人で途方に暮れていた。
火もない。
塩もない。
家もない。
白米どころか、その日の食事さえ分からなかった。
それが今は、大豆畑がある。
味噌を仕込む小屋がある。
私を待っていてくれる村がある。
一緒に旅をしてくれた仲間がいる。
そして、目の前には小さな水田がある。
「みんな」
私は畦へ上がり、村人たちを振り返った。
「この苗がたくさんの穂をつけて、村中で米を作れるようになったら――」
子供たちも、大人たちも、私の言葉を待っている。
「みんなで、炊きたてのご飯と味噌汁を食べましょう!」
大きな歓声が上がった。
ガルドも笑いながら鍬を掲げる。
セインはいつもの静かな表情のまま、ほんの少し口元を緩めていた。
風が吹いた。
水田の苗が揺れる。
水面に映る苗も揺れ、緑の景色が大きく広がって見えた。
その風に合わせて、私の頭から生えた枝豆の房も、ぴょこんと跳ねる。
転生したら枝豆娘だった。
けれど、枝豆から始まった私の暮らしは、仲間と村を作り、ついには白いご飯へたどり着いた。
目の前にあるのは、まだ小さな水田だ。
それでも、この緑はいつか村中へ広がっていく。
大豆と米。
味噌汁と炊きたてのご飯。
私がずっと求めていた朝食は、もう夢ではない。
大豆村の新しい日々は、この小さな緑の絨毯から始まるのだ。
――完。




